第80話 アクタイオンの猟犬、或いは女神と狩人

 岩肌を剥き出しにしたデブリは、そのものが或いは宙に漂う蜂の巣を思わせる。

 両腕に二門の鋭い針を持った細身のアシナガバチ――。

 絶対女王の駆るアーモリー・トルーパーは、無機質にして寒気を抱かせる真空の中に現れた昆虫型異星人にすらも似ている。


 アルテミス・ハンツマンの渇いた白色の機体が有するのは、尾を向けた蜻蛉の如き形状の圧縮ガスライフルだった。

 翼あるそれは、まさしく腕に止まった蜻蛉だ。

 四本の平型ガス供給タンクを利用することでガス充填速度を早め、銃身後方に位置する二つの目のような回転する円盤がそのリロードを補助する。

 万一の摘発に備えて増設の推進ユニットとも言い逃れられるように誂えられたその特注品は、発射の反動を翅に逃がすことで銃身の安定を容易にし、更に射撃後の運動とガス圧縮を補助する。無駄のない武装であった。


 つまりは、だ。


 彼女は更に推進能力を有しているということに他ならない。万が一、その機体の推進剤を使い切ったとしてもアルテミスの【レディーバード】――“ハンツマン”が潰えることはないのだ。

 攻防一体の正確無比な慣性制御と、最高速度維持可能時間による決定的に揺るがない勝利。

 それは或いはかつての彼女の走りと同質のものだった。

 故に――アルテミス以外の人間は、この場での勝負の趨勢の行方に諦めに近い感想を抱いていた。


 いや、アルテミスとを除いて――だろう。


「船の沈め方ならば心得ている――つまり、ということだ」


 そんな通信と共に、マッシブな上腕を駆動させ隔壁破壊用のアックスソードを抜刀する【ハンプティ・ダンプティ】。

 まさか、と誰しもが思った。

 誰しもが――アルテミスすらも。

 そしてその直後、隔壁を粉砕した機体が宙間座礁船に潜り込むと共に――……それは真空に響き渡る無音の爆発として返答された。

 降り注ぐ破片の雨。散弾。破壊の嵐。鉄と死の流星群。


『なんと、デブリ除去の名目さえも忘れた大爆発の吹き飛ばし――――!? 船内に残っていた弾薬を利用したのか!? いや、何だこの男――あらゆるもので人の命を奪うってのか!? 殺しの申し子か!?』


 驚愕を伝える実況の、他人事の響きなど受け取る余裕はない。


『イカれてる! イカれているぞ、オーグリー・ロウドックス! なんとこの男、アーモリー・トルーパーで船を吹き飛ばした! 巻き込まれてないか!? 装甲は大丈夫か!? そこを気にしないのが死神と人の差か――!?』


 タブーだ。

 常識を外れている。価値観が狂っている。発想が逸脱している。

 ただ撃墜するため――ただ殺すために。

 あらゆるものを利用する。己をそう指向する。存在そのものを殺傷に変換する。

 ああ、まさしく――それでこそあの特殊作戦を踏破せし、生粋の猟犬。生来の狩人。生誕せし破壊者。

 生と死しかルールのなかった開戦初期にて、それでも揺らぐことなく戦場に立ち続けた不毀の鉄剣。彼こそが紛れもなく【アクタイオンの猟犬ハウンズ・オブ・エークティオン】の理念を体現した完成品。


 銘を――ハンス・グリム・グッドフェロー。


って、教えたのに――……」


 デブリに身を躱すアルテミスの呟きに、返された憮然とした通信。


「……と聞いた覚えがあるが」

「殺してでも生き残れ、だけどね」

「そうか。……なるほど、見ての通りだが」


 デブリを回り込んだ筋肉質の逆三角形なアーモリー・トルーパーが、その右手の斧剣を【レディーバード】の首目掛けて突き付け、腰溜めにガス圧ハンドガンを構えていた。

 ただ話す言葉が相手への鋭い叱責となり、揺るがぬその実力があらゆる弁舌よりも激しく敵を叩き潰す静かなる傲岸不遜の絶対剣。

 その装甲は船内の何某かを盾にしたのか、驚くほどに損傷は少ない。だとしてもそれでも多くは罅割れ、一歩間違えればコックピットを破損させて死亡していてもおかしくない損害であった。

 船の爆発にてアルテミスの回避ルートを限定させた上で、更に自機にその加速を利用する。そんな捨て身としか言いようのない策を成り立たせたのだ――天性の殺戮者としか呼べぬ振る舞いだった。


「無茶するね、キミ」

「……あの日々に比べたら、無茶には入るまい。俺はそう認識する」

「減らず口。……で、どうする気? いいわ。ここからの撃ち合い――もうここなら、どちらも命懸け。死線そのもの」


 頬を三日月に歪ませるようなアルテミスの言葉に、僅かに無言が続き、


「……そうしたいなら、すればいい」

「そ? なら、こう言おっか。――?」

「……目に見えた勝負に興じたいなら、それもまた貴官の自由だろう。人には愚行権の自由もある」


 挑発なのか、本気なのか。

 憮然としたまま訥々と語るその言葉は、あの訓練の日々を思わせて――……ああ、何かと他人から絡まれたり野次を飛ばされたり反感を買われたりする訓練生だったな、とふと思い出した。

