第86話 傾く世界、或いは加速する秩序

 その青年が職場に顔を出したときに、工場は騒然としていた。

 I−プロテイン粉末の原料――昆虫性インセクトプロテイン――つまりはフリーズドライをする予定のコオロギやカイコなどの飼育タンクに人が足を滑らせたのだと、そんな事故だった。

 落下時にタンクに頭部を強打し、死亡。

 検死はその場で行われ、監視カメラからも事件性はないことは明らかである――そんな点からどうも、葬儀業者までもがこの場に駆けつけたらしい。

 ……葬儀業者というか、遺体処分業者だ。


 元来なら家族や関係者と故人の間での別れが済まされるようだが、手配された業者はすぐさまにその遺体を持っていこうとしている。そんな契約がされていたので手続きを進めていると訴えていた。それで、工場長と揉めていた。

 衛星軌道都市サテライトでは、疫病以外の死因による死者は検死後に事件性がなければ液体窒素によりフリーズドライされ、破砕されて堆肥となり循環していく。

 代わりに、故人が体内に入れていた金属――歯科治療や骨折治療など――は肥料とする工程で取り除かれ、それが十字架他のモニュメンタリーとして成形される。それがこの宇宙における埋葬方法だ。

 それでも通常、ビューイング――通夜――や葬儀は行われるものだが、どうにもそれを行えないたぐいの廉価な業者と契約していたそうだ。葬儀業者と保険業者の提携型。生前の保険費用の低価格化のために、速やかに堆肥化する契約を盛り込んだもの。


「……どこもキナ臭くなってるっスね」


 敗戦からの復興のために、社会はインフレと貧困が深刻に進んでいる。それがそのような業者の台頭や契約を生み出したのだろう。

 ……或いはそも、真空の宇宙に人が住もうとしたことが過ちだったのだろうか。

 酸素は資源衛星や月面からでも酸化物の還元という形で入手可能だが、アミノ酸等の合成――つまり農業や畜産――に必要な窒素の多くは、地球大気からの輸入に頼っている。

 ガンジリウムを利用した低コスト推進力の宇宙船によって木星のアンモニア雲や土星衛星のタイタン、海王星衛星のトリンなどから窒素採取するという計画はあるものの、兵器転用可能なそれら艦船の作成には未だに多くの制限が加えられ、衛星軌道都市サテライトの下では実現には至っていない。


 三年――……。


 それは人々の不満を醸成させ、再び火を点けるには十分な時間なのだろうか。

 その青年はオレンジ色の前髪の下で喧騒を眺め、そして人混みを避けるように更衣室へと向かっていく。

 真空は、どこまでも寒々しい。

 ここは、人類が望んだ新天地や開拓地ではない――の彼には、そう思えてならなかった。



 ◇ ◆ ◇



 『何故あの戦争は起こったか』――マルコシアス・ハンプシャー著より引用。



 何故戦争に発展したのかを語るにあたって、まず大切なことはなんだろうか。

 政治的な信条、民族的な心情、地政学的要因……多くの諸君が連想するだろうそれら以前の問題として、決定的に必要な要素がある。

 それは、『戦争が可能であること』だ。

 即ちは兵器の保有――ではなく、決定的な産業インフラを他者へと依存しないこと。より簡素に言うならば、この場合は重工業の能力であった。兵器を作成するだけでなく、その住処である居住区ボウルという最も基本的なインフラを独力で成立させるための能力。

 元が世界連邦政府の植民政策や宇宙開発政策から始まっていた衛星軌道都市サテライトは、地球衛星軌道を足がかりに月面まで到達し、ついには都市を形成するに至った。


 しかしながら、ガンジリウムを利用した力場による推進が成立する今日以前にあっては、地上からの物資の打ち上げというのは――磁気浮上鉄道インダクトラックという技術を加味してもなお――高価なものであった。

 それ故に、月面にて居住区ボウルの補修や製作を行えるように重工業を担う各社が支社を置く。

 世界連邦の下、生活必需品から軍用品までをも一手に手掛ける超巨大企業メガコーポオニムラ・インダストリーの支社オニムラ・インダストリー・スペース。

 人材派遣業や人材育成業分野における巨大企業ミタマエ・スマイルズ社から、介護ロボット・作業ロボット派遣業の延長で機械開発に携わったカネトモ・ロボット・アソシエーション。

 他に旧ユーロ圏を本社とするホリゾン・イン・コンチネンタルから別れたフリートウッド&ホーソンベリー社、老舗メーカーであるハリーホーク社など……。

 今日では吸収合併により見えなくなってしまった会社も多いものの、衛星軌道都市サテライト成立の前提となる企業の多くは、そのようにして宇宙に根ざし始めた。


 やがて資源衛星B7Rの到来後には、地球の人々に、これら軍事にも繋がる重工業を制限するという発想は失われていた。

 これは利便性や効率性の追求というより、まず一点は環境変動に伴う要因――即ち、度重なる災害による危機で世界連邦制度が崩壊し、その混乱の中で宇宙への統一的な支配が行えなくなっていたこと。

 そして大災害の混乱から立ち直り生息四圏がようやく成立する頃には、既に宇宙と地球での分断は進み独自路線が取られてしまっていた。

 他には各種重工業関連会社による働きかけという面も強い。特に企業主体で構成された都市――空中浮游都市ステーションの中には、その独自の自衛力とは別に保護高地都市ハイランド海上遊弋都市フロートヘ高額の軍事契約を行うものもあった。これが、災害復興後の不況や制限下の経済においては、見逃せないものであった。

 やがてフリートウッド&ホーソンベリー社、ハリーホーク社、カネトモ・ロボット・アソシエーション、そしてオニムラ・インダストリー・スペースを離れた技術者たち――によって成立したゼロ・レイナーク社が、衛星軌道都市サテライトにおける有力な重工業系三大巨大企業としてその後の戦争兵器の作成に関わっていく。


