第82話 ルール・オブ・エンゲージメント、或いは血と鋼鉄の法理


『交戦規定=Rules of Engagement』


 戦闘部隊が敵と交戦を開始または再開または継続する場合において、その環境・状況・制限を規定する指針。

 細部については各国により異なるものの、概ね原則的には武器を使用してよい『時』『場所』『相手』及び『認められる武装』について最低限規定され、部隊の指揮官はこれに基づいて命令を行い、隊員はこれに基づいて行動する。

 また、任務によって、付記事項も詳細に記載される。


 例えば【アクタイオンの猟犬ハウンズ・オブ・エークティオン】作戦においては、以下のように定められていた。



 (前略)

 当作戦の決行において、保護高地都市ハイランド市街上空以外の地域においては下記を認める。

 海上遊弋都市フロート国家群及び衛星軌道都市サテライト連合の陸海空軍他それに類する兵力、並びに当該都市国家支配下のマスドライバー施設またはその隣接海上遊弋都市フロートに対して、航空機及びアーセナル・コマンドに搭載した武器の無制限の使用。

 保護高地都市ハイランド市街上空においての武装使用は原則禁止とする。

 ただし、敵機から攻撃を受けた際には、保護高地都市ハイランド市街上空内においても、自衛のため必要ならば最小限の報復をすることが認められる。

 また、同空域上のその他の事例については、相当の事由が認められると判断するに足る場合において、下記。

 前線司令部と通信が維持されており、通信可能な状況の際は、作戦従事機は可及的速やかに司令官へ報告を行い、追って指揮官の判断にて、やむを得ないと認められる場合に限っては武器の使用を容認することを可能とする。

 同空域において通信が不可能な場合は、あくまでも作戦に従事する機体の自機の防衛に関してのみ、必要最小限の武力行使を認めるものとする。

 なお、本作戦においては、その隠密性の維持の観点から、敵都市上空及びマスドライバー並びそれに類する構造物に近接するまでの武器使用は極力控えることが望ましい。


 また、如何なる状況、如何なる空域においても、中立たる空中浮游都市ステーション共同体に属する民間機及び軍用機並びそれに類する明示のあるものに対しての攻撃の一切はこれを認めない。

 同所属機から攻撃を受けたと認められる際は、警告を発し、それでも攻撃が継続される場合においては、それがやむを得ない際に限ってのみ撃墜を伴わない威嚇射撃のみが許可され、また、あくまでも自機の防衛をする範囲に限ってのみの最低限の武力行使が認められるが、作戦従事機は、その職務においての最大限の責務によって交戦を避けることを旨とするべし。

 その識別が不確実である場合においても同様とし、推定敵機からの攻撃により自機を防衛する範囲に限り最低限度の武力行使が認められ、この交戦を避けることを旨とするべし。


 当作戦の決行に際し、攻撃を成功させた機体は敵勢力圏を脱し、可及的速やかに通信可能圏内まで移動。状況報告にかかること。

 なお、友軍からの救援要請を受けた際においては、この限りではない。


 状況報告は、攻撃成功後、攻撃作戦上にて探知したすべての海上遊弋都市フロート国家群及び衛星軌道都市サテライト連合の兵力並びに同国支配下のマスドライバー及び周辺施設・地域について、可能な限り速やかに、所定の形式により、攻撃部隊の最先任により行うものとされたし。

 (後略)


 明確に禁止条項を定めてそれ以外の行動については戦闘員の判断の下に容認する――いわゆるネガティブリスト形式と、明確に許可条項を定めてそれ以外の行動については原則容認されず別途の承認を必要とする――いわゆるポジティブリスト形式が存在するが、どちらか片方しか存在しない軍隊というのは極めて稀であり、その内容は作戦により区別されると考えた方が得策だろう。



 ◇ ◆ ◇



 その区画は、軍事基地というよりも街の廃工場同然に寂れた施設だった。

 錆び付いたフェンスに囲われ、罅割れたコンクリートに覆われた駐機場エプロンはうらぶれた街の自動車修理場ですらも鼻で笑うだろう。

 地上ほどに風化や侵食の影響が少ない宙間居住区ボウルにおいてこれほどの有り様を見せるというのは、如何にそこに予算がかけられていないか知れるものだ。

 そこに立ち並んだ幾体かの作業用人型重機――アーモリー・トルーパーは、明確に型落ちの品だ。

 デブリ撤去用というより、それ自体がデブリのように……剥き出しになった油圧シリンダは錆付き、洗練されていない金属彫刻のように数機だけが鎮座している。

 そこで働く男たちも、ツギハギの多いツナギを纏って機体の整備を行っていた。知らぬ者が見れば、本当に廃品業者や貧乏な解体業者と思いかねない有り様だ。


 衛星軌道都市サテライト連合――。


 凄惨なる戦争とその敗北によって、今や彼らはその軍事力の大半を奪われていた。

 言うまでもなく衛星軌道都市サテライト連合の統合軍は解散。宇宙陸軍と宇宙海軍は解体を余儀なくされ、多くの戦犯処刑者や失業者を生み出していた。

 今、そのかつての組織の名残は治安予備警察隊という形で存続している。

 これは軍事力は奪う必要があるが、警察力までの面倒を見きれないという保護高地都市ハイランドの判断であるが――……事実上は殆どまともな捜査権限を有せず、【フィッチャーの鳥】の現場での手先や雑用のようなもので、彼らにとっては決して誇りある仕事とは呼べないであろう。


 かつての敵に使われる元衛星軌道都市サテライト軍人――……。


 特にその怒りを多くぶつけたのは、直接の対峙者となっていた保護高地都市ハイランド連盟や、或いは先に降伏をしたことを理由に粛清活動や報復行動を受けた海上遊弋都市フロート群ではない。

 何よりも衛星軌道都市サテライトのその市民こそが、無謀な戦争を起こした統合議会と統合軍への怒りを顕としていた。

 それは戦後、数々の文書により明らかにされた当時の政府上層部たちの企みが所以だった。


 まず一つ。彼らは【星の銀貨シュテルンターラー】による爆撃で戦争が早期終結し、精々起きても散発的な戦闘のみで兵士の損耗は少ないと分析していた点。

 軍事力を喪失した保護高地都市ハイランドは早々に白旗を上げ、その多くを植民地コロニーとして制圧できる――……。

 そのあまりにも希望的な観測に満ちた開戦絵図を咎める声が上がったのは言うまでもないだろう。

 加えて、より大きいのは二点目である。

 彼らの同胞――夫や父、兄や弟を戦場に駆り出すのみにとどまらず、中央共通適性試験センター・テストにて学術研究分野・高度生産性分野への適性が見られないとされた女性たちまでも兵として送り込んだにも関わらず――それ自体は衛星軌道都市サテライトとしてはそれほど妥当性ないものではないが――そんな彼ら彼女らという友軍を巻き込んで超高高度衛星軌道爆撃を行ったこと。

 その際に報じられたグレイコート博士の開発した新兵器の誤作動という情報は上層部の欺瞞であり、全ては友軍を人とも思わぬほどの意図的な爆撃であったという事実である。


 そして最後の三点目。これが、最も衛星軌道都市サテライト市民たちに怒りを抱かせた。

 人口の問題から斜陽傾向にある他の地域とは異なり、徐々に人口を増していた衛星軌道都市サテライトは経済的にも確かに成長していた。その結果が貧富の格差ではあったのだが、同時に、格差こそあれ社会は全体的に裕福となる傾向にあった。

