第79話 アーモリー・フラッグ・バトル、或いは機動
彼女は物静かで、控えめで、口数少なく――その内心を伺わせない少女だった。
元来のその少女を知る人はそう答えるだろう。
『何故飛ぶのか? ……死ぬにしても、自分で飛んで死にたいから。おかしい?』
宇宙船の事故で父母を失った資産家の娘は、その遺産の大半を親類に奪われた娘は、命の危険もある見世物に身を窶すに従って――そう答えた。
残された僅かな資金で立ち上げた名ばかりの幽霊会社。
それをスポンサーとした自作自演の主にして、社長であり唯一の社員であり、広告塔であり、競技者となった少女。
やがてその会社さえも無常のうちに失った少女はそれでも飛んだ。飛び続けた。
そんな競技者としての少女を知る人は、こう言うだろう。
凛として、気位が高く、男嫌いで、あまりにも偏屈で頑固だ――と。
『写真集? ……結構よ。お断り。私はレーサー。見て貰うのは、走りだけ』
金目当ての競技者ではなかった。
一度とて、己を商品として売り出すことを良しとしなかった。
それはその肢体からも知れるだけの恵まれた生まれが――幼少期の栄養が豊富だろうから――故の傲慢だったのだと、ある人は言った。
或いは別の人間はこうも言った。両親を失って、裕福な暮らしを失って、未来を失って、頭の中身を月に連れて行かれてしまったのだ――と。
また別の誰かは、人嫌いで負けず嫌いと称した。
『負けさせたいなら、どうぞ。実力で負ければ、いくらでも飲み込むから』
八百長試合を持ちかけられようとも、どこかの企業的な派閥へ呼びかけられようとも、個人的に声をかけられようとも靡くことはない。
名誉を求めていたかと言われれば、やがての彼女を知る人は――違う、と答えるだろう。
人の世に溶け込もうとしない彼女が求めていたのはもっと遠い何か――ここにはない極光。果ての光。いずれの彼方で、やがての誰かですら辿り着けぬかもしれない場所。
『目標? 果てがないところよりも、果てがあるところの――その果てに行きたいの。それだけ』
あるインタビューでは、そう答えた。
月女神の美貌。絶対女王。美しき狩人の少女。果ての空を目指すもの。
そんな少女の人生は、そのささやかな願いに従って地球に降り立つと同時――――そして母国が擲った神の杖を向けられると同時、またもや大きく変わることとなった。
アルテミス・ハンツマン。
かつては知る者も居らぬほどの競技者であり、そしてそれから五年近くの歩みは知れず、今また
◇ ◆ ◇
その灰褐色を基調とした人型作業機械は、どこか甲虫を思わせる機体だ。
重機械らしさを十分に感じさせる野太い両腕と、確かに揺るがぬ強さを持つ頑健な両脚部。
それらが繋がった先――民生品らしい丸みを帯びた卵型の胴体でありながらも、統合すれば、それはあたかも筋肉質の男性の如き逆三角形を形成して力強さを感じさせた。
金属の作業四肢。金属の胴体。マッシブなフォルム。
武骨で堅牢としたその有り様は、言うなればクロカタゾウムシだろうか。
胴上部に位置する盾型の形状を持つ開閉式強化ガラス・コックピット・キャノピーは、光沢を放つのっぺりとした表情のない顔のようでもあったし、或いは単に宇宙服のヘルメットのようでもある。――酷くジム通いの宇宙飛行士だ。
UHN-797【ハンプティ・ダンプティ】。
発売からは二年半。作業用人型重機械としては最新モデルではないにせよ、未だに高価で人気も根強いタフな機体。
その主武装は――両腕に握るガス圧式ハンドガン。腰の隔壁破壊用アックスソード。
腰から伸びるガスチューブと肩部装甲のみがオレンジ色に染まり、殺風景な宇宙にあってなお殺風景なその機体を鮮やかに彩っていた。