 そんな産業インフラ基盤の自給力。

 それこそが、何よりもあの戦争において最も大きな要因となったというのは言うまでもないだろう。


 そして今……。

 保護高地都市ハイランドの独自重工業・兵器産業のユナイテッド・ハイランド・ナショナルインダストリー社は技術力こそ革新的に得たものの、その工場の多くを戦火により焼き払われ、そして戦争で蓄積したガンジリウム技術は未だ民生品への転用が困難なために今後は斜陽に向かうだろう。

 一方の戦争技術――あの戦争にて最も保護高地都市ハイランドを苦しめたと言っても過言ではないゼロ・レイナーク社は解体され、その技術はオニムラ・インダストリー・グループとルイス・グース社が受け継いだ。

 保護高地都市ハイランドに本拠地を構えているにしろ、その企業的な実質的な本拠地は空中浮游都市ステーションにあると言っても過言ではないオニムラ・インダストリー。空中浮游都市ステーションを基盤に各地から人員を募った多国籍企業リベルタリア・インダストリ社を前身としたルイス・グース社。

 これらは決して、保護高地都市ハイランドだけを対象とした産業インフラとは呼べない。


 更に空中浮游都市ステーションの空中農場を基盤に兵員や人民への食料物資輸出を通じてさらなる成長を遂げたガイナス・コーポレーションや、両国への衛生品販売により繋ぎを作ったサー・ゴサニ製薬。

 それら輸送の警護人員を担ったミタマエ・スマイルズは戦後に退役軍人の受け皿となり、更に海上遊弋都市フロートのヒトゴミ・スタッフサービスを吸収して超巨大企業メガコーポミタマエ・エンタープライズとして覇を唱える。

 戦争による経済の成長とは旧世紀に見られた妄想の異物であるが、直接的に戦争に参加しない勢力にとっては必ずしもその限りではないのだ。


 最早、勝利者となった保護高地都市ハイランドはその戦争インフラ能力――とも言うべき力を戦いによって崩され、その衰退についても遠い未来の話ではないだろう。


 これらの力を独自に持たずに互いに依存し合うことが統一的な平和に繋がるのか、それともまた新たなる支配構造の確立となるかは現時点では知れない。

 しかしながら、いずれ、それら超国家主義的な企業こそが覇を唱える――そんな時代が到来することは決して起こり得ない話ではないのだ。

 その摩擦、その対立。

 或いはそんな物語こそが衛星軌道都市サテライトの掲げた『統一された一つの宇宙の民』という神話との衝突を迎えたのだろうか。

 しかし実際は、そんな時代に対する針を進めることに繋がったというのは、なんとも皮肉的な話だろう。


 そして――

 


 ◇ ◆ ◇



 黒鉄色の昆虫じみた駆動鎧は、圧縮空気圧と油圧の並行型で使用者の動作の補助を行うが……肌感覚の異なりか、若干、奇妙に反応の悪さを感じるものでもあった。パイロットスーツの上から着用するには、強化外骨格エキゾスケルトンはどうにも取り合わせが悪いのかもしれない。

 類まれなるラモーナのその感覚によって、強化外骨格エキゾスケルトン使用者指定コマンドロックは既に解除されている。自分のような部外者でも着用は叶う。

 そして――目当てのものは、確保されていた。


 アーモリー・トルーパー:UHN-797【ハンプティ・ダンプティ】。


 眼の前に片膝をついたマッシブな宇宙服めいた――或いはどこか直立した甲虫を思わせるその機体の損傷は薄い。

 遮断隔壁の破損の心配をしてか、爆破解体までは行われなかったようだ。分解すらも――……それほどまでに時間がなかったということだろうか。

 なんにせよ、これで、如何様になるにしても最低限の脱出のための機材は揃った。

 あとは先程のあの襲撃の真意を――つまり、あの老人と一応は交わした取り決めがまだ有効であるかを念の為に確かめるべきか、そう考えているときだった。


「それで、首尾よくことは進みましたかね。破壊屋ブレイカーさん」


 背後からかけられた声。

 振り返り、些か面食らった――気持ちになった。何というか、あまりにも典型的なレトロ趣味であったのだ。スーツと、丸サングラスと、帽子。旧歴でも珍しいほどのあからさまな探偵ファッションの長身の男がそこにいたのだから。


「おっと、撃たないでくださいよ。流石に死に顔すら残らない弾丸は勘弁だ。見ての通り、しがない事件屋ランナーなんですから」


 身振り手振りで表す彼は、黙っていれば言葉を続けた。


「考えましたね、あの爆破。そりゃあ施設内の不審火なら多少は御目溢しもできるでしょうが……切り離せない隔壁の外となれば流石に行政も長くは黙っていられない。おかげさまでこっちもドサクサに紛れられて何よりです」

「……回答を?」

「ええまあ……確かにお兄さんが、本当に並の戦力じゃどうにもならない化け物ってのはよく判りましたとも。その点で言えば、十分な力は示して貰いました」


 本気なのだろうか、どうか。

 本気でこちらを殺害するだけの暴力を叩き付けられたと思ったが――……こうして交渉に人を使わせるあたり、それもテストの一環だったのか。テキサス・ホールデムで賭けを行う前にカードを捲るような――……。

 或いは、どちらでも良かったのかもしれない。討ち取れるなら良し、仮にできなくても腹は痛まないか。あの装備の情報を示されたことから鑑みるに、老人のところの私兵ではないのだろう。