 結果としてその市民は衛星軌道都市サテライトのみならず、それ以外の三圏の製品や思想に触れる機会も増えていた。要するにそれは、彼らの市民の中での価値観の統一が難しくなる――ということを意味している。


 衛星軌道都市サテライトがその宙間居住区スペース・ボウルという地政学的な問題から強く団結を望んでいた――とは以前にも触れた通りだが、これは、上層部に静かな……しかし強い危機感を抱かせる事態であった。


 無論、それは決して、それただ一つで戦争を起こすだけの理由とはならない。

 しかしながら地上での戦線において苦戦の傾向が見られ始めたその時に、恐るべきことに、当時の統合戦略分析室はあるレポートを提出した。

 戦争が経済を回すというのは過去の話であり、行えば行うだけ国力は疲弊し国家は衰退する――

 その影響をまず受けるのは、底辺部に位置する市民から。

 それが社会というボトルの底から首に届くまでは時間がかかり、まだ猶予が存在するという点。

 無論、中流階級にあった者たちが下層階級となれば国家の内需にも悪影響を及ぼすためにであるが――……。


 しかし逆説的に、――も叶う。

 それは命の危険のある資源衛星鉱山労働者や、宙間活動従事者。或いは、軍人そのものだ。

 確かに戦争は経済に悪影響を及ぼす。

 ――。

 今やガンジリウムという鉱物及び技術がこれほどまでにその力を見せたとあっては、仮に戦争の終わりが望んだ勝利の形でなくとも――例えば不本意な取り分での講和であっても――その外需は尽きない。

 如何に国力が疲弊しようとも、他から求められる資源は変わらない。むしろ、より多くを求められる傾向になる。外需の獲得は確実に見込まれる。

 ならば、一定以下の市民に対しては『他の株地を購入して抜け出すこともできず』『衛星軌道都市サテライト以外の価値観にも触れることがなく』『健康被害も訴えられる鉱山労働を強いることもでき』『他に軍隊への入隊を勧め国家の武力を衰退させぬ』この状況は、――というそんなレポートだ。


 つまり――最悪な話、仮に如何に国力を擦り減らしたとしても、そこに新たな利益の発見は可能であり――一部の人間及びこの偉大なる祖国はそれでも利益を得ることができる。

 そう訴えかける内容だった。

 ……それは或いは、上層部を喜ばせ自分たちの失敗を塗り潰すための机上の空論だったのかもしれないが。

 文書として確かに残り、そして、戦後に公にされた。

 それが故に衛星軌道都市サテライトの市民たちが紛糾するのも無理はない話であっただろう。


 結果として――のような元軍人は、市民たちから悲惨極まりない目を向けられていた。

 国民の血を吸い上げようとした吸血鬼。経済と利益への寄生虫。同胞を生け贄に貪った者たちの尖兵――……。

 民間からの登用者ではなく、戦前から職業軍人を努めていたものほどそんな傾向にあった。

 そして、ここにも一人――。


「アゲット予備大尉……」


 呼びかけられた、多少の威風を漂わせた青年。

 アーノルド・アゲット予備大尉――軍人上がりの治安予備警察隊員はこのような階級で称される――瑪瑙アゲットという姓を表すような角度により色合いが変わる偏光グラスを身に着け、如何にも軍人らしい精悍さを表すように額を顕にした短髪銀毛の青年であった。

 その爽やかな風貌はある種のビジネスマンにも見えるし、誠実な公務員にも見えた。

 だが、その目の配り方や立ち振る舞いは明確に軍人であり――そして腕利きだった。戦争末期時において部隊が壊滅状態でも戦線を維持し続け、その最後の戦いにおいても単機で最後まで抵抗を続けるほどの。二つ名もあった。

 かつて大義に燃えた武人然としていた彼は今、彼らを揶揄するように退廃的な文言のペンキを塗りたくられた人型重機――アーモリー・トルーパーの前で、デッキブラシを片手にしていた。


「悔しいですよ、おれ……国を離れて戦わされて……皆して統一圏のためにって叫んでた癖に……全部終わったら、こんな……」

「止せ。……大義を忘れるな」

「何なんですか、大義大義って……もう戦争は終わったんですよ!?」


 大声で不満をあげた青年を前に、アーノルドは周囲を見回してから僅かに偏光グラスの弦を押し上げた。


「まだ、終わっていない。今は雌伏のときだ……それはいずれ、腐敗した企業蔓延る保護高地都市ハイランドに鉄槌を下すという意味ではない。我々軍部の敗北が招いたこの苦難において耐え忍び、少しでも祖国の暮らしを立て直すための雌伏のときだ」

「ですけど……」

「……帰れなかったもののことを思えば、彼らの嘆きを思えば、この程度はものの数には入らぬ筈だ。我々は過ちを犯した。それを償えるか償えぬかではなく、本来の意味で軍人として市民に向かい合うこそが衛星軌道都市サテライトの軍人としてあるべき姿だろう。……この祖国のために。私は、そう考える」


 言って、額の汗も拭わずに侮蔑的な落書きを擦り続けるアゲットを前に、青年もまた肩を竦めてデッキブラシを手にする。

 今の彼らの仕事は、殆どがこんな市業務の雑用だった。それもあり、多くの元軍人が職を離れていったところもある。

 いや――……或いはそうさせるために雑用が与えられているのだろうか。敗北に伴う、軍人に対する徹底的な毀損と調教の如く。

 そしてもう一つ、それは、起きた。


「おら、進めよジジイ」


 甲高い男の声と、道路に崩れ落ちるような老人の声。

 数名の黒服の軍人が、地面に膝をついたコック服の老人を取り囲んでいた。

 見覚えがある――アゲットは怯えた老人の顔を見ながら思った。公園などで、移動式の食品販売を行っている老人だった。あまり十分とは言えない物資の中でも、長く商売を続けていた経験と縁を活かして販売を続けてくれていた男性。

 それが、黒服の――【フィッチャーの鳥】に囲まれている。膝と腰が悪い彼を突き飛ばして、手を貸す様子すらもない。あたかもアゲットたちに見せ付けるように。


「……また、ですか。やめときましょう……あんまり見てたら、どんな因縁を付けられるか判ったもんじゃないですよ」


 呟く青年を傍らに、アゲットはその光景を睨み続けた。

 立ち上がろうとする男性に、わざとらしく肩をぶつける黒服の軍人たち。彼が倒れる様を見ながら肩を揺らしている。

 特権階級を与えられて、大義名分を与えられた彼らは明らかに増長していた。そして、それを諌める者もいない。あたかもスクールカースト上位者がそれ以下を見下すように、いつからか駐留している【フィッチャーの鳥】はそう振る舞うようになっていた。

 そして、老人が抱えていたコック帽を取り上げて笑いながら踏みにじる。その――瞬間だった。


「仮にも軍人……仮にも士官なら、大局的な物の見方をしたらどうだ?」

「あ?」

「貴様たちのその振る舞いが市民を刺激し、いたずらに反感を煽り、次の戦いの土壌になるかもしれないと……理解できないというのか?」


 静止しようとする青年を遠ざけて、アゲットはよく通るバリトンの声でそう告げる。返されたのは、


「……おい、聞こえたか? コイツ、今、なんて言ったと思う?」

「んー……俺にはテロリスト疑惑の容疑者を庇い立てしているふうにしか聞こえなかったな。……ああ、そういうことか。なるほどな、元軍人崩れが反政府組織に協力してるってことか……今月のノルマはどうだった?」