 だからこそ、アルテミス・ハンツマンは殺意を強めた。


 自分の前に現れた、かつての猟犬の日々の結晶。

 若かりし自分が心血を注いだ、使命感と理想の結実。

 それを体現した鋼鉄めいたこの男の命をこそ、奪わねばならないのだと――……そう彼女は操縦桿を握り締めた。


 本当に、揺るがない。

 何も変わらない。

 ただ泰然と――この世の一切に動じることのないように、ただそこに立ち続ける鋼の樹の如き男。

 だからこそ、殺さねばならない。


 それはあまりにも眩しくて。

 それはあまりにも愛おしくて。

 それはあまりにも寂しくて。


 だから、アルテミス・ハンツマンはこの男を――過去の己が作った男を、昔日の面影を、骨の髄まで喰らわあいさなければならないのだ。

 彼ら猟犬とのあの日々を、愛せばこそ――だ。


『ええと……と、突然の西部劇だ! メメント・モリとアルテミスの一騎討ち! 互いに逃げ場のない、命懸けの決闘が始まった――――!?』


 司会者の声に、


「……元より、命懸けだろう」


 ――と言いたげに呟かれた声。

 他者には感じられなくとも、アルテミスには僅かにそこに憤懣と侮蔑の響きが混じっていたことを捉えて――ああ、と目を瞑る。

 あの日から変わらない。

 本当に、その心根すらも。あれだけの殺しを行って、あれだけの地獄に直面して、それでもに反することへの義憤を失っていない。


 故に――アルテミスの殺意は、最高潮に達した。


 否定せねばならない。この存在を。この生き物を。

 否定せねばならないのだ――――彼ら猟犬を愛したからではない。かつての己が作ったものを今の己が喰らうためでもない。今の自分を認めるためでも、過去の自分を許すためでもない。

 このを、アルテミス・ハンツマンは否定せねばならないのだ。

 純粋なる不倶戴天。純粋なる嫉妬。純粋なる殺意。

 を認めてしまったら、という――腹から首をせり上がる否定の念。


 故に、どちらからでもなく。


 その決闘のコインは宙を舞い、死出の舞踏は幕を上げた。



 ◇ ◆ ◇



 光学式の振動感知センサーが知らせる銃声。偽りの銃声。

 響いたのは、全く同時だ。

 そしてそれらは、互いの装甲を撃ち抜くことがなかった。


 アルテミスの放った圧縮ガスライフルは初めから攻撃ではなく回避機動を呼ぶためのものであり、その紙一重の転換がガス圧ハンドガンから放たれた弾丸を、白褐色の機体胸部を掠めさせるだけに留まらせた。

 その、後ろに倒れ込むような形のまま――あたかも居合めいて、細身の【レディーバード】の持つライフルの長銃身が掲げられる。

 如何に頑健なる両腕を持つ【ハンプティ・ダンプティ】といえども、重力下に比せば機体重量が持つ反動の抑え込みは有効に働かない。いや――働くとしても。慣性制御の達人たるアルテミスからすれば、それは明確な隙となった。


 ごく至近距離で、ハンドガンを圧倒する狙撃ライフルという矛盾――――それを可能とする技量が、アルテミス・ハンツマンにはあった。

 だが、


「――――」


 流石の百戦錬磨。

 とうにアルテミスの飛行時間を追い越し、その全てを殺戮に使ったハンス・グリム・グッドフェロー。

 その勝負勘は逡巡や撤退ではなく、ただ攻撃と殺傷へと割り振られる。

 弾丸を放つと同時に推進剤を噴射していたのだろう。

 一手で仕留めるという価値観がない、或いは古来のマーシャルアーツのような残心。相手を決定的に殺傷するまで気を緩めぬという殺戮者の本能が、その宇宙飛行士めいた灰色の機体を前に押し出していた。


 衝突を以って、銃身を砕くか。


 なるほどそれは不可能ではないだろう――相手が、己でないならば。

 アルテミス・ハンツマンは、極限に圧縮された思考の中でそう思った。

 宙間での運動は、彼女に一日の長がある。つまりは無重力での接触が如何ほどに双方に損害を与えるのか、そんな加減すらも十分に熟知している。

 ハンス・グリム・グッドフェローが戦闘の達人ならば、アルテミス・ハンツマンは宙間機動の達人だった。


 故に、その灰色の機体の肩部装甲と蜻蛉めいたライフルの銃身が衝突し――結果、その反動すらも利用して身を翻して距離を空けるアルテミスの【レディーバード】と、僅かに前進の勢いを失ったオーグリー・ロウドックスの【ハンプティ・ダンプティ】。