『ここまで十二戦十二勝、葬儀の順番待ちに容赦はしない! 期待の超新星か、それとも星の終わりの爆発か! あの世にカロウシの概念はないのか? 何とも働き者の冥府の遣い! 家族サービスは大丈夫か――!?』
共通放送がコックピットに鳴り響く。
始まってしまえば、解説も実況も
『ご存じ、アビインフェルノ地獄の火を吹くのは二丁拳銃――そしてその容赦のない
実況者のそれに合わせて、中継会場では飛行する自分の機体が映されているのだろうか。
試合はとうに始まっている。漂う破片デブリの内、己は既に冷たい鉄火場の緊張感に包まれていた。
ただ、本格的に場が動き出すまでの観客のための繋ぎなのだろう。それを聞き流しながら、疎らに散った宇宙ゴミの中のアルテミスの姿を探す。
一隻の円形ステーション兼宙間輸送船の、そのそれぞれ反対側から飛び出した。外縁沿いに最短距離でこちらまで接近するのか、それとも母艦から一旦離脱した後に遠距離から攻撃を仕掛けるのか。
彼女が如何なる戦闘の方法を取るのかは知れない。映像による敵戦法の研究は、これが戦争とは異なることも相俟って特に行っていなかった。
『お相手は八十九戦八十二勝三引き分け――ただし、被撃墜による敗北はなし! 誰が彼女を射落とせる!? 恋い慕う数多の男を袖にした、難攻不落の月女神――かくいうオレもレースから全て映像は録画済みだ!』
その解説を受けつつ、やはりかと頷く。
アルテミス・ハンツマン――デブリある暗礁宙域で行われていたレースの絶対女王。敵都市からの亡命者ながらに教官にまでなったのは、ひとえにその機体制御の腕が優れていた故である。
まだ
特に記憶に残っているのは、彼女が混合障害物競争・第一種規定レース“ルナリアアーク杯”にて新人三冠を獲得した日のことだ。第一種規定ライセンス獲得から二年未満でしか挑戦できないそれらの三冠レースにおいて、彼女は史上最年少にして無敗で穢れなき純白の王冠を手にした。
そのままコースレコードを三秒縮める形で得た二冠目。
そして来る三冠目の直前に、自らで作った名目上のスポンサーに使っていたペーパーカンパニーを奪われ、更に大規模接触事故に巻き込まれた怪我からの復帰後だというのに――最後の三冠タイトルを掴み取ったその錬鉄の技量と不屈の闘志は、疑うまでもないだろう。
密集デブリ地帯で他者を圧倒し、一人抜きん出てその区域を離脱したあの純白の機体の勇姿は今でも思い出せる。
それはかの最速ラップの更新者“悪路の鉄馬”リベリーノ・バッジォや、連続グランプリチャンピオン記録保持者“錬磨の伝説”ミハイル・マンハッタンを思わせるような実に軽快にして正確無比な走りであり――……いや、話が逸れた。
つまりそれほどまでに彼女は、優れた操縦適性の持ち主であるということだ。
そんな彼女との殺し合い。
あの言葉が本気なのか――そう疑いたくなる気持ちもある。
『美貌の
先ほど見かけた使用機体はオニムラ・インダストリアル・グループ製のOHI-015【レディバード】。
如何にも機械らしい脚部に対して金属質の脊椎が剥き出しに近い細い腰と、四枚の後翅。長い腕をだらりと垂らしたそれはどこかアシナガバチを思わせる機体だった。
破棄された宙間船や
特徴的な構造は、両手足と脊椎のみで成立した外付けマッスルスーツのような機体基礎構成フレームに対して、円柱型の分離構造コックピットを別箇に収納する点。これにより同じオニムラ・インダストリー間の生産機体での乗り替わりを容易にし、或いはコックピットのみを最新型に置換するなどを可能としている。
無重力運用を前提としているために、機体を支える脚部及び腰部がフレーム構造を剥き出しに軽量化。
だらりも下がったその細長いマニュピレーターは閉鎖空間での稼働を前提とした伸縮機能を有しており、それは脚部も同様に有している。