「おー……まだ空きがあるぜ。あんまり数を挙げすぎても人権問題だなんだと、うるせえからな」


 意にも介さない嘲笑。

 それどころか、倒れた老人のその尻を蹴飛ばす始末だった。


「貴様……!」


 反射的に踏み出そうとしたアゲットと――待ち構え、答えるように応じた銃口。

 ただし、それは彼ではなく倒れた老人に目掛けて。

 日常的に脅しとして使っているからか、暴発を防ぐために引き金に指はかけられていない。しかしそれでも、銃は銃だった。


「おっと、コイツがわかるか? なあ、おい」

「どこまでも卑劣な……!」

「お、動きが止まったぞ? ははあ、やっぱり二人共々テロリストだったって訳か?」

「……」


 また、嘲笑う声が響く。

 動けぬアゲットを十分に堪能してから、黒軍服の青年たちは老人を脇から抱え上げた。


「さて、ジジイ。アンタはこっちで取り調べの時間だ。……あんなクソ不味い飯を出してくれた礼だ。たっぷりと取り調べしてやるよ」

「ははは、腹いっぱいにして返してやるよ。水でな」


 そのまま、首を振る彼を引き立てて行く――アゲットは動けない。

 拳銃を抜いた残る一人が、肩を竦めてアゲットへとニヤつき顔を向けた。


「せいぜい、このジジイに祈っておくことだぜ。テロリストって自白しないでください、大人しく言うことを聞いて捜査に協力してください、余計なこと言う前にあの世に行ってください――ってな」

「……ッ」

「情けねえな、武人気取りでよ。というかよくそんな面ができるな……お前らが何をしたのか忘れたのか? あんなものをバラ撒いて、散々人の国を焼きやがって……お綺麗な面をして上から目線で喋るんじゃねえよ」

「……」

「判ってんのか? これは、罰だ。おれたちの国を焼いた罰だぜ? せいぜい、足弱どもに庇われるんだな」


 動けぬアゲットの両足を十分に眺めた青年は、満足そうに拳銃をしまって背を向ける。

 その背に飛びかかれるだろうか――アゲットの中の戦場経験が無意識にそう分析を始めるが、彼自身が首を振る。それをしたところで、一体何になると言うのだろう。

 そう思ううちに、ふと青年は肩越しに振り返り、


「ああ、一ついいことを教えてやるよ。お前らの残党とやらがな、今、地球で揉め事を起こしてるんだとよ」

「……!」

「ったく、馬鹿どもがいちいち反抗しやがって……あんな戦争仕掛けといて大義もクソもねえだろうが。お前らは一族郎党、末代まで侵略者なんだよ。人間扱いされると思うな、この世界の寄生虫共が……」


 吐き捨てられる唾。

 何も言い返せない。……後から知った話ではあるが、宣戦布告すらなく民間居住地を含む各都市への衛星軌道爆撃が行われたのだ。今がどれほど理不尽に感じたとしても――彼らの恨みと怒りをそれだけ買った。それだけをやった。それは紛れもない事実だと、アゲット自身認めざるを得なかった。

 だが、


「まあ、おれたちにとっちゃ都合がいいんだけどな? このジジイの孫の面をアンタにも見せてやりてえぜ。……おいジジイ、お前の身柄引き受けにはあの孫娘を寄越させな。判ってんだろうな?」


 果たして、その怒りと恨み――そして残酷さの境界はどこにあるのだろう。

 かつて傷付けられた保護高地都市ハイランドの自尊心を取り戻そうと言うのか、その怨念を代弁しようと言うのか。

 優越感に浸れる愉悦を眉に映した若い将校の顔に、アゲットは、ただ忸怩たる思いしか抱くことはできなかった。

 そして、


「……どこも、軍人なんて――」


 それを遠目に見詰めていた金色の瞳が、風に靡く淡い炎髪が揺れる。

 握り締められたフェンスの金網だけか、軋んでいた。



 ◇ ◆ ◇



 ほっぺが痛い。

 ひりひりする。


「……あれはおーぐりーが悪いと思う」


 ……はい。


「いくら本当のことでも、言い方があるでしょ? おーぐりー、そういうところがデリカシーがないって言われるんだよ?」


 ……はい。


「おーぐりーはやればちゃんと気遣いができるんだから、女の子に優しくしないと駄目だよ?」


 彼女は女の子という歳でもないかと思われるが、それともやはりまだ二十代前半までは女の子として扱うべきなのだろうか。


「おーぐりー?」


 ……はい。


「おーぐりー、そういうところだよ?」


 ……はい。


「おーぐりーはわたしをママにしたいの? お願いするの? ママになっちゃえ、って命令するの?」


 いいえ。


「だよね? だったらおーぐりーは、ちゃんとしないと駄目だよ。わかった?」


 ……はい。


「よしよし。偉いね、おーぐりー。おーぐりーは偉い」


 ……なんなのだろうか。ラモーナからのこの扱いは。

 いつからか完全に子供扱いというか、なんというか、新聞を持ってきた犬に対するような扱いを受けている気がする。

 犬ではなく人なのだが、別にそこを気にして意固地になるほど豊かな矜持を持っているということもなく、黙ってベンチに腰掛けたままラモーナにされるがままになる。

 宙間船の発着場のロビーは、さほど賑わっていない。

 空港ほど大規模ではなく、搭乗口と退出口のフロアすらも分けられていない小規模なもの。

 時々現れる自律駆動型のスーツケースを引き連れた客が、ちょっとぎょっとしてこちらを見るぐらいだ。


「ラモーナ。その、気持ちはありがたいと言えなくもないが……もういいのではないだろうか?」

「……あの人、泣いてたから。それを慰めてあげたおーぐりーは、偉いなあって。すごいなあって。偉いことしたおーぐりーのことは褒めないと。いい子だね、おーぐりー。いい子いい子。おーぐりー、すごいよ」

「……」

「でも、あれは酷いと思う。駄目だよ、あんなこと言っちゃ」

「……はい」


 アルテミス教官から繰り出されたのは、恐ろしくスナップの効いた強烈な平手打ちだった。かつての訓練時を思い出すほどに。

 首がムチ打ちになりそうだ。正直さは誠実さに繋がるとは思っているが、言葉には気を付けようと思った。

 ……まあ、それはいい。ひとまず必要な情報を得られたので――その点からすれば、問題はなかった。

 【月の箱舟ルナリアアーク】から【夜の箱舟ナイツアーク】への移動。

 目的――オーウェン・ウーサー・ナイチンゲールという男との接触。


 オーウェン・ウーサー・ナイチンゲール。

 彼は、【星の銀貨シュテルンターラー】戦争にて、メイジー・ブランシェット擁する最新鋭強襲巡洋母艦【黄金鵞鳥ゴールデン・ギース】号の整備兵を努めたメンバーだった。

 元は、アナトリア在住の民間の整備士。

 それがあの襲撃に際して避難を行い、そのまま他の民間人と共にアーサー・レン艦長の許可の下で【黄金鵞鳥ゴールデン・ギース】号に収容される。


 その航路には衛星軌道都市サテライト勢力圏となってしまった都市が多く、それらの民間人たちを下船させるのに手間取ったらしいが、紆余曲折の末に彼らを戦地から避難させることに成功する。

 そんな中で、【黄金鵞鳥ゴールデン・ギース】号のクルーになることを希望した民間人もいた。

 メイジー・ブランシェットのハイスクールの同級生エース・ビタンブームスや、街の新人警官セージ・オウルビーク。他に戦闘管制オペレーターにも見られるし、何より当のメイジー・ブランシェット自身がそうだったが……。