 細身の蜂と、灰色の甲虫の邂逅は終わる。

 あとは互いの機体重量と推進剤の出力――つまりは埋められない加速度の差を以って、その戦いは終了する。

 筈だろうと――第三者ならば、思うだろう。


 だが、先程あれほどに噴き出した殺意とは裏腹に、アルテミスは信じていた。

 彼が――あの日々を送った彼が。自分が育てた彼が。この程度で終わるほどの容易い相手ではないのだと。

 あれほど内から湧き出ていた嫉妬と憤怒も戦闘の集中に掻き消え、ただ、当初彼に口にしたそのように――……己が育て上げた無二の猟犬の技量と凌ぎ合うということに、彼女の内なる競技者としての魂は歓喜を上げていた。

 果たして、


(うん、そうなる――)


 ハンドガンのガス圧チューブを引き千切った【ハンプティ・ダンプティ】。

 灰色の卵が、筋肉質の石像が、腰のガスを利用してさらなる飛翔を行う。

 そのまま、その頑健なる右腕が振り被る武骨なる斧剣。先端に扇形の斧頭を抱えたアックスソードが、鉄塊めいて振り付けられる。

 ああ、だが――。それは。


 一流の競技者には欠かせない研究。

 徹底して敵対者を咀嚼して分解する解析。

 オーグリー・ロウドックスの闘技者ファイター登録されるその日の、粗い映像を、公式には誰が用意した訳でもない映像を、それでもアルテミスは用意して分析した。

 彼のこれまでの戦いを分析した。

 軍人として、駆動者リンカーとしてどのような機体構成を行い、どのような戦闘を行っているのかも民間で手に入る限りの情報で分析した。


 あのかつての競技者の日々のように己を直して――彼を分析し尽くした。


 ああ、だから殺したかった。

 一つたりとも油断できぬ最高の敵である彼を殺そうとしているそのときには、己は、またあの挑戦者だったアルテミスに戻れるのだと――あの日々に戻れるのだと。

 それが彼女を、狩人を殺す女神として完成させた。


 そして実際、彼女が見込んだその通りに彼は近接戦闘に移行する。決定的な場面だからこそ、強敵だからこそ、最も己が信頼する戦闘方法を選択した。

 その、読みの差と温存。

 敢えて噴射仕切らなかった推進剤を追加。更に互いの距離を取る方向へ、アルテミスの機体は後方へと飛ぶ。

 アーセナル・コマンドほどの加速度を持たぬからこそできるバックブースト。背後移動。


 きっとアーセナル・コマンドとの戦闘を主としていた彼では、ここまでは意識の中にはあるまい――――。

 そんな、愛するに等しいほどに斬り刻んだ狩人の歩み。

 逃げる女神は、その盾形コックピット・キャノピー目掛けて鋭い銃口を向け、


「――貴官の優位はここまでだと、言った」


 告げられる底冷えのする声。

 何をと――応ずる暇もない。

 アックスソードを振りかぶっていた筈のゴーレムめいたその機体が、姿勢のままに彼女に向けたのは片脚。

 そこに備えられたのは加速パイル。

 届くはずがない。通じるはずがない。四つの車輪に挟み込まれた鋼鉄の加速杭は、安全装置にて飛び出るはずもない。


 だが――そこに、



 猛烈に稼働した車輪とパイルが射出した、船の破片。

 それでも彼女は、――と判断した。そう計算した。そう反射した。

 ……だが、ああ、それは正しい。

 かつてのレーサーであったアルテミス・ハンツマンなら動じなかった加速度。揺るがなかった機動。行えていた回避運動。

 