 何にせよと彼を眺めれば、勿体ぶったように肩を竦めた。


「……ところが、色々と不味いことになってるんですよ。お兄さんをここから出す訳にはいかなくなった」

「それで、先程の戦力か。……了解した」

「ちょちょちょ、話は最後まで聞いてくださいよ!? もっと平和に行きましょう、平和に! そりゃあ、おれの命は買われるだけ安くても、おれにとっては高いんですよ!?」

「……」


 ここで撃たれると思ったらしい。どうにも危険人物と見做されているようだ。……理性的と自認しているのだが。


「港が閉鎖されてます。……不味いことになってるんですよ。今、宇宙は大混乱だ」

「……」

「ええと、話を進めますね? ……わかりにくいなこの人。十二月二十四日の終戦記念日があるじゃないですか。あの戦争の……どうもその戦没者追悼式で――一騒動あったらしいんです。騒動というか、大規模な戦闘が」

「……何だと?」


 それは、完全に初耳だった。

 終戦記念日を狙ったテロなど、あまりにもメッセージ性が強い。逆説的に相応の警備体制や警戒体制が取られるものであるが……。


「やったのは、【ハシバミの枝ヘーゼルアスト】か? 【衛士にして王ドロッセルバールト】にそこまでの力があるとは思えないが……」

「いや、それがですね……というかお詳しいんですね、お兄さん」

「勧誘された」

「はあ……ええ、はあ、そうですか……」


 こちらを値踏みするような茶髪の青年の目線。


「ええと、アステロイドマイニングって言ってわかりますかね?」

「資源小惑星を牽引して、地球近傍でレアメタルを採掘する事業か。古くからあるが、力場を利用した航法のおかげで安価に実用可能になったと聞く……まさか……」

「そうです。メインベルトからわざわざ引っ張ってきて、終戦記念日に到来する予定だったその小惑星をぶつけたんですよ。艦隊と要塞へ。規制が敷かれちゃあいるが、もうだいぶ無茶苦茶なことになってるようでして……ルナリアアークこっちはさておき、ナイツアークあっちラウンドアークむこうじゃとんでもねえそうですぜ」


 戦争を経て蓄積されたガンジリウム技術の、民間転用――言わば戦後の象徴とも呼べる事業を利用してそんなものを実行されてしまえば、面目は完全に潰れただろう。どの程度の被害を生み出したにせよ、実現できてしまったというそれ自体が社会秩序への打撃となる。

 そして如何に箝口令を敷こうとも、相手側は宣伝する。

 封じようとしたところで――その封じるという行為それこそが余計に民衆の不信を煽り、或いは言論弾圧だという声を上げるきっかけになる。政府と民衆への分断工作。相手にとってはもう十分すぎる戦果だ。


「それで港ってのが封じられちまってましてね。もう、ほとんど自由移動ってのは叶わなくなってる。……元よりこっちへもそれをやるつもりではいたんでしょうが」

「……言い訳が用意できなかったところに、俺の行動か」

「でしょうよ。お兄さん、体よく利用された形になりますね。……ともかく、今、ここから出ようとしたら漏れなくテロ容疑で撃ち落とされかねないんでさ」

「……そうか」


 こちらの市民に余計な迷惑をかけただろう。そのことに侘びたい気持ちもある。同時に、あのような質の低い士官ばかりを宇宙に配置したのも――当たり屋のような言い訳作りをする一環かと認め、何とも言いようのない気分になった。

 初めから、弾圧ありき、戦闘ありきで作られているのか。

 秩序の維持を行う側の兵が、秩序の維持の権能を拡大するために、その秩序を乱しにかかる。

 それは果たして正当なる秩序と言えるのか――その理念に対して、市民に対して、社会に対して、恥ずべきところはないと言えるのか。


(……人は恨みを忘れない。。そうして抑えつけたところで、余計な火種になるだけだろうに)


 元より保護高地都市ハイランド衛星軌道都市サテライトの間には、あの戦争へと発展するだけの――終戦まで継続されるだけの摩擦があったのだ。

 そこに、火に油を注ぐ行為。ガソリンの火薬庫で火花散る作業を行い続ける行為。

 実力にて抑えつけられる今はいいとしても、いずれそれは大いなる爆発を起こすと――そう思えてならなかった。この都市に来てから、マクシミリアンにかけられた言葉がリフレインする。秩序側に属する【フィッチャーの鳥】の所業は、秩序に対する反抗にも等しいのだと。


 責任あるなら、秩序の下に忠誠を誓ったなら、自由と公正と博愛の旗に誓ったなら、それを見過ごすことは果たして是であると言えるのか――……。


 そう、彼から投げかけられた言葉を幾度と考える。

 考えるが、今は、答えは決まっていた。

 いずれ訪れてしまう破綻を呑み込むことはできないが――それでも何より、今は、対一〇〇〇〇〇〇機ハンドレッドサウザンド・オーバーと語られるアーク・フォートレスの存在がある。

 世界を焼き尽くす炎。

 人類種に対する決定的な殺戮の怪物。

 何にもおいてそれを取り除かねばならない。そのための任務から外れるというのは、己には選べぬのだから。


「ということでまあ、お話に。申し訳ないですがね、状況が随分と変わっちまってるんで……大人しく付いてきて貰ってもいいですか? ……一応言っておくと、おれはしがないチンケな事件屋ランナーですんで人質にとっても無駄ですよ」


 思索から覚まさせるように、探偵然とした男が告げた。

 やはり、あの襲撃は損切りだったのだろう。オーグリー・ロウドックスに協力するだけの口実も利益も失われた。あの老人は、相応に商人だったという訳だ。元より無理を頼んだ自覚もあるので、仕方ないと言えた。