 軍の最新鋭艦というのに、驚くほど正規軍人の数は少なかった。というより、民間人の協力者が多かったというか。

 オーウェン・ウーサー・ナイチンゲールは、その内の一人であった――……そう考えられていた。


 だが正しくは、彼は、身分を偽った情報部の将校だった。

アルテミスの言に従うならそうなる。

 何故、そんな男が身分を偽り【黄金鵞鳥ゴールデン・ギース】号に乗艦したのか。そして戦闘中の死を偽装して保護高地都市ハイランドから遠ざかり、衛星軌道都市サテライトに息を潜めているのか。

 少なくとも衛星軌道都市サテライトの軍部や反政府組織に属していないだけ、何某かの事情があるとは考えたいものだが……単にあの戦いに心を病み、全ての身分を捨てて隠匿しているとも考えられる。

 しかし、


(オーウェン・ウルリック・ノルマンディー……バイオ・コオロギ・ショーユ工場勤務か。バーガー・スシ・バーにも勤務している……)


 偽名を使用してもオーウェンという名前を変えないあたりは、誰かに対するメッセージか。そんなことも考えてしまう。それこそ、かつての彼を知る人に呼びかけるような。

 一見すれば多忙な低賃金労働者といった様子。

 鼻先にかかるほどに長いオレンジ色の前髪と、あまり目立たない猫背気味の姿勢。言われなければ特に注目もしない草臥れた感じの男だ。

 だからこそ、情報将校としては一流なのだろう。一瞥では冴えない印象与えて、人混みに溶け込む。単なる一兵士ではなく、情報将校ともなれば当然行方不明時には熱心に捜索される筈だが――それを躱すとなればまた凄腕だ。

 ひょっとしたら……彼もまた、攻略対象というものだったのだろうか。そんな余計なことも考えてしまう。

 そう、思考を巡らせているその時だった。


「いけないな、事情聴取中だってのにボウルここを離れようとしちゃあ。……そういう態度は、テロリストに繋がってるかもと余計な心配をさせることになりかねないぜ?」


 バタついた足音で現れた四人組と、そんな彼らに取り囲まれた黒髪の女性。

 人影も疎らな宙間連絡船チケットの発売口では、特にその姿は目立った。揃いの死神めいた黒服。白刺繍の肋骨を浮き上がらせ、ダブルのスーツのように金ボタンが腹のあたりについた黒い上衣。黒のベレー帽。白いズボン。

 ――【フィッチャーの鳥】。

 それが二名と、ツナギじみたカーキ色の作業服を着用したものが二名。後者は、アサルトライフルで武装している。

 口ぶりからすれば、治安維持活動中だろうか。


 関わり合っても良いことはない。普段なら気にせずそのまま目線を向けていたかもしれないが、今は潜入任務中だ。

 拘束――されても、最悪、おそらくは然るべき手続きを踏めば無事に解放されるだろう。だが今度は、という情報を発してしまうことになる。仮にも今の己は保護高地都市ハイランドを離反したという形式を取っているというのに矛盾が出る。

 交戦規定R.O.Eの最終的な基準――『判断においては、作戦開始時の欺瞞工作の意図を認識すること』。

 ならば、その手段は取るべきではない。であればやはり、内心の如何によらず接触を避けるべきかと勘案し――驚愕した。


「その人が違うって、判っているんでしょう? なのにどうして? ……その人、深く哀しんでる。……――ああ、そうなんだね。あなたたちは、楽しいの?」


 その集団ににわかに近付いたラモーナが、そんな言葉を発していたのだから。

 愕然とした。

 彼女は決して交戦規定R.O.Eを理解しない子供ではない。むしろ、こちらよりもそれを重視していた――と言える。養父である大佐のために。当初はそうだった筈だ。

 そんな彼女が、どんな心境から彼らに声をかけたのか。如何なる変化があったというのか。そんな衝撃が、強く押し寄せる。

 だが、


「なんだ、このガキ……あん? コイツも駆動者リンカーか?」

「丁度いい、引っ張っちまえよ。ガキ一人なんざ、どうしてもいいだろうよ」

「ま、そうだな。……いいことを教えてやるよ、社会の勉強だ。オレたちが黒だって言えば黒で、白だって言ってやるまでは灰色だ。だから、こいつはまだ黒にもなる灰色なんだよ」


 アサルトライフルを持たぬ黒い制服姿の青年が、ラモーナへと距離を詰める。

 いつか見た――いつかシンデレラと出会ったときと同じ状況だ。

 違いがあるとすれば今は武装しておらず、そして軍人という身分を出すことができず、潜入任務中だということ。

 ラモーナを連れて逃げる――それが最上だろう。任務の性質に従えば、そうなる。

 だが、


(ラモーナの言葉に従えば、彼らは無実の人間をそうだと判っていながら己が愉悦のためだけに尋問していることになる――明確に職権の乱用であり、断じて連盟旗の理念の下に許されてはならない事態だ。だが――……)


 汎拡張的人間イグゼンプトの証言には何の法的根拠も裏付けもない。明確な証拠にはならない。

 被疑者の女性の潔白を証明する手立てはなく、この会話だけでは何の判別もつかない。

 彼らが法や命令に定められた職務の遂行中ならば、その妨げをするのはあまりに不適切だ。

 そして己は任務中であり、その観点からは良識的には接触は避けられるべき事態である。

 ならば――


「あなたたちは、認めないの? ……判っているのに、そういうふうなことをするの? いいことをしてない、悪いことをしているって……判っているのにそうするの?」


 ……――――ああ。


 ――と内なる己が囁く。

 あの日シンデレラは助けたというのに、――と内なる己が笑いかけてくる。

 ……頷き返す。

 そうだ。あの日は任務に反しなかった。対立しなかった。何ら妨げがなく、職務や職責と関わりなく、一人の市民としての法や秩序に対する義務を遂行できた。

 だが、今日は違う。

 状況が――まるで異なる。交戦規定に反する。妥当性も存在しない。それは、連盟旗に誓った義務を破ることになる。

 己の内心がどのようなものであれ、今は、作戦に従事する身だ。守らねばならぬ道理がある。踏み外してはならない道筋がある。それは――なのだ。


 奥歯を噛み締める。

 ――

 ならばこそ、己はここで妥当性のない行動を行う訳になど――……


「おお、。……で、だからどうした? いいこと? 悪いこと? オレたちは【フィッチャーの鳥】で、ここは衛星軌道都市サテライトだ。お前らみたいな地上を焼き尽くしたような奴らに、救いや容赦は必要ねえんだよ」


 ……――ああ。感謝を。

 ならば、せざるを得ない。


(……法的な措置ではない暴力行為を自認するか。それならば、少なくとも互いの任務上の衝突や妨害ではなくなる。むしろ、ここで見過ごすことの妥当性が失われる)


 一度、目を閉じる。


 武装――皆無。

 状況――潜入任務中。

 相手――分類上は友軍。

 アサルトライフル二名。拳銃武装二名。戦力差大。圧倒的不利。


(ああ――……)


 ――――――


「……如何に適法なのか、説明しろ」

「あ? なんだ、お前?」


 緩やかに、待ち合い室のソファから身を起こしたこちらを見竦める八つの瞳。

 一人は女性を後ろ手に捻りニヤついた笑み。もう一人は咎めようとしたラモーナへ手を伸ばして。アサルトライフルの二人は、我関せずという様で従っている。

 彼我の距離、五メートルほど。まだ遠い。


「事情聴取中と言ったな。……彼女の側に弁護士をつけた取り調べは?」

「あ? こんなテロリスト予備軍に――」

「そうだな。行っていないだろう。……つまり内閣府令35647号に基づく戦時及び移行期間に関する特別規定――大戦中及び終戦後に関するスパイ等防止措置における逮捕である、と推測される。誤りはないな?」