 だが――あまりにも無慈悲に。


 全ての加速度が上乗せされたそれは、アルテミスのガス圧ライフルすらも凌駕し――細長い機体のその片腕の付け根を、吹き飛ばした。



 ◇ ◆ ◇



 ……理由は、それじゃない。


 生まれ育った地を捨て、あの頃の自分を支えてくれた人たちを裏切ってしまったことでも。

 己の他にも旅行者や交流者がいるのに、大地ごと焼き払われたことでも。

 見過ごしては置けずに協力を名乗り出たというのに、諜報員として疑われたことでも。


 死地に赴く彼らに生き残るすべを教えようとしているのに、女であることと衛星軌道都市サテライト出身であるということでしばしば差別的な扱いをされたことでも。

 作戦が功を奏したというのに、政治的な理由から自分がその一員として公式に数えられなかったことでも。

 そんな己を支えてくれた男が家庭人としてはあまり褒められた男ではなかったことでも。


 仕事ばかりで夫が家を開けがちなことでも、思い描いていたような家庭は得られなかったことでも。

 衛星軌道都市サテライト出身を理由に車に跳ね飛ばされてから暴行を受けたことでも。

 同じ衛星軌道都市サテライト出身の帰化者からいい気味だと笑われたことでも。

 どちらの出身者からも同情に値しない人間だと思われたことでも。

 夫がそんな彼らと諍いを起こして降級されたことでも。

 そうしてくれるだけの人なのに、仕事ばかりで家を開けがちなのを改めなかったことでも。


 自分が退役軍人には含まれず、功労金や見舞金が貰えないことでも。

 離婚に際して夫が引き留め一つもしなかったことでも。

 両親を殺した、そして自分を敵諸共に殺そうとしたこの宇宙の都市にまた戻らざるを得なかったことでも。

 己がかつて得ていた栄光の舞台が、政治的な理由からとうに失われたことでも。

 仮にもそこに戻ろうとも、悪意から与えられた怪我が理由でかつての己を取り戻せないことでも。


 そのいずれでも――――ない。


 単に、もっと単に――――……。



 ◇ ◆ ◇



 そうして片腕を失って姿勢制御を崩したアルテミス機に追いつき、デブリへと押し付けて、喉元にアックスソードを突き付ける。

 誰の目にも明らかだろう。

 これが命懸けの試合だと、実況者に言われるまでもない。

 殺人に関してなら、この場の誰よりも行っているのだ。釈迦とは対極に位置するだろうが、何とかに説法――というものだ。

 踏み付けた足の下のアシナガバチの如き機体。

 負けを認めないなら、加速パイルを打ち付ければ損壊させられるだろう――そんな計算をしつつ、改めて彼女と自分だけの秘匿回線……あの日の名残の周波数へと、チャンネルを合わせた。

 

「これが、貴官の行いたかった殺し合いか? ……楽しいのか、こんなものが」


 問いかければ、返ってきたのは――子供のような涙声だった。


「ズルい! 皆して、飛んで! 飛び続けて! 私はもう飛べなくなってしまったのに! 飛べる私を捨てたのに! 諦めたのに! 皆は飛んで! あの人も飛んで! あの私も飛んで――どうして、!?」


 錯乱の兆候も認められるほどの絶叫。

 ……いや、この思考はやめだ。錯乱などではない。これは、紛れもなくアルテミス・ハンツマンという女性が抱えた痛みの一つだ。

 誰にも晒すことのできなかった、傷付いたその本音だ。


「そんなに飛びたいなら! ここでないどこかに行きたいなら、どこかに行ってしまうなら! 死んでしまうなら! 私が撃ち落としてあげる! 貴方たちを鍛えた私が! 貴方たちを、私の一部にしてあげる!」


 手負いの獣のように、敗北を突き付けられた女が叫ぶ。


「奪われないように! 亡くさないように! 私が奪って、全部、私のものにしてあげる! 逃げないように! 逃さないように! 誰でもない私が、私を置いていく私まで、そんな私として撃ち落としてあげる!」


 或いはそれは死よりも痛く――いや、言い換えるべきだろう。彼女は死んだのだ。殺されてしまったのだ。

 己を辛く厳しく鍛えてくれたあの教官も、或いは何者も追い付けぬほどの姿で飛び続けるあの競技者も。

 もう――殺されてしまったのだ。或いは、あの日に己の前で血の言葉で泣き叫んだシンシア・ガブリエラ・グレイマンのように。


「だから、だから――……父様のように! 母様のように! 皆のように!」


 嗚咽を伴う絶叫で。


――――!」


 月女神のような美貌の女性は、他者を憚らず血の言葉を漏らしていた。

 ……ああ。

 こんなものを見る度に――あまりにも見る度に、己の内にどうしようもない感情が積み重なっていく。

 主人公たるメイジー・ブランシェットや、シンシア・ガブリエラ・グレイマンだけではない。彼女たちだけを特別視する気はない。

 全てにおいて――本当にその全てにおいて。

 この世界の戦いは、当たり前に生きたかった人を殺して奪っていく。


(――――……)


 僅かに黙する。

 黙し、逡巡し、口を開いた。


「貴官が何について話しているか、俺には知り得ず図り得ないことだが……」

「図ってよ! 知ろうとして! もっと他人のことを! 誰かのことを! 私のことを! ……貴方も! エディスも! 誰も! 彼も! 私の行いで私を言葉にしない癖に! 私の外でしか判断しない癖に!」

「……知り得ず、図り得ないことだが。そも武力と武力の行使において、殺し合いにおいて、そこに理解の余地などなく――俺にその余裕もない。ここに刃がある……分かり合うという段階はとうに過ぎ去った」

「何を――――!」


 彼女は己を睨んでいるだろうか。

 今、純粋に怒っているだろうか。恨んでいるだろうか。

 かつて憧れていた選手であり教官からそんな目を向けられることに、何も思わないかと言えば嘘になる。


「それでも俺は――こう言おう」


 嘘になるが――、己を噛み締める。己の首輪を握り締める。

 そんな痛みを受けても揺るがぬために、あらゆるものに動じぬために。

 誰に打ち据えられても打たれ続けても己だけは譲らぬために、たった一人になろうとも在り続けるために。

 自己を剣として鍛え続けているのだと。


 ならば――怒れ。

 ただ己の怒りを以って、全ての怒りに応報せよ。

 それのみが己の有用性と定めたのならば、己は、あの旗の下に一歩も退かぬ兵士で有り続けろ。

 ――


。――俺は常にここに立つ。誰が去ろうとも、誰が消えようとも。

「っ――」

「――故に、最後に立つのは俺だ」


 そうして、彼女の言葉は止んだ。

 啜り泣く声すらも止んだ。

 この言葉が敗者を更に叩きのめす言葉になってしまったのかもしれない。或いはその痛みによる断絶を強めてしまったのかもしれない。

 黙した。

 今頃、実況はなんと言っているだろうか。とても聞きたくはない。聞いたその日には、或いは名と身分を偽るに従って軍人としての規律が弱まってしまっている自分が何を言うか判らない。