 ……そうなれば、言えることは一つだ。


「そうか。……こちらは問題ない。備えている」

「……ええと、というと?」

「礼儀として話は通したが、あくまでもこちらの脱出が第一義だ」

「……あの、つまり?」

「ここから出る方法は既に確保している。……何も問題ないということだ」


 僅かに目を見開いた事件屋ランナーが、呆れ混じりで呟いた。


「……アクション映画キネマの主役ですか、あんたは」

脇役モブだ。どこにでもいる規範的を心がける軍人――元軍人だと、そう自認する」

「……生身で強化外骨格エキゾスケルトンをぶちのめす人間には、画面のあっちじゃなきゃ、こちらもそう多くは心当たりがないんですがね」

「認識の違いではないだろうか」


 知っているだけで自分も含めて両手の指で数えられる程度にはいる。そう珍しいことでもないだろう。


「とにかく、話は済ませた。……この先俺は、月面の赤道付近に向かうつもりだ」

「ええと……ええ、いや、それ言っていいんですかい? こっちは助かりますけど、あの……え、いや……というか本気で脱出を……?」

「痛くもない腹を探られても上手くはないだろうと、そちらに気を払われた。その返礼だ。……どのタイミングで明かして貰っても構わない」


 語るうちに、冗談や威勢ではなくこちらが本当に脱出手段を確保している――その認識を固めたのだろう。青年の顔に、焦りが浮かんでいた。

 最低限の礼儀として彼を使わせたが、おそらくは鎮圧用の兵力も用意しているか。自分なら、先程の襲撃を鑑みて最低でも倍の二個小隊は用意する――施設外に待機させているか。施設内にもう入れたか。

 この会話は、部隊の配置のための時間稼ぎだろうとあたりを付ける。ラモーナを見れば、小さく頷いていた。

 故に――最終通告を開始する。


「火災に際して、区画ごと遮断し真空下に繋げることで対処するようになっている――つまり、ということだ」

「――っ、不味いッ! 早く――」


 男が声を上げるのに合わせて、ラモーナがこちらの腕を引く。そのまま跳んだ――彼女を抱き上げながら。

 路面で火花が散る。跳弾。銃撃。ガンドローンか、施設からの狙撃か、それとも超長距離狙撃か。

 いずれでも構わない。そして最後のものに関しては、遠心力を以って疑似重力を発生させている居住区ボウル内ではコリオリ力が強い影響を与える――つまり弾道補正が酷く手間であることを意味する。

 次弾が降りかかるよりも先に疾走する。強化外骨格エキゾスケルトンのパワーブースト。自動車めいた速度で駆け抜け、三角跳び。【ハンプティ・ダンプティ】のコックピットに飛び乗った。


 既に待機状態にさせていた機体のコックピットに光が灯る。強化外骨格エキゾスケルトン越しに脊椎接続アーセナルリンクを済ませた。脊椎から伝わる電気刺激。鋼の巨人が、己の肉体と化す。

 ラモーナをシートへと座らせ、強化外骨格エキゾスケルトンの関節をロック。奇妙な中腰の姿勢で、骨格鎧は加速圧への拘束具となる。


 目指す先は、燃える倉庫。いや――燃えていた倉庫と言うべきか。

 強度に優れる強化外骨格エキゾスケルトンの死体をつっかえ棒にしたその倉庫の入口はまだ開いているが、窓などは既に防炎閉鎖シャッターが降りた。その入口さえ閉じてやれば、すぐに施設は真空消火を開始する。

 機体の表面装甲で散る火花。降り注ぐ弾丸は、しかし、この人型重機へのなんの障害足り得ない。


「――メメント・モリ、脱出を開始する」


 あとはそのダクトを粉砕するのみだと、膝をついたハンプティ・ダンプティの長脛の車輪が煙を上げる。

 この道を阻むものはいない――否、立ち塞がるなら斬り捨てるだけだ。

 折り重なった死体を蹴散らして、鋼鉄の重機が業火の倉庫へと飛び込んだ。



 ◇ ◆ ◇



 その居住区ボウルは、杯を上下に二つ向かい合わせて接合させた白い卵のような形状をとっている。

 いわゆる聖杯――と言われて人が連想するような杯。遠心力にて疑似重力を発生させるという構造から、そのような形になったのだと聞く。

 その杯の、球面が弾け飛ぶ。

 非常時の真空廃棄孔を利用した脱出。遠心力そのままに宇宙服じみた姿の人型重機械【ハンプティ・ダンプティ】が弾き飛ばされた。

 降り注ぐ太陽光の熱を放散できない月面の真空に備えるために居住区ボウルの外壁に張り巡らされていた循環水が、鮮血めいて宙へと飛び散った。構造物の冷却と同時に発電にも利用されるそれは、ある種ガンジリウムの血脈型循環装置めいて外壁を走っている。

 遠心力と、回転する居住区ボウルが持っていた慣性をそのまま活かす形で機体を操作する。上部及び下部の港を封鎖していた【フィッチャーの鳥】に感知された様子はない。


(……やすやすとテロ行為を完遂させてしまうなど、よほど戦後の安穏が続き過ぎたか――……いや、今は問うまい)


 脊椎を通して鋼の手足に指令を下す。

 処分予定であったためか、機体に推進剤は充填されていなかった。大腿部に収納された慣性制御フライホイールを活用し、機体は重力の低い月の空を滑空していく。

 二度三度加速パイルで壁面を蹴りつけ、クレーターから跳び上がる。その先に見えた荒涼とした荒野たる月面は寒々しく、殆どに都市の影はなかった。

 降り注ぐ太陽光に対する温度管理のためにクレーターに都市が作られるのが一般的なのだ。そうでない場合は、大規模な【傘】と呼ばれる太陽光発電システムを兼ねた防壁で囲われている。もしそれがあったなら、もう少し脱出には手間取っただろう。送電システムのために、デリケートだ。