 脳内で、関係法令を漁る。

 武力――強制力の行使は、法によって承認される。この現代において、人は、国家の庇護と引き換えに大なり小なりその権利を手放すことが求められている。自衛権を飛び越えて、他者を害する力を持ってはならない。

 【フィッチャーの鳥】たちの横暴を担保しているのは、この法律だ。そして戦時特務軍事委員会によって、特段の定めによって司法的な人権は制限を受けてしまっている――人権という法の理念に目を瞑らさせる法であり、しかしそれは、国家の存続や人命の保護という大局的な観点から求められた法令だ。

 その是非を、己は問わない。それは己が決めることではない。己は、ただそれの執行者だ。


「取り調べ中とのことだが、拘禁は行っていたのか? 行っていたのにこの場まで逃げられたというなら、なるほど、貴官らは実に選ばれた軍隊だろう」

「あ? 何が言いたいんだ、てめえは」

「拘禁から一度釈放を行ったというなら――同内閣府令に基づき、同一事件における起訴はできない。つまりは逮捕の要件を満たさず……極めて不当な拘禁にあたるという話だ。この時点で貴官らの行為は、何ら適法性がなく……そして軍紀で裁かれるべき暴走行為だ。暴走行為への自衛は、法の認めるところである」

「うるせえな。なんだ、てめえは……」


 腹の底から吐息を漏らす。

 自分は無手――相手は武装。ここで、射殺される危険がある。

 だが、


「止せ、と言った。……警告だ。速やかにその手を放し、加害行為を止めない場合――それは生命・身体・財産等の国家の保証を受けた生存権及び人権への重大な侵害行為と判断する。市民として、その防衛に対しての権利を行使し得る」


 言いつつ、距離を詰める。

 アサルトライフルの二人は、僅かに警戒を示した。残る二人の青年に据銃の兆候は見られない。

 わざとらしく足音を立て、近寄る。こちらを見たラモーナの金緑石クリソベリルの瞳を睨み付けた。

 伝わったのか、はたして彼女は徐々に身を引こうとする。もう少し、時間を稼ぐべきだろうか。


「再度の警告だ。これは連盟の大憲章に基づく自己または他者への防衛行動だ。……現在占領下となったこの地域において、特措法及び暫定的に連盟大憲章が適応されうると示されている。……速やかに彼女から手を放し、下がれ。この警告に従わない場合、状況に応じた措置を実施する」


 考えつつ、口を開く。

 喋りながら、考える。考えるために喋る。

 つまりは、ただ無意識に近い散漫な言葉を吐き出すその内に――己という機械を組み立て上げる作業。単純作業による没頭。ある種のルーティーンワーク。


「元警官か、お前。誰に言ってるのか判ってんのか? オレたちは保護高地都市ハイランド連盟軍で、【フィッチャーの鳥】だぞ!」

「……戦後加入で、か。仮にも軍人を気取るならば、大憲章の宣誓の暗唱は可能であるかと問いたいが、如何か」

「あン?」

「言えと、そう言った。それとも人語以外での語りかけを希望するか? ……生憎と翻訳機を持ち合わせてはいないが、豚語と猿語のどちらが望みだ?」


 言えば一人が、片眉を上げた。

 だが、その奥の女性を捕まえている側の青年は口笛を吹いただけだった。


「よかったじゃねえか。逃げ出そうとしてたのは、この男と落ち合うためか? 便所の淫売が随分といい男を捕まえたな。ヒーロー気取りで身の程知らずだ。失職中の元警官か? それとも盲人か、なあ?」


 背後から女性の髪を掴み、こちらを見せつけるように無理に顎を上げさせる。彼女は、縋るような――それ以上に怯えたような瞳をしていた。

 一度、息を吐く。

 落ち着いている。落ち着けている。つまりは、何の問題もないということだ。

 私情は完全に切り離している。全ての己の行動は、合理性と妥当性と必要性の下に遂行される。

 最効率を導き出す、己の有用性の発揮。

 そうでなくてはならない。……己は、感情では行動しない。自制しなければならない。これは、正義感ではない。


「見過ごせない侮辱行為も直ちに取りやめろ。状況から判断するに、それはその女性に対して爾後の重大な精神的苦痛を齎すに値する案件とも見られる」

「わかりにくいことをベラベラと……それで、ヒーロー気取りのお前は要するに何がしてえんだ?」


 相手の嘲弄へ、頷く。


「そうだな。……可及的速やかに貴官らを無力化するとしよう」

「あ?」

「暇がない。つまり、最悪の際に、警告に従わない場合は命を奪うことも視野に入れる――そう言った。……案ずるな。貴官も【フィッチャーの鳥】、つまり駆動者リンカーならば、遺書の用意は常日頃からある筈だ」

「な、に……? 何を言ってんだてめえ――……!?」


 そこで初めて、明白な動揺が見て取れた。

 彼らはおもむろに腰の銃に手を伸ばそうとしていた。

 だが、それでも遅い。あまりにも遅い。ここまで正面から直接的に面罵される経験はないのか、彼の中でこれは即ち発砲を必要とする危機的状況には当たらぬらしい。……近接射撃の足手まといになる女性を遠ざける様子も見られない。

 ……――うんざりする。

 己があの勝利を掴んだ訳でもないのに笠に着て、さも優越者のような振る舞いをする新兵。この国の士官教育はどれほど低下したというのか。このような手合いをのさばらせるために、皆、戦いに命を懸けたのではない。

 ――

 そう己の内で片頬をつり上げた獣の首輪を締め上げる。

 感情によって、私情によって誰かに裁きを与えられると思い上がるな。裁くのは裁判所の仕事で、己の仕事は違う。そう戒めながらも口を開く。


「無抵抗の市民を脅すことはできても、自らに暴力が向けられることは恐ろしいか? ……貴官の理屈の通りの筈だ。何故、己がその定理の例外となると考える? 全ての命は平等だ。誰しも例外はない。法の下の平等を知っているか?」

「さっきから何なんだ、てめえは」

「望み通りに、理不尽な暴力を肯定してやると言った。……念の為だが比喩だ。あくまでも俺のこれは、法に基づく自己または他者への自衛権の行使にすぎない」

「こいつ――」

「最終警告だ。法的に必要な警告は、これで最後だ。……その手を放し、その侵害行為を速やかに停止せよ。或いは適法性を明示せよ。当方は侵害への


 こちらの態度に圧されたように、アサルトライフルの二人はいち早く安全装置を切り替えていた。心得はあるらしい。

 それから遅れて、少女を連れた男と手ぶらの新兵が腰の拳銃に手をやった。それを黙って見逃す。本来ならここで制圧すべきだが、避けた。揉め事を起こさずに済ませたいからではない。そう――だ。あくまでも言葉でぶつけてくる多少度胸があるだけの奴だ、と。

 やがて新兵がこちらへと、拳銃の銃口を向けるまで待つ。待ち、そして、言った。


「意識が低い軍人は、チャンバーへの装填も忘れるようだな。……ここがお前たちの愉しい狩場ではなく、あくまでも敵地だと三年の内に忘れたか?」

「そんな訳――」


 揺らがずに言えば、信憑性が生まれる。逆説的に、この新兵の仕事の程度の低さか。

 意識が逸れたその瞬間に、ゼロから百へ。

 瞬発的に地を蹴り、左手で銃口を逸し下げつつ――その手首を掴む。引き寄せると同時に突き出す右拳。握った拳の中指を尖らせた一撃――新兵の眼球目掛けて。

 柔らかく硬い奇妙な感触と、耳に響く異音。寸詰まった悲鳴。眼底骨折――確実なる無力化。

 その銃を引っ手繰りながら腰を回し、男の腕を極めてその肉体を振り回す。振り付ける。アサルトライフルで武装した兵士に目掛けて。その肉体を勢いある障害物として押し付けた。