 軍人としての自分。


 それならば、ここで終わらせるべきだろうと己の理性が告げていた。これ以上のことは――もう己の手を離れた。

 荒唐無稽なコミックのヒーローではなく、ただ機能としての軍人を目指すならば領分がある。市民の命を脅かすものを取り除くこと。必要なのはそれだけだ。まずは命を守ることだけだ。

 十分にもう、仕事は果たした。

 脅威を無力化し、制圧し、任務への支障を取り除いた。


 それ以上を望んでは――ならないのだ。二兎を追う者は二兎とも取れない。余計な色気を出せば、命さえ守ることもできなくなってしまう。だから、任務という範囲に己の行為を定めている。

 メンタルケアは己の仕事ではなく、カウンセラーや家族によるサポートだ。……シンデレラのような関わり方なら話は変わるだろうが。

 あれは上官の仕事であり、それを行うことは何ら二兎ではなく、任務の範疇からなんら逸脱しておらず己の機能性に影響は出ないと胸を張って言っていいはずだ。


(……刃を向けられて、恩人もないだろう。或いはそれとこれとは別の話か――……だとしても、それでもだ)


 傷心の女性を慰めることは、ましてやそれが殺し合いを行った相手だということは、なんら軍人としての必要性にも機能性にも繋がらない余分。……未熟な己では、そこに手を出す余裕はない。

 己の必要とする機能と有用性を損ねることについては、避けるべきだ。


 ああ、だから――これはきっと、余分な感傷なのだろう。


「アルテミス・ハンツマン。……いえ、ハンツマン教官。これが貴官の全力だろうか」

「……え?」


 ハンス・グリム・グッドフェローとしてではなく。

 今は、オーグリー・ロウドックスとして。

 故にこそ呟く、不要である感傷なのだろう。


「仮にも教官を務めたなら、その在り方として、俺にまた御教授願いたい。……本当の貴女というものを。進み続けたままの貴官というものを。あの栄冠の女王の――その全力の機動を」


 言って、彼女の機体から足を退ける。

 すぐさまに真意を察した彼女は――しかし、首を振った。


「無理よ。……もうあんなふうに飛べない。私は、飛べない。飛べない身体に、させられちゃった。……本気で飛んだら、身体がどうなるか判らない」

「そうか。……なら、言えることは特にはない」

「……そう、でしょ。殺して……私、きっと、もっと、飛べなくなる……飛べなくなっていく……せめてハンスくんの中に、私の全部を持っていってよ……」

「不可能だ。……そのような機能は俺にはない」


 言い切れば、突き放されたように彼女は声を震わせた。


「どうして、そんなことを言うの……? せめて、せめて嘘でもいいから……」

「……言ったはずだ。俺から貴官にかける言葉は、何もないと」

「――っ」


 息を呑む気配に、一度目を閉じる。

 目を閉じ――改めてコックピットの彼女を見竦める。


「故に、俺はただ――だけだ。かつて俺が言われたように。そのように。俺はそれに――する」


 反芻し、口を開く。

 それは己が――住処を焼かれ、故郷を焼かれ、戦争を止められなかったと後悔に焼かれた、その時に投げかけられた言葉だ。

 頭では理解していても耐えきれぬほどの特殊訓練に追い詰められ、擦り減らされ、鍛え叩かれ続ける中で投げ続けられた言葉だ。

 即ち、


「心が先に砕けると言うなら、足を砕いてでも心を起こせ」


 ――〈心が先に砕けるなら、足を砕いてでも心を起こしなさい!〉。


「腕が折れるなら、歯を喰いしばれ。心を折るな。己を折るな。心配するのは、それだけだ」


 ――〈腕の折れる痛みなんて、歯でも噛み締めていなさい〉〈それだけよ。何でもいい〉〈心が――己が。それさえ折れなければそれでいい〉。


「今そこで飛ぶ――それ以外を考えるな。貴官は一つの矢であり、一つの鉄だ。ただ一個の猟犬であれ」


 ――〈今そこで飛ぶ、それ以外は考えない〉〈貴方たちは一つの弾丸、一つの鉄〉〈ただ一個の猟犬となれ〉。


 それは祈りだ。それは警句だ。

 ただどこにでもいる少年に過ぎなかった己を、或いは軍人として鍛え上げられつつも兵士になり切れていなかった己を、戦闘者として鋼になれなかった己を。

 理念を抱えながらも、それに見合うだけの力を持たなかったどこにでもいる普通の人間である己を。

 一匹の猟犬として――その先も歩み続けさせただけの、血と鉄の盟約を保つための警句だ。


 故に、吼えろ。

 猟犬とは概して、吼えるものなのだから。


「俺に、その実力を示せ――アルテミス・ハンツマン!」


 ――〈死にたくないと言うなら、私にその実力を示しなさい! アクタイオンの猟犬たち!〉。





 そして、長き沈黙の後に。


「……好き勝手、言うのね」

「俺は貴官ではない。……ちなみにこれも言われた言葉だ。付け加えるなら、そうして終わりたいならば惨めったらしくそうしていろ――とも言える。これも言われたな」


 己がこちらに来てから抱いていた人に対する想いさえも、単なる己の頭の中だけで成り立つ何ら現実を知らぬ者の理屈なのだと――常軌を逸した高強度の訓練に挫かれそうにもなった。