脚部加速パイルが外付けされてはおらず、三叉の足底部を有するスラリとした脚部がそのまま加速パイルの役目を果たす。脚内部ガス圧縮シリンダーを利用し圧縮/射突。
何とも、サスペンションや関節強度に優れたアーセナル・コマンドを生産するオニムラ・インダストリーらしい機体である。
その主推力はパイル反動ではなく推進剤の噴射。
後背部に有する二対四枚の稼働式のスラスターが、羽めいて角度を移り変わらせ宙間での加速を取り扱う。
抜き身の金属質の脊椎によって上半身と下半身を繋げられたその翅持つ鋼の人型は、先に例えたかの如くまさしく殺し屋蜂のようだと言えよう。
『さあて、今宵もお集まりの紳士淑女の皆様方! 一見さんはお断り、いくら見るだけで楽しめるとしても――ルールを知らねえ奴はいねえだろう! だが、一応の説明だ! 聞いてるかい? 特にルール無用の
それで会場に笑いを生ませようというのか。
こちらに届かなければ、ただ薄ら寒いだけだ。果てなき真空は、あまりにもこの身の寒々しさを伝えてくる。
そこに生きる人々。
生まれた人々。
彼らの内に如何ほどの苦悩や苦痛があっただろうと想像し――他ならぬその一員であり、かつてはそれを捨て、今またそこに戻ったアルテミスを想う。
あれだけの――うら若き身ながらも敵国に降るだけの決意を持った女性が、何故今はああも変質してしまったのか。
そのことに、疑問は尽きない。
だが果たして、彼女が絶望するだけのものを
私刑により殺害される元・
愚かしさ。或いはその暴力性。それは、尽きることがない。
だが、いずれにせよ、
(貴官が真に獣に堕ちたならば、俺から貴官に呼びかけられる言葉はないだろう。……それが選択であり、貴官の自由だ。ただ……俺へと刃を向けるならば、刃で応じるだけだ)
それは身の安全だけでなく――機能として、職務として。
彼女が如何なる道理や心理の下にしろ、今の己の仕事を武力によって阻もうというならば――こちらもやむを得ない範囲の実力行使を実施する。ただそれだけの話だ。
たとえ相手が誰であろうとも――……己が彼女にかつて大恩を感じ、その在り方への大きな敬意と憧憬と、また、僅かなりとも慕情を抱いていたとしてもだ。
私情を捨てろと、己に言い聞かせる。
そんな余分を纏いながら戦えるだけの、容易い相手ではないのだ。
『今回はフラッグ型のアーモリー・バトル! 規定数のフラッグを相手に奪われるか、コックピットへの被弾と機体損傷による戦闘続行の不能か! それだけがあんたらのデッドライン、他の諸々はお気に召すままだ! 自フラッグの故意的な破壊は同数相手に渡すのと同じと思いな!』
実況の声を感じつつ、デブリの中で二丁拳銃を構える。
己がハンス・グリム・グッドフェローと知られないためだけの武器。本調子ではない武器。
果たしてそれでどれほどまでにかつての教官に食い下がれるか案じつつも、機体を暗黒の宙へと踊らせた。
戦闘の――その時間なのだ。
「――!?」
そして直後、愕然とした。
己のコックピット内に響いた警報アラーム。敵機によるフラッグの取得。
彼女のあの言葉に従えば、こちらを真っ先に殺傷にかかるものかと思っていたが――それはブラフだったのか。
……いや、違うのか。
これは、ある種の狩りだ。
自機が狙われるか。それとも、フラッグが狙われるか。
どちらにも注意を払わなくてはならない。そうして惑わせたところで、こちらへと仕掛ける――そんな心理戦なのだろう。
(だが、俺は、勝利を目的にはしていない。……そんな揺さぶりは無意味だ。いや――)
ふと、考えた。
あの不安定な言葉を口にした彼女が――もし真実、こちらを是が非でも殺しにかからずにこのまま勝ちに行ったとしたらどうなる?