 揉み合って倒れる音。聞きながら、躰はもう動いていた。

 もう一人の小銃の主。距離が近いためか、射撃ではなく銃床での打撃を優先させたらしい。踏み込み、下方から振り上げられてくる銃のストック。受ければ、強烈な肘打ちよりも深刻に響く。単純であり効果的な技だが――今は悪手だ。

 即座に応じた肉体が繰り出すのは、顔面目掛けての飛び膝蹴り。幼少期から意図的に育てた肉体は常人の限界に迫り、すなわちはその瞬発力も同様だ。

 鼻の骨が潰れる音が、膝に纏わり付いた。着地。崩れ落ちる男のこめかみ目掛けて、斧のように銃の握把を振り下ろす。無力化――極めて平和的に。命だけは奪わずに。


「近頃の駆動者リンカーは被撃墜時の近接射撃訓練は行わないようだな。コスト削減、実に結構だ。……選ばれた軍人ではなく、選ばれた粗悪品であることを誇るといい」


 握り直した拳銃。己の肩に近付けるように握り、斜めに傾けて構える。そのまま、揉み合って下敷きに倒されたアサルトライフルの男の頭部へと照準。

 戦地ならば警告なしでもう射殺していただろうが、ここは市井だ。相手が何にせよ、極力発砲は最小限に控えることが望ましい。

 そして女性を連れていた新兵が、その黒髪の女性を脇へと突き飛ばしこちらへと拳銃を向けていた。どうやら、ようやく彼女に人質の価値はないと判断したらしい。


「動くんじゃねえ……! いいか、動くな……! やりやがったな、てめえ……デカイ顔をしやがって……!」

「……そういう貴官は声だけは大きいな。立派だ。老いた父母も助かるだろう」

「――――!」


 その瞳が激昂に染まる。銃口は怒りに震えている。

 見ながら、己の内なる何かが頬を釣り上げた――――否定する。怒りは一つたりとも交えていないと自認できる。

 これは、ただ単に必要性があり合理的だからだ。頭は完全に冷えている。


「くだらぬプライドに命をかけるとは、俺にはない勇敢さだ。……如何に無意味であれ、そこだけは見上げたものだ」

「この、テロリストが……! 舐めやがって……!」

「恐怖を以って我欲を通すならば、貴官こそがだろう」

「な、に――?」

「テロルの語源も知らないか、忘れたか……記憶力や知能に問題があるならば、駆動者リンカーを辞すべきでは?」

「黙れ! これが見えねえのか!」

「……見たが、それがどうかしたのか? 型式と装弾数、射撃特性の解説を希望だろうか? 安全装置の外し方からか? 通常は教育を受ける筈だが……ママはおっぱいの美味しいしゃぶり方しか教えてくれなかったか? お前ほど早漏でないが、引き金はデリケートだ――」

「てめえ――ッ」


 横合いから撃たれる。有利は彼だ。あちらも――そう思っている。そう信じている。そして、怒りで視野は狭まった。

 故に、

 単純な技だ。敵の呼吸を読み、右膝を抜く――それだけ。

 それだけで片膝を突きつつ腰を捻って、真横の相手に銃を向けることが叶う。怒りに狭まった視野と、そして上下動への追視が苦手という人間の特性を合わせれば、この状態からむしろ有利が取れる。

 敵の銃声。頭上を通り抜ける銃弾。

 これで防衛は成立する。あとは胴に二発、頭部に一発を撃ち込めば敵の明確な無力化は叶い――


「何してるの、貴方は!」


 叫びと共に、吹き付けられる白煙に阻害された。

 消火器か。声はウィルヘルミナか。

 咄嗟に銃口を下方へ。発砲。新兵の右腿辺りに照準し直し引き金を引いた上で、煙の中から引かれる手に従ってその場を離れた。

 背後から悲鳴と叫び声が上がる。叫びは、先ほどの新兵のそれだけ。どうやら、上手く命中したらしい。跳弾が他に当たった気配もなく、ひとまずそこだけは安心するところだった。



 よほど急いでいたのだろう。彼らが乗り付けた所謂ジープのような軍用車には鍵がそのまま残されており、奪うことに労力はまるで必要なかった。

 自分たちの車を盗むものはいないという慢心――……本来なら最も危険で最も注意せねばならない衛星軌道都市サテライトという空間であるのにこの有様だというのは、如何に彼らが腐敗していたかを示すような物だった。

 頭が痛くなる。これでは、【ハシバミの枝ヘーゼルアスト】やその他の反政府組織に結成の正当性を与えているだけだ。次なる戦争を防ぎたいというなら、まずはその襟を正すべきだろう。お粗末すぎる。或いはこの潜入任務が、彼らの程度の低さを観察させるためではないかと思えるほど。


 ――負傷者三名。内一名は深刻な出血あり。


 殺害するよりも負傷させる方が効率的だ。そして、放置できない重症であるほどよい。あのアサルトライフルで武装した兵は、追ってこられない筈だ。そしてあの女性にも構っていられまい。

 目的は無事に達成した。

 必要最小限の武力の行使だと、そう認める。十分に警告を実施し、死者は一人も出さずに終えられたのだから。

 今回の作戦の交戦規定R.O.Eに規定されていた銃火器及び武力使用の許可は『自衛及びその他任務に必要と認められない範囲においては、その使用を禁ずること』――……そもそもあのように厄介事を起こしている時点で反しているかもしれないが、規定にはそれ以上の特段の禁止条項はない。

 つまり『』ということである。交戦規定というのはそういうものだ。か、を行うようになっている。


 例えばここで、【フィッチャーの鳥】とことを構えるなとか、事情を説明しろとか、争うなとか、黙って従って後の解放を待てとか、その手の文言は一切記されていなかった。

 あるのは『判断においては、作戦開始時の欺瞞工作の意図を認識すること』という条項のみ。

 前の通り、潜入任務における動き方は全てこちらに一任されている。大戦時にこちらがかつて行った友軍への銃撃を踏まえてなお、その静止を願うような声はなかった。


(越権行為か? いや、あくまでも市民に認められる防衛権の行使――……そして何よりも、


 保護高地都市ハイランド連盟を離反した――という軍がこちらに用意したシナリオを裏付けるような動き。交戦規定の前提として記された命令。それに反していない。むしろ、真実味を与える行動。

 そして、身分を明かせないが故に【フィッチャーの鳥】へと身分や言論を以って場を収めることができなかったこと。

 彼ら自身で恣意的に立場を利用したことを認めており、その言動から到底説得は通じそうになかったこと。

 更に、彼らの正常な任務遂行をいたずらに妨げた訳ではなく、あくまでも連盟法規においても避けられるべき事態に及んでいて急を要すると判断されたために実施したこと。

 十分な通告を行った上で、相手に是正されぬために実行したこと。

 加えて、死者は出していないこと――その六点を以って弁明するは可能だ、と考える。或いは過剰だと裁かれるかもしれないが、後のそれは、裁判官の判断だろう。

 しかしながら――……それを隣の座席に座った炎髪の少女に対しての弁解として使うことは不可能だろう。


「あんなことをして、他の人間にその被害が及ぶとは考えないのか! お前が――お前一人が一時的な正義感でああして、その結果と責任を取らされる人間たちのことを! 報復を! いい気になるのは、その痩せこけた正義感を満たすお前だけだ!」