 機体の膝を畳み、脛に備えられた車輪による移動に切り替えた。あとはこのまま赤道下にある発射施設を目指し、月面から脱出するのみ。アーセナル・コマンドがあればその推進能力で月重力圏からの単身脱出も可能であっただろうが――それはないものねだりだろう。

 追悼式典に対するテロ。

 被害はどうあれ、実行組織は大袈裟にその戦果を宣伝するであろう。ますます勢い付く訳だ。保護高地都市ハイランド連盟に対する反抗活動は。


(なんとしても速やかにこの任務を終え、役目を果たさなければ……ここに居ては俺の有用性を発揮できない。情報を収集し、任務を完了し、保護高地都市ハイランドに帰還する――こうなっては猶予はない)


 もし己が居たならば、その場に配置されていただろうか。

 己一人でその戦況を覆せるなどと自惚れるつもりはないが、何とも忸怩たる思いに駆られる。ここに留められているその内に、あまりにも大きな事件を許してしまった。

 或いは、自分をその作戦に噛ませないためにこちらへ遠ざけた――……そう考えてしまうのは自意識過剰であろうか。なんにしても、己の有用性とは程遠い任務は早急に完了させるしかない。

 そう考えている、その時だった。

 ぺたぺたと、強化外骨格エキゾスケルトンの外皮を叩くラモーナ。予め定めていたボディサイン。


 ――即ちは、追撃。


「……流石に、不味いか」


 その機動速度も出力も、火力も装甲もあらゆる面でアーセナル・コマンドには叶わない。

 モッド・トルーパーで挑みかかるのも馬鹿げていて――ましてやアーモリー・トルーパーでそうするのは、単なる自殺だ。強化外骨格エキゾスケルトンの歩兵を蹴散らすことはできても、完全なる強襲機械と斬り結べるほどの力は持たないのだから。

 改めて、その恐ろしさを認識する。

 極超音速飛行どころか、ジェネレーターの制限や機体の損壊を無視すれば単身で大気圏離脱も可能とする機動力と、力場を含めた四種類の装甲から作られる堅固な防御性。

 そして力場によって重量や反動を制御することも視野に入れた大口径の火力――――単身で都市一つを滅ぼす力というのは、伊達ではないのだ。


「ラモーナ、念の為だが……対処は可能か?」


 汎拡張的人間イグゼンプトである彼女ならば或いは――と伺えば、


「ん……大丈夫だよ。でも……おーぐりーは、戦いたくないんだよね。ただ仕事をしているだけのその人たちとは、戦いたくないんだよね?」

「ああ――……」

「おーぐりーは、優しいね。……でも、ごめんねおーぐりー」


 二の腕の辺りに触れていたラモーナの手が離れる。


「わたしはきっと――優しくないから」


 静かな――……強い声。つまりは、相手の生存の一切を保証しないという意思表示だった。

 一度、目を閉じた。

 あの空港での一件に関しては、なんら恥ずべきところはない。市民として軍人として、そこに過ちはないと判断した。

 しかし、こうなることは予見できた――既にあのときに予見した。それでも己が実行したということについての後悔と反省はあった。

 その先は――同胞を殺す道に繋がっている、と。


(……切り替えろ。必要なのは、妥当性と必要性だ。任務上でやむを得ない事情か理由――それがいる。


 己の内の心理的な拘泥こそあれ――……。

 何も知らずに任務のために働く軍人も、ただそこで切なる祈りと共に暮らす市民も、容易く他者を踏み躙る悪漢も、そのいずれもが――

 ならば、その生死の差を分けるのは己の私情ではない。合理性と必要性と緊急性。その三点のみだ。

 そしてこの場合に、彼らを殺すだけの理由があるとしたら何かと――そう考え、


「ラモーナ、頼みたいことがある。……君にしか頼めないことがある」

「うん。なぁに、おーぐりー?」


 目を瞑り、吐息と共に吐き出す。


「……既に都市部からの離脱が叶った今……緊急性というのは以前に比べて減っている。抜け出してしまえば、如何様にでも情報のもちだしは可能な状況となった」

「うん。それがどうかしたの?」


 余裕があるということは、必要性が失われたということを意味する。

 つまり――


「……交戦規定にはああ示されたが、軍人としての良心に従い、正当性ある任務に従事する友軍の撃墜は行えない。任務の主眼は大量破壊兵器の発見と撃滅であり、それは即ち市民の命を守るためだ。……彼らは軍人であり、同時に市民だ。その命を奪うことは、とても妥当な判断とは思えない」

「おーぐりー……?」

「既に【夜の方舟ナイツアーク】へと向かう旨は情報員に伝達した。……情報はここにある。もう少し裏を洗ってからと考えていたが、現時点でも任務の最低限は達していると判断できる。いや、あとは情報部に調査を願う方がよほど確実だろう」

「おーぐりー、何をする気なの……?」

「……彼らを引き付け時間を稼ぎ、可能であれば投降する。非常時移動艇は用意してある。君は、情報部へとデータの提出を」


 デバイスを手渡し、念の為に機体背面へと背負った月面移動用のバギーを遠隔起動する。

 少なくともここで殺されさえしなければ、任務には一定の成果を発揮した上で生存と原隊復帰は叶うだろう。ラモーナに関しては。

 こちらは――……生き残れるかは不明だ。ただ、兵士をしていればこういうことはある。覚悟は幼少期にとうに済ませた。その日から、ある意味では死人と呼んでいい。元よりいつでも死ねるように心がけている。いついなくなっても問題ない人間として振る舞っている。