 それでも折れなかったのは、最後は、ただの意地だったのかもしれないと思う。

 彼や彼女から叩きのめされ続けることに対する反抗。

 酸欠や疲労で朦朧とする中でも己が握り続けた、純粋な反発心と意地。

 それを呼び醒まさるために彼女はこちらを苛んだ。元来は軍属でもないというのに。……だから今では、ただ感謝しているのだ。敬意を抱いているのだ。


「根に持ってるの? それに、相変わらず誰にも何にも譲らないみたい……ほんと、ずっと生意気な訓練生。いくらやっても折れようとしないから、私、ちゃんと教官できてないのかと思ったぐらい」

「……」

「思い出したら、腹が立ってきちゃった。……ああ、本当――なんか色々と、腹が立ってきちゃった」

「そうか。……御随意に。俺は備えている。如何なるときでも。如何なるものにも」

「……剣気取りの犬。王子様になってくれない癖に」

「人間だ。……ただ前半部分は認めよう。だとしても――」


 改めて、アックスソードを彼女の機体に向ける。

 片腕をもがれ、その武装も手放してしまった機体。

 あちらも解体用の近距離武装しか持たない、そんな細身の機体へ。


「そんな剣を向けられて行えるのは、命乞いか反抗か。――この結末を認められないと言うなら、全力で抗えばいい」


 言いながら、彼女の機体を睨みつける。

 こう言われて――ここまでの扱いをされて挫けるだけの女性ではないはずだ。

 あれほどのレースの頂点に立った、かつて画面の向こうで栄冠を手にしていた――――そんな憧れの少女では、ないはずだ。


「……何にせよ、遺恨を残さぬように。貴官の言葉を聞くことはできないが――その殺意を受け止めることは可能だ。俺の機能性に矛盾はない」

「あはっ――」

「来い。――その程度で折れるならば、俺はそも、立っていない」


 そうして再び、殺し合いの幕が上がる――。


 結論から言うなれば、己は、再びあのアルテミス・ハンツマンと出会った。

 いや、あのときのアルテミス・ハンツマンをも超える彼女だと――そう呼んでいいかもしれない。

 そんな話だ。



 ◇ ◆ ◇



 その機動は、鮮烈だった。

 機体の背後に有した四枚のタンクが有機的に稼働し、それは人型の機械と言うよりは人の大きさとなった昆虫の如く飛翔する。

 巧みに緩急を付けた飛行。恰も慣性を感じさせぬ空中での急停止と、速度を維持した滑らかな急旋回。

 その身に銀血なく、バトル・ブーストは行えないというのに――ともすればそれを凌駕するような技量での行動。


 まさしく、そこには驚嘆しかなかった。


 四枚の翅を持つ人型を十全に操ることは、一般的に困難に近い。

 何故ならば駆動者リンカーとしての適性の高さは、人型に対する適性の高さであるからだ。その適性が高ければ高いだけ機体を己の肉体同然に――或いはそれすらも超える形で――利用する。

 つまり、――というのは、その時点で即ち駆動者リンカーとしての適性の低さを物語るものだった。

 その差は、反射速度に顕著に現れる。

 己の肉体同然、皮膚感覚を持つそれ同様に扱える駆動者リンカーは人型を外れた物への十分な接続はできず――逆に人型を外れた物に十分な接続ができるものは水準には劣る反応となる。


 だというのにまともに扱えるというのは、どのようなことか。


 それは即ち――研鑽だ。

 例えば従来の車やバイクや戦闘機にても精緻な操作が行えたように、類まれなる修練の下ににても反応に磨きをかけること。

 或いは、十全に操作の叶わない部分においての脊椎接続アーセナルリンクの割合を削った上で、手動や半自動の操作によってそのを操ること。

 汎拡張的人間イグゼンプトという接続に関する超常の例外はいるものの、そうでない多くの人間にとってはこれらの機体にて十分な戦闘を成り立たせるというのは血の滲む研鑽と努力の果てが必要とされる。

 それは、万人を容易く機械の操縦者に変えられるこの技術の――脊椎接続アーセナルリンクの本質とはまるで対極に位置していた。


 だからこそ、圧倒される。

 だからこそ、見惚れる。


 その翼を広げて真空の海原を進める彼女は、まさしく競技者としての――脊椎接続アーセナルリンク以前のレーサーであるアルテミス・ハンツマンとしての在り方を示していたのだから。