 訴えかけるウィルヘルミナの目には、こちらへの明確な怒りがあった。或いはそうして彼女自身を律しているのか。

 確かに頷くところだったし、それは懸念だった。

 彼ら【フィッチャーの鳥】にテロリストの捜索という名目を与えてしまう。明確に。あれほどの被害を蒙ったのだから、彼らも躍起になるだろう。これまで以上に苛烈に――己の行動の前にそれを想像しないほど不見識でもない。


「どうする気だ、お前は! これから! あの行動が理由で――お前の行動が理由で! 誰かが傷付くことを、どう責任を取るつもりだ!」


 聞きながら、車を走らせながら、ふと――確かに彼女は高貴な出なのだろうと思った。責任と結果を考えている。民を案じている。それは貴なる人間の持つ自負と責任感だ。

 もしこの身が保護高地都市ハイランドの軍人でなく、己がハンス・グリム・グッドフェローでなければ、彼女を支える道もあったのかもしれない。そんな尊い素質がある。

 そう思わせるほどの少女だった。

 しかし、


「……思うが、それは、俺の責任なのか?」

「な、に――……?」

「不法行為を行ったのも、これから行うのも、彼らだろう。全てはあちら側の選択であり判断だ。……それは俺の責任なのか?」

「っ、詭弁を――相手をそう予期できて、行動を起こすことへの責任がないとは言わせない! 如何に悪事を行うのが彼らとしても、身勝手な善のその引き金引いたことへの責任は伴う! と思うほど、お前は子供ではないだろうに!」

「……それは、貴官が己をこそそう縛る理由か?」


 こちらへと呼びかけるというより、己自身の鎖を必死に握り締めるように――叫ぶウィルヘルミナには、そんな様子が見て取れた。


「今は私の話ではない! 話を逸らすな、オーグリー・ロウドックス!」

「……逸らしたつもりはなかった。ただ、ふと思っただけの感想だったが……そうだな。これはあくまでも一例だが……居なくなるまで取り除けばいい」

「な、に――?」

「一般論だが……割れ窓理論、というものがある。むざむざと法への違反を見逃すから、あの手合いは蔓延る。終わらない。……正常を求めるなら、その最後の一人まで厳密に取り締まるべきだろうな。それがある種、法と善に対する誠意ともなる。

「平たく……均す……」


 尤も、それは空論だ。

 その衝突で生まれる犠牲というものを無視している。積み上がる怒りと恨みという感情を無視している。

 それは決して彼我の対立からではなく、内部から行われなければ意味はない。外部が行ってもただ火種を生むだけだ。幸いにしてヴェレル・クノイスト・ゾイスト特務大将との縁ができたため、いずれ顔を合わせたときにはこの件について伝えるべきだろう――と心に留める。


(机上の空論だ。……後ほど然るべき部署に改めて報告することこそ正道だろう。そして、軍紀に従い法廷で争うべきことだ。もっとも、そんな説明は、ウィルヘルミナには伝えられないが)


 しかし――半分は本音だ。というのは少なからずこれに由来するだろうとも思う。

 ただの一人になろうともだと唱え続けるために――抗い続けるために、決して譲らぬものになろう。そう思ったところはあった。


(……勝手ではある。そうして俺一人が唱え続けたところで世は変わらない。対処療法のようにその手合いを取り除き続けたところで、世は良くはならないだろう。決して)


 しかし、一度でもそれを見過ごせば己は理由を付けてそれを見逃しかねない――そんな理由から、理解していてもあのような行為の実行を止めないところでもあった。

 それは、咎められるべき個人的な事情であろう。

 無論、あの場の行為においては私情とはまるで別に理性から合理的な判断を下したと自認するが。


 少し走らせた路地裏に車を停める。

 彼ら【フィッチャーの鳥】の制服を持つもの以外が乗り回していれば、目立つだろう。今だけは、避けるべきだ。

 電動モーターエンジンはアイドリング音も振動もない。ダッシュボードを物色していれば、ウィルヘルミナが口を開いた。


「それで、実際……どうする気なのですか、貴方は」

「俺の居場所をリークし続ければ、彼らの目は俺に向くだろう。仲間をああされたとあっては、おそらく他者への見せしめの余裕や少なくとも無意味な尋問はなくなる筈だ」

「それでも、見せしめが行われたら? いえ……というかそもそも、判っているの? 貴方が狙われ続けると――そういうことでしょう、それは。どうするの? 相手は……街のゴロツキではなく、正規軍なのよ?」

「そうだな。何にしても――


 言えば、ウィルヘルミナの頬が凍った。

 こちらの短い言葉から、その背景たる何かを察したのかもしれなかった。


「まさか……反政府組織に、貴方は……?」

「否だ。見ての通り、俺はどうにも集団生活や社会性というものが不得手らしい」

「な、なら――なおさら正規軍相手になんて……!」


 確かに、無謀だろう。自殺志願者に等しい。他の皆ならば或いは生身で軍を相手取っても生存可能かもしれないが、おそらく自分には不可能だろう。

 だが、だとしても……


「敵が強大だ。或いは独力では不可能だ……?」

「――!?」

「俺は立つ。立ち続ける。法の旗の下に。……ぶつかってくるならば、俺は変わらずにそこに居続けるだけだ。全てがその道から、消えるまで」


 こちらを見るウィルヘルミナの金色の瞳に恐れが宿る。狂人だと――そうとでも言いたげな色の目。


「皆殺しの魔剣……」

「……俺は剣ではなく人だ。それに、特に皆を殺す必要もない。砕き続ければいずれは挑む気も起きなくなるだろう」

「人間はそう単純ではないわ。……損ねられた面子や払った犠牲から、止まれなくなるものよ」

。……それでも、だ。それでもあの手合いに阿る気はない。妥協はしない。……そして彼らが諦めずに死を積み重ねたいなら、その選択を尊重しよう」

「……殺すのは、貴方なのに?」

「死にに来るのは彼らとも言える。……無論、死なせずに済ませる努力はしたいところだが。ただ、人間の、その内心にまで俺は干渉しえない。警告はするが」

「……」


 それで問答は終わりだった。

 これ以上言葉を投げかけようともこちらは一切引かない人間だ、と判断したらしい。だ――と。

 無論、なんら間違っていない。退く気はないのだ。この世界が、死と戦争を積み重ねる世界と知ったその日から――それに屈せぬために、決して譲らないと決めた。

 譲らないことでへと成るために、そうすると決めた。


 ……そうだ。ただ一度の妥協もしない。


 秩序とそれが守る善を是とした旗の担い手になると、連盟旗にそう誓ったものを外れぬと己を定めた。

 己が愛するものを守るために、ただ法とその理念が守らんとしているものを是とし、その法令や命令に従い、その範囲から逸脱せず、十分に職責を担い、努めて遵守し、そこに許されるものの内で己という人間を通す。

 そんな人間でこそあろうと――己は己をそう規定する。その信条から、なんら嘘はない言葉だ。


 それとは別に……これは好都合なことだった。だから過剰なまでに口にしたとも言える。

 その背景にどんな事情があるかは知らないが、ウィルヘルミナにはこれ以上付き合って欲しくない。それはこの先の任務の性質からしても部外者の介入を避けたいものであるし、同時に彼女自身の身を案じてのものでもある。