 ならば後悔などない筈だと、改めて瞼を閉じて己に言い聞かせる。


「……おーぐりー? 任務だよ? 大佐ぱぱに頼まれたんだよ?」

「そうだ。そしてそも、何のためにその任務があるか――という話だ。……その観点から、ここで彼らを撃墜することへの正当性は存在しない」

「死んじゃうよ、おーぐりー」

「不当であれば生存権の行使をしたが、これに関しては生存権も個人の幸福追求権も対立し得ない。……俺は、軍人である責務を果たすべきだ」


 モニターに表示されるバギーの状態はオールグリーン。

 稼働は可能だ。ラモーナは――自分のような足手まといさえなければ十分に生存可能だろう。そう判断するに足る理由は示された。

 ならば、己は必要ない。……とは言っても上手くやれば生き残れるだろう。

 そう考えている矢先に、ラモーナが腕を叩いた。左。回避の合図だ。咄嗟に左の車輪を止め、右を前回にしてスピンターンする。荒涼とした月の大地に、爆塵が散る。

 レールガンによる狙撃か。

 警告なしの射撃はあまり良いものとは言えないが、テロリスト相手だとすれば妥当ではある。距離があると判断できるだけで幸いだ。でなければ発射間隔のあるレールガンではなく、アサルトライフルによる射撃で片付けられている。


 どこかの岩肌で、ラモーナを降ろす。

 ひとまずはそれを行うべきだと考えた――その時だった。


『すごいな、閉鎖都市から脱出してるよ。話通りの勇敢さだな。三三大隊あたりの生き残りか?』

『随分と長い買い物だと思っちゃいたが、あのお姫様も見る目はあったようだ。いい拾い物じゃないか。……そこのアーモリー・トルーパー、まっすぐ進むんだぜ? オーライ?』


 後方ではなく――前方から超高速で飛来した二機のアーセナル・コマンド。

 いや、一機はモッド・トルーパーだ。モッド・トルーパーだというのに、アーセナル・コマンドと遜色ない高速機動を見せている。

 援軍の――心当たりはない。いや、


「まさか、“大食い”ジョン・ヘムズワースか……?」


 機体の胸に示された、太陽を飲み込もうとする双頭蛇のエンブレム――覚えがある。

 撃墜数第十三位の衛星軌道都市サテライト連合の軍人、ジョン・ヘムズワース。恐るべきはアーセナル・コマンドではなく、モッド・トルーパーを用いたのに唯一撃墜数ランク二十位以内に入ったというその実力。同率十三位であるアイク・“スクリーム”・クリームが霞むほどの腕。

 祖父母が保護高地都市ハイランド出身という政治的な立場さえなければアーセナル・コマンドの搭乗も叶っていたであろう男であり――そうであるなら、より撃墜数を稼いでいたであろうことには間違いない実力者。

 アルテミス教官と同じ宙間レース出身の駆動者リンカー。現役時の二つ名は『撃墜王』。名のあるレーサーに必ず一度は勝利したことに由来する。それは、あのアルテミス・ハンツマンをして例外ではない。


「撃墜されたとも、戦犯として処刑されたとも聞かなかったが――……まさか」


 行方不明者のリストには記されていた男が、こちらへの不可解な掩護行動を行う。

 不可解な――否、決まっている。

 

 その情報を聞きつけた彼らが、こちらを拾いに来たのだ。理由は――決まっているだろう。考えるまでもない。


 つまりは、反政府組織による接触だった。



 ◇ ◆ ◇



 それは、懐古主義的な部屋だ。

 敷き詰められた赤い絨毯のその上に置かれた丸く長い議会用テーブル。重厚なる黒木の家具と、穏やかな色彩の白い壁紙。ホログラムのヴィジョンがなければ、人は或いは旧暦にタイムスリップしたとさえ感じるかもしれない。

 その部屋の主たる銀髪の老獅子めいたヴェレル・クノイスト・ゾイスト特務大将は報告書に目を通す作業を取りやめ、二人分のホログラムヴィジョンと向かい合っていた。


 一人は――片目に大きな海賊傷を負った火傷顔の男。

 キングストン級一番艦艦長の“焼夷”のコルベス・シュヴァーベン特務大佐。苛烈で剛直な旧態依然とした軍人。

 もう一人は――優男をそのまま老けさせたような柔和な笑みを絶やさぬ男。

 キングストン級二番艦艦長の“大逃げ”のキャスパー・ロックウェル特務大佐。

 その会話の内容は、まさに終戦記念日に発生した失態としか呼ぶことのできないテロ事件についてであった。


「これで、保護高地都市ハイランドの宇宙軍もメンツが潰れたでしょうな。最早、奴らだけでは事態の対処もままならない。――今回の戦役へ日和見を決め込んだ代償は支払った、という訳だ」

「……彼らとしても手痛いでしょうねえ。【ハシバミの枝ヘーゼルアスト】と【フィッチャーの鳥】を両天秤にかけた結果、一番被害を蒙るなんてお笑い草ですとも」


 どちらも、軽んじるような口調だった。

 追悼式の防衛に関しては、様々な政治的な力学の結果【フィッチャーの鳥】ではなく、保護高地都市ハイランド連盟宇宙軍が勝ち取っていた。

 それに託けて、コマンド・レイヴンのみならずコマンド・リンクスの優先配備までを取り決められた――激化の一途を辿る【ハシバミの枝ヘーゼルアスト】と【フィッチャーの鳥】との戦役への積極的介入を厭いつつも、【フィッチャーの鳥】によらない戦力配備を推し進めるための一手であったのだろう。

 ……それが結果的に、より【フィッチャーの鳥】へと利する結果となったというわけだ。 

 だが、


「……卿らの言葉では、こちらの腹は痛まないとも聞こえるが……保護高地都市ハイランドの失墜は、すなわち【フィッチャーの鳥】の失墜だ。元より我らは、保護高地都市ハイランドの牙となるべく作られたのだから」