 もしもその両手に未だに銃が握られていたならば、撃墜されるのはこちらであったろう。斬り結ぶことも叶わずに彼女が撃墜した星屑の一つになっていただろう。

 しかし、互いが握るのは近接武器だけであり――故に己のような者でも、まだ、戦いの土台に立つことができた。


 銀髪の女神。

 月都市の生んだ超新星。

 あらゆる伝承や記録を過去にすると謳われた――そんな競技者の女王の姿が、そこにはあった。


(……だからこそ、速やかに貴官を撃墜しよう)


 ああ――……きっと、それは、刹那の邂逅。

 彼女がその全盛期を超える機動を行っていられる時間も。

 その弁に従うなら、あまりにも短く儚い一瞬だけ。

 粘れば、彼女に勝利は叶うだろう。いつものように手強い敵機の隙が生まれるまで粘り続けるハンス・グリム・グッドフェローの戦いならば、勝てるだろう。持久戦に優れると呼ばれたその戦場の方程式ならば。


 だが、それでは彼女は救われない。


 その命を――まだそこにある命を、殺さなくても良い命を、死人に変える訳にはいかない。

 だからこそ、ただ喰らいつく。

 腕を盾に、足を盾に、振るわれるその隔壁破壊用の赤熱剣から己を逸らす。視線を逸らさず、死線を逸らす。


 火花が散る。

 遮るもののない虚空に、空虚なる死の空間に剣閃と瞬きが生まれる。

 いつまでも続けたい――それは叶わない――憧憬の主との宙間機動。二人きりのレース。相手というゴールへと、己というスタートを打ち付ける石火と電光のレース。


 彼女は優雅に、流麗に。

 こちらは武骨に、直線に。

 競技者としての飛行と、兵士としての飛行が、その航跡が暗黒の宇宙に一輪の花として咲く。


 なんと清廉な――星煉の刃鳴はなか。


 極限の鍔迫り合い。

 極限の凌ぎ合い。

 極限の削り合い。

 鈴が鳴るように――刃金はがねが舞い飛び、刃音はねを広げ、ただひたすらに刃鳴はなが咲いた。


 斬撃。フェイント。機動。フェイント。

 回避。斬撃。防御。フェイント。接近。フェイント。


 あらゆる機動に推進剤を全開にする石像じみた堅躯の【ハンプティ・ダンプティ】と。

 緻密な慣性制御で片腕に赤炎を棚引かせる細身の【レディーバード】と。

 その二機が、削り続ける。


 こちらは機体を――彼女は肉体を。

 そして互いに、その精神を。

 刃の上で逢瀬を重ねるかの如く、極限の緊張と集中を張り詰めさせた舞踏を続ける。


 そして――


「……ッ」


 その時間は、終わりを告げた。


 コックピットに鳴り響く警報音。推進剤の枯渇。

 即ちは彼女の勝利を確定させ、こちらの敗北を決定させるそんな終焉の呼び声。

 ああ――こちらの背後に回り込むように、飛びながら機体の前後を入れ替えたその機動は、ルナリアアーク杯のそれよりも鮮やかだ。

 まさしく蜂の一刺し。

 その左腕が握ったヒートナイフは、振り向くことも叶わぬこちらを貫き沈黙させるだろう。


 彼女は、こちらの命を奪うのか。

 まだ、そうしたいのか。


 しないとも言えたし――するとも言えた。

 己が知るアルテミス・ハンツマンはプライドが高く、決してその言を違えなかった。あのレースも。どのレースも。訓練においても。

 だからここできっと、死ぬのかもしれない。

 彼女はこちらの命を奪い――これからも、あの日の彼女を超えた機動と共に生き続けてくれるのかもしれない。


 それも悪くないと――


「……思えるなら、


 呟き、噛み締める奥歯。

 生憎と、女神に殺される趣味はない。そんな神話英雄の如き人間だという自認もない。

 故に人として、一人の兵士として足掻く。


 駆動する鉄の腕。

 武骨なその野太い機械の腕が稼働し、握り締める斧剣を逆手に握る。

 目指す先は、まさに己――今ここで操縦する己目掛けてだ。

 強化ガラス・コックピット・ハッチへ、眼前いっぱいに広がる視界のこちらへ、頑健なる鋼鉄の前腕が巨大な斧を目一杯に突き立てた。

 そして直後――その罅割れに従って、外部へと噴出するコックピット内部の空気。


「な――――!?」


 姿勢制御の機体内部フライホイールが回転。

 噴射の勢いをそのままに、こちらへと一直線に迫りくるアルテミスの細身の機体目掛けて――加速/反転。

 勝利の確信を前には、流石の彼女も動揺するか。その慣性制御も間に合わぬほどの距離にて、即ちは射程距離における一転攻勢。

 それが、差だ。

 戦場で敵を殺し続けて来たものと――――輝かしいレーサーの、その差。


 言うなれば、空圧抜刀か。


 内から押し出されるコックピット内部空気圧をも上乗せして、振り向きざまに放たれた斧剣の一撃は――


「――こういう使い方も、できる」


 接近する【レディーバード】のその胴を、薙ぎ斬った。



 ◇ ◆ ◇



 そして互いに半壊した機体が、宙を漂う。

 コックピットの損壊という意味ならば、紛れもなくこちらの敗北だろうが――規定されている敗北はであって、ではない。

 対する彼女の機体はまさしく戦闘続行不可能なほどの損壊であり――……とは言ってみたものの、正確には主催者側の審議待ちだ。

 ……軍隊はネガティブリストと言われるが自分の行動も多くがそうなったなと思う。つまり、明確にやっちゃいけないことなら何をやってもいいだろうと――そんな考え方だ。正直、一般社会とはやや異なる考え方と言えよう。これがどう判断されるかは判らないところだ。