 間違いなく、この都市にいる間は【フィッチャーの鳥】に狙われ続けるだろう。あの後にいくら説得しても遠ざけられなかった彼女を遠ざけるには、またとない機会となる。

 だが、一度目を閉じた彼女は……


「……オーグリー・ロウドックス」

「何か?」

「いや。……何としても、お前は私に仕えるべきだと……そう言った」

「断る。繰り返させないでくれ。……それに以前、ではなく使と言っていなかったか?」

「うるさい。……うるさいわ。うるさいのよ」


 何かに悩むように、その淡い炎髪を握り締めて俯いた。

 時間はない。それは彼女にも判っている筈だ。このままいれば巻き込まれると。追撃がかかると。

 しかし、


「……ええ。貴方がああしていなかったら、私が撃っていたかもしれない。ああ、さぞ――……こうなっていなかったら、本来なら、さぞ実力もあって高潔な軍人だったのでしょうね。貴方は」

「そうだったら、この場にはいない」

「皮肉よ。なのにまたそんな――……ええまあ、いいわ。認めてあげる。あんな横暴を行う奴も、それを許すような敗北を与えた軍人も、例外なく皆どうしようもない連中よ。認めるわ」

「……」

「本当に、どうしようもない連中――……」


 噛み締めるように呟き、それでも、彼女はこちらの元を去ろうとはしなかった。

 それを眺めつつ、ウィルヘルミナ・テーラーに対しての警戒度を内心で引き上げる。

 明らかに――明らかに貴族の娘が首を突っ込む事態を超えている。それなのにまだこちらを見捨てないとは、どれほどの厄介事を抱えているというのか。これまでは看過していたが、些か見過ごせない状況にも片足を踏み入れていた。

 だが、彼女はそんなこちらの内心に気付いた様子もなく、


「それで……貴方はどこかに行こうとしてたんでしょう? これから、どうするつもりなの?」

「貴官には何ら関係ないことだ。ここが潮時だろう」

「……貴方を、助けたわ。助けたの。貴方を」

「頼んではいない。……貴官が来なければ、あのまま残る敵を無力化していただけだ。残弾は十分にあった」


 二人ほど死んだ、とは思うが。

 そういう意味で――彼らにとっても己にとっても彼女は恩人なのだが、そんな内心を出すことは止めた。


「この、頑固頭クロームヘッド……! 前線症候群なの、貴方!? 姪御さんもいるのにあんなことを……後先も考えずに……!」

「……考えはした。警告もした。そして実行した」

「こんな……ああもう! いいわ! 私の使った業者を教えてあげる! それで、どこへとも行ける筈よ! 一つこれで貴方に貸し! だから、このまま私と一緒に――」

「貸してくれとは頼んでいない」

「――――!」


 言った、瞬間だった。

 甲高い音が響く。口元を覆うマスクがズレる。


「この死にたがりめ! お前は、ただの自殺志願者だ!」


 惚れ惚れするほどの平手打ちと共に、肩を怒らせたウィルヘルミナは車を飛び降りて去っていった。

 それを眺め――……吐息を漏らす。

 秩序と法の理念から不当な扱いをされようとしていた女性を助けるのは、理性と感情から頷くことだった。

 その行為を今回の任務の背景を彩るために使うのは理性から頷くことで、一向に付き纏うことをやめないウィルヘルミナを遠ざけるのも任務上には必要なことだった。

 その望み通りにことが進んだ。ならこの平手打ちの痛みなどは、必要経費以下だろう。そう、己に告げる。一日に二度も別の女性から平手打ちを受けるのは、中々ない体験だが。


「……ごめんね、おーぐりー」

「構わない。君の行動は人として正しかった。……君がいなくても、きっと俺はああしただろう」

「……ううん。おーぐりーは、優しいんだね」

「優しくはない。そうなら、別の手段をとっている」

「……うん。そうだね。おーぐりーは、そう言いたいんだよね。本当に優しい人たちのために、自分をそう言われたくないんだよね」

「……」


 単に、必要ならば躊躇いなく友軍に目潰しし眼底を骨折させる人間にその修飾語は不適格と思っただけだ。

 強制力の行使のガイドラインに従った上でだが――必要とあらば人体に対してどのような暴力さえも執行できてしまう人間は、この世で最もそんな評価からは離れている。


「ねえ、おーぐりー……でも、おーぐりーは、あの人たちを敵だと思ってなかったんだよね……?」

「……」

「……ごめんね。おーぐりーのこと、少し、判らなくなった」

「そうか。……すまない。見ての通り、殺すことが得意なだけの人間だ。必要性の下に、状況に応じて、許容範囲での最も効率的な手段を実行する。それが俺だ」

「……」


 後部座席で逸らされた目。

 殻に閉じこもるように、その大仰な保護服越しに彼女自身の腕を掴んでラモーナは口を噤んだ。

 不信を抱かせただろうか――……是正に努めるべきだと、内心で勘案する。この街に来た当初、養父であるラッド・マウス大佐への損害になることを理由にこちらへ銃を向けていた少女の姿は、そこにはなかった。

 あの時と彼女との関係性が変化したが故か。

 それとも、ここでの暮らしで彼女の内で何かが変わったのか――……それは判らないが。


(……そんな俺の方は、変わったろうか)


 未だ手に残る眼底を砕いた感触と、膝にこびりついた顔面を潰した感触。そして、大腿を撃ち抜いた感触。

 僅かに手のひらを握り――自問する。

 ハンス・グリム・グッドフェローが、オーグリー・ロウドックスと名乗ることで何か変質しただろうか。


 ……いいや、


 シンデレラと出会ったあの日と同じ根を持つ行動であり、結果の違いがあるとしたら、こちらが今は軍人という身分を持たず拳銃を所持していなかったこと。

 だからこそ、シンデレラとのあの日は言葉での解決が行えて――今日この日は、暴力による決着となった。あの日、シンデレラに絡んでいた二人組が仮に退いていなければ今日と同じ結果になっただろう。

 つまりは、合理性。そして必要性。

 殊更に相手の怒りを煽るような、あの新兵教育で相手に向けるような口調もそれと同じだ。状況的に相手を怒らせるべきであったから、そうした。

 己は一切変化を見せてはいない。状況が変わったから、対応が変わっただけだ。方程式には何ら違いも曇りもない。


「……どうするの、おーぐりー?」


 やがて、俯きがちのラモーナが伺ってきた。

 頷き返す。


「使えそうな資料がいくつかあった。交渉の材料になるはずだ。他に使えそうなものがないか、探してほしい」

「……悪いこと、してるみたい」

「身分を偽って潜入した時点で、法を犯していると言える。あの競技に参加しているのもそうだ。既にいくつかの法には触れた。……そしてそれは本件に関して、任務上の必要においては容認されている」

「……」

「あれほど派手に騒ぎを起こせば、すぐに空港なども封鎖されるだろう。ここから出る手段はなくなるということだが――……」


 事態は悪い。

 この宙域の【フィッチャーの鳥】の捜査能力など、あんな違法性ある競技が開催されている時点で知れたものだ――と思ってもいいかもしれない。

 だが、そこには何か政治的な――社会的な力が働いているというのは十分にあり得る話だった。

 今回の己の行動が、それらで交わされた暗黙の取り決めを軽々と踏み躙るものであろうとも当然思える。彼らにとっても面子がある以上、今までのその職務実績が参考にならないとも。

 だが、


「問題ない。やりようはいくらでもある。……俺に考えがある」


 こちらとてほぼ単身で潜入を行う――そんな危険への備えがあると、ラモーナへ頷くほかあるまい。

 のだ。

 連盟旗に誓ったその日から――全てに。備えているのだ。

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