 ヴェレル・クノイスト・ゾイスト特務大将の表情は硬い。彼だけはこの戦役を保護高地都市ハイランド全てのものと考え、或いはあの戦争中の友軍の被害めいて苦い気持ちで受け止めていた。


「無論ですとも、特務大将。しかし、不甲斐なき彼らに変わってここでこそ我らが設立の意義を示す機会がある――と言えましょう。……情報はまだ出ないのか?」

「ええ、ま、多少はリークさせてますよ。……そうして抑えきれなくなって世論の圧力がかかれば、こちらの権限もまた増さざるを得ませんでしょうね。今頃、随分と首を挿げ替える話もしておりましょうや。反対派の急先鋒も今回の件であっちいきだ」


 好戦的かつ不敵に頬を釣り上げたシュヴァーベン特務大佐と、その柔和な笑みをどこまでも意地悪く歪めたロックウェル特務大佐。

 終戦から三年、限られた予算により四軍での勢力対立は強まっていた。特に宙間居住区ボウルへの突入のための宙間海兵隊及び宇宙艦隊や強襲猟兵隊の充足を願う宇宙軍と【フィッチャーの鳥】は、そんな面での対立も久しい。まずは地上の安寧を主とする部隊出身の彼ら二人とは、反りが合わないのだろう。

 そも、役立たずと見做している面もあったと言っていい。前大戦ではまんまと保護高地都市ハイランド側の観測衛星や攻撃衛星を破壊され、敵にあの先制攻撃を許した――というのに最終的な戦場が宇宙であっただけで勝利者ヅラをしているというのが、彼らの気に触っているのかもしれない。


「……既に局面は二面作戦に等しい。ここで敵を勢い付かせれば、【フィッチャーの鳥】の設立意義も危ぶまれる。宇宙軍へはこちらの指揮下に入るように調整を行う……くれぐれも卿らの尽力を期待したい。全てを十二分に討ち破るのだ」


 追って指示を出す――と会談を打ち切り、ゾイスト特務大将は腹から息を漏らした。


「……この位置に座ると、どうにも人を数でしか見れなくなるらしいな。それこそが最低限の前提ではあるが……」

「優れた将は、一人一人の兵も気にかけると聞きます」

「……私の手前、勇ましい言葉を口にしただけか。それとも本心から、まだ事態は火急ではないと思っているか――卿は如何に考える?」


 振り返らずに言葉をかけるゾイスト特務大将を前に、ドアの横に立っていた白スーツの美丈夫――ラッド・マウス大佐は涼しげな面持ちで呟いた。


「あの戦争の勝利が齎した弊害でしょう。あれほど絶望的な状況からも勝利したという神話――それが保護高地都市ハイランドに根付いてしまっている。言わば毒、と呼んで過言ではないもの」

「敗北同様……勝利もまた、消せない物語を生む……か」


 ヴェレル・クノイスト・ゾイストは苦々しく瞳を閉じた。戦時中、運良く生き残った将官としてほぼ戦況の把握が可能な場所にいたからこそ理解できる。アレは、どう考えても負ける戦いだった。

 衛星監視網を奪われ、一方的な超高高度爆撃を許し、敵本国に一切攻め入ることができない状況。

 そこから――外宇宙開発のために計画されていた人型機動機械を流用した経緯を持つアーセナル・コマンドを用いた敵の補給線を狙った組織的な特攻攻撃。

 それも鹵獲や離反者によって敵方にも技術が渡り、更にはあの絶望的なアーク・フォートレスの登場と乾坤一擲の戦線での壊滅的な被害。

 保護高地都市ハイランドはいつ敗北しても何ら不思議ではなかったと、彼でさえ思う。確かにそれが――神話として受け入れてしまわれることも無理がないと思える程に。

 だからこそ、


「十年――十年でいい。十年、争いがなき世を作る。それだけでも、世界の方向性は変わる。全てはそのための下準備だ」

「……」


 運良く勝ちとった奇跡的な勝利を盤石なものとするために、ここでこそ基盤を固めるべきだと思っていた。

 ガンジリウムの汚染被害とその影響や対策が確保できるまでの時間。

 地球から有限の資源を真空の宇宙に送るだけでなく、他の惑星や資源小惑星から運搬する方式を確立するだけの時間。

 手にしたガンジリウムによる技術を民間でも広く利用可能とし、それが十分に広まるまでの時間。

 その確保が求められていた。

 そのために――その平和のために、あの戦争で生み出されたアーセナル・コマンドという新兵器の今後の運用制を決定づけるデータが欲しかった。

 シミュレーションを机上の空論に追いやってしまうような事態があの戦争にて起きた。如何に戦略研究を行おうとも消しきれないその要素を、今一度確認したいのだ。


「【ハシバミの枝ヘーゼルアスト】も、【フィッチャーの鳥】もそのためにある。……今後十年の平和を盤石なものにしなければ、この保護高地都市ハイランドどころか――人類生息圏全ての秩序さえ損なわれるのだ」


 重々しく、ゾイスト特務大将は告げた。


「卿と【狩人連盟ハンターリメインズ】には、それを頼みたい。この地球圏の百年のために――この先の十年を担うのだと、その心得で臨んで貰いたい。……彼らではないが、これを機に権限の拡大も打診するつもりだ」