「あーあ。……はあ。勝てない、かぁ……」


 だが、呟く彼女は既に彼女の中での勝敗を決めたらしい。

 呆然としたように――それから不貞腐れるように。そんな吐息が、通信越しに伝わってくる。

 どうやら彼女が言っていた怪我の後遺症は出ていないようで……少し胸を撫で下ろした。


「……教官」

「んー、なぁに? ……期待外れの負け犬に、何か言いたくなった?」

「期待外れなどではない。……貴官は確かに、俺にもう一度――あのアルテミス・ハンツマンを見せてくれた。あの日俺が憧れた眩い星の輝きを、あの不屈の女王の強さを、もう一度――……いや、より強く見せてくれた」


 目を閉じれば、未だに思い出せる。


「それも、こんな特等席で。……一ファンとして、光栄としか言う他ないだろう」


 おそらくは、他の誰にも許されない光栄。

 デビューからレース映像を追い続けていた身としては、同様の人間たちに対して少し申し訳なくも誇らしくなる。

 本当に――……。

 あの映像に向かい合う日々からは遠く離れた生き方をすることになったが、これは真実、掛け値なしに幸福としか呼べぬだろう。


「ふーん。……というかキミが私のファンだったって初耳なんだけど?」

「……自分を地に膝付くほどに叩きのめす女性にそう告げるのは、その方が問題だろう。その程度の体裁はあった」

「……ふーん? ふーーーーん?」


 何とも言いたげな彼女は、それからややあって改めて問いかけてきた。


「それで?」

「ああ。貴官に、どうしても告げたいことがある」

「……なーに?」


 口を尖らせるような彼女へと、緩やかに告げる。

 ずっと――再会したなら、ずっと言いたかった言葉だ。

 つまり、


「貴官のあの苛烈な訓練が、俺をここまで生き残らせた。でなければ先日も、あの孤独なる少女の心へ手を差し伸べることもできなかった。或いはあの焼ける街で、人々を護ることもできなかった。……何よりも三年前のあのとき、我が国は勝利し得なかった」


 返答を待たずに、続ける。


「その全てが貴女の献身の故であり――貴官のその代えがたい人生が、我々に与えてくれた栄光だ。全ては貴官の弛まぬ苦悩と努力が生み出してくれた栄光だ。それが、紛れもない貴女という人間であり――その偉業だ」

「――」

「……全ての猟犬に代わって感謝します、輝かしきアルテミス・ハンツマン教官。……我々は確かに、貴女が作った猟犬だった」


 目を閉じ、静かに腕を挙上する。

 ここに軍帽もその鍔もないが、あれだけの行為に応じるならばそれしかないだろう。

 手を開いて、指先まで伸ばして――そして、


「貴官が育てた傑作として、その自負を。貴女が俺を形作った。俺たちを作った。――俺の勝利は、俺たちの勝利は、


 二心なく、ただ敬礼で返していた。


「ふ、ふ……ふふ――……ほんと、ずるい。そういうところが、ほんと、ずるいなぁ……他は駄目なのに、こういうときだけはズルいんだなぁ……」

「……皆もきっと、こう言ったろう」

「ふ、ふ――……ああ、そうね。皆――皆、キミみたいに生き残ってくれたら良かったのにね……」


 胸に、痛みが渡来する。

 彼女も己も、全く同じ気持ちだろう。

 だからこそ、


「……彼らの分も、俺から感謝を。どうか最大限の敬礼を、教官」


 告げられる言葉はそれしかなかった。

 死者は語らない。死者は笑わない。死者は応じない。

 だから自分たち生者だけが――その死者の在り方に応じられるのだと。

 と――――生者に応じる。


 そして、


「……あぁ」


 袖で涙を拭うような音から遅れて。


「……貴方からの敬意へ感謝するわ、ハンス・グリム・グッドフェロー大尉。主アクタイオンを喰らったその後でさえも狂うことなく、ただ猟犬であり続けられる――本分を全うし続ける天性の猟犬。不屈の狩人ハンター

「……」

「貴方の栄光が、私の栄光。……貴方は飛び、


 肩の荷が降りたように。

 何かの縛めが断たれたように。

 アルテミス・ハンツマンは、酷く穏やかで淋しげに――そう呟いた。


「教官。いずれまた、貴官と空で」

「ええ。――二度ともう、こんな形で会いませんように」


 改めて――……。


『――――猟犬と女神に、栄光を』


 敬礼、二つ。

 あの日の生き残りである自分たちの言葉は、それだけだった。

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