「ふ。無論、このラッド・マウス――二心なく閣下の御心に従いましょう」


 うやうやしく一礼し、部屋を出る白スーツの男。

 閉まった重厚な扉を眺めつつ、ゾイスト特務大将は静かに呟いた。


「……或いは、アレが最もその根を張ったか。ともすれば、最も利を受けたか――……」


 黒衣の七人ブラックパレードという強大な戦力の大半を失った保護高地都市ハイランドに言葉巧みに入り込んだ【狩人連盟ハンターリメインズ】。

 そして今回、その黒衣の七人ブラックパレードの唯一の生き残りたるハンス・グリム・グッドフェローも、畑違いの任務に駆り出された。

 それを提案したのはラッド・マウス大佐ではないが――それは軍上層部から、残る唯一の黒の駒の忠誠に対するある種の踏み絵めいた行動の意味合いもあるだろう。

 或いは最悪、そこで死なれても良いのだと――前大戦の英雄の死は、保護高地都市ハイランド市民を団結させるに足る理由になるのだと見做している可能性さえあった。勿論、離反した彼というネームバリューにこそ相手方からの接触も見込めるという算段によるものだが……。

 或いは裏で、ラッド・マウス大佐がそう工作した可能性さえある。そう思ってしまう程度には、今回、彼が一番その目的を達成していると言っていい。


「後悔されてらっしゃいますか? 我が主を、この国から遠ざけたことを」

「……卿は如何に考える?」

「さて。私のような一女中には判りかねますわ」 


 初めから黒子の如く部屋に佇み、音もなく、影もなく歩みよった白髪のヴィクトリアンメイドはそう微笑を浮かべる。

 保護高地都市ハイランドの純粋戦力とは言えない傭兵――民間軍事会社に属する撃墜数上位陣ダブルオーナンバーズは、ゾイスト特務大将をして最も内心が読めぬ相手だった。


「……そういうことに、しておこう。卿の主人は如何している? 作戦は、順調に?」

「ええ。以前の報告の段階では、無事に計画通りあちらの非合法賭博活動に入り込んで人気を博しているようですわ。そこから情報をあたってみると――……それと、有力な情報に繋がる線も得た様子」

「ほう?」


 それだけは朗報だった。

 本命は別にした陽動だとハンス・グリム・グッドフェロー大尉には伝達したが、その本命も進みが芳しくないところからすると本当にありがたいものだ。


「外宇宙船団の到来よりも先に、ことを収められなかったのは――起こしてしまったのはこちらの不徳でしかないが、なんとか尽力して貰いたいものだ」

「そう、伝えておきますとも。ところで……追悼式の件で戒厳令が敷かれつつあると伺いましたが、御主人様の活動への問題は?」

「……何か騒動の際は、殺害ではなく無力化に務めるように各部隊に伝達した。実行部隊以外のテロリストに関しては、殺すよりも生かした方が得策だと――……最悪彼に類が及ぼうとも、生きて捕まりさえすれば手は如何様にでも打てる。改めてシュヴァーベン特務大佐にも厳命しておこう」

「かしこまりました。次の定期連絡の際には、彼へとその点も伝達するように伝えておきますわ。ただ――……」


 ほくそ笑む、白髪赤目の長髪のメイド。


「あの方は、……些か、それも遅すぎるかもしれませんわ」


 何を見ているのか、実に優雅に――実に恋い焦がれる乙女のように目を細めたマレーンを前に、ゾイスト特務大将は薄ら寒い気持ちになった。

 民間人からの登用とはいえ、こんな女性が大人しく軍務に従っていたことが甚だ疑問だ。その内には非合法な任務をあったことを考えるに職務には忠実だろうが、その人間性にはやや危険を感じざるを得ない。

 しかしそれでもあまりにも有用すぎる駒なのだと、一時部屋を後にする彼女を見送りながらもゾイスト特務大将は認めざるを得なかった。

 何よりも、駒が不足している。手足の如く動いてくれる駒が。信頼できる駒が。


「……この星にも時間がないと危ぶんだのが、或いは過ちだったか――……」


 あの大戦により、その勝者へと与えられた“物語”。

 そして何より、人々に、と示してしまったという――を剥ぎ取ってしまったという、そんな“”。

 今はいい。国家があることの方が多くにとっての利益になると理解され、その幻想のベールが剥がされない今はいい。

 だが、もし――そんなベールさえ剥がされてしまい、利益の追求すら失ってただ生存だけを求めるようになったらどうなるか。利益の拡大ではなく現状の維持や刹那的快楽、なによりもを目的とし始めたらどうなるか。

 企業が国家にとって変わることはない。というより、そんな無駄なリスクを取りたがらない。黙っていれば国家が市民という資源を育て、その保護を行い、市場を用意してくれる――という状況から支配者へ変わるにはあまりにも余計なことが付き纏いすぎる。利益がないのだ。

 だが――……


 それはこの世界の在り方さえも揺るがす事態に思え――一人その危機感を抱えるヴェレル・クノイスト・ゾイストに、今回の戦役を決意させるには十分であった。


 ――或いは。


 そのために起こした【ハシバミの枝ヘーゼルアスト】と【フィッチャーの鳥】の諍いに、第三者の介入を防ぐことができなかったというのがあまりにも支配者気取りの無知蒙昧ということか。

 天に座す空の瞳が、二つの月が、因果応報と笑っている。

 そんな風にさえ、彼には思えた。


を保とうとした――……公爵、卿の域には私では届かないというのか」


 セージ・パースリーワース公爵。

 或いはあの演説により保護高地都市ハイランドの不屈の神話を決定づけたその男ですら、劣等感を元とした個人的な諍いの延長のようなものの果てに同胞の手によって命を奪われていた。

 ……それは或いは、如何なる理念さえも。

 そこに人と人とが暮らす以上、それらの感情の衝突から逃れて保つことはできないと――言いたげに。


 もし、それすらも断ち切るほどの力があるとすれば……。

 それはまさしく決定的に、如何なる理念であれ立ち位置であれ、人類種というものに対する絶対的な反存在としか言えぬだろう。

 或いは――と、そう呼べるほどに。

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