こちらとしては任務上は何ら問題がない。
得たい情報の概要は得られたため、あとは何某かの手段で
そうだ。任務としては、何も問題がない。
闘技者としては黒星がついて、それだけ。あとは――しばらくは彼女と対戦カードが組まれなくなるだけだろう。
そうだ。
そんな対戦カードなど、別に構わない。己は闘技者ではない。話題性のためと己の研鑽のために勝利を収めてきたが、特に何かに拘ってはいない。
そもそも彼女と殺し合いに興じたくも無ければ、それを避けられるというなら心底望むところだろう。
ああ――別に負けてもいい。何ら、困ることはないのだ。
――〈目、貴方のそれ〉〈ずっと飛び続ける競技者みたい。……どこか違う目。そういう目〉〈……少し、嬉しくなった。懐かしい、かな。そんな目の人をまた見れて〉。
胃液を吐き出し、滂沱の汗を流し、幾度と膝を折りながらもその課業外でも続けていた自己の研鑽。苛烈な態度で訓練を行っていた女王や猛獣使いの如き己の教官は、ふと、その仮面を外した。
それを――見てしまったから。
知ってしまったから。
凍氷の内側の少女の目を目の当たりにしてしまったから。
「……今の俺は、オーグリー・ロウドックスか」
一度目を閉じ、ホログラムの電子マップを投影する。
敵の防衛フラッグとこちらの防衛フラッグを図示。それらを最も近い経路で繋いだ場所――つまり双方の邂逅が予期される地点に印を付ける。
その他、今まさに奪われたフラッグに対しての彼女のスタート位置からの最短経路と予測時間を表示。
(……やはり、早い)
マップデータから機械に導き出せるそれよりも、彼女の移動は明確に早い。
その秒数の補正をAIに命じつつ、次の至近フラッグへの予想到達時間を表示させる。――残り二十秒。こちらからは間に合わない時間。
フィーカがいればより良い軌道の予測を立ててくれたかもしれないが、今ここに彼女はいない。
己一人で立ち向かうしかない。
予測を立てさせる。無茶苦茶に、デブリのマップにラインが走る。縦横無尽に。星屑よりも色濃く空間を分断する未来の航路。
今から己が目指して間に合う場所と、彼女の到達時間を秤にかけ――速やかに機首を反転させる。彼女側のフラッグを狙う時間も無ければ、意味もない。自分にするのは、彼女と向かい合うことだけだ。
……彼女は、彼女自身を人質にしているのかもしれない。
もしここで競技としての勝利を求めずにこちらが容易く敗北したそのときに――この潜入任務中に、二度ともう彼女と戦うことがないとなったそのときに。
あのように変質した不安的な彼女は、闘技場の中で命を落とすかもしれない。
別の誰かと戦って、死ぬかもしれない。
真剣勝負に応じなかったことへの意趣返しのように、そんなあてつけの死を行ってくるかもしれない。
そうしたくないならば向き合えと――受け止めろと。
そう、こちらに促しているのかもしれなかった。
彼女自身の命だけを賭けた脅迫じみた、競技への参加呼びかけ。
(……無意味なものだ。俺の任務や有用性とはかけ離れている。俺はここに勝ちに来たのでも、貴官と殺し合いに来たのでもない。ハンス・グリム・グッドフェローにはあまりにも不要な行為だ。だが――)
あのとき彼女が口にしたそのように――。
女神に鍛え上げられた猟犬たちが、己の遥か手の届かぬところで死んだと言われた彼女のその現実感のない喪失を想うならば。
彼女と彼らとの日々に、かつて生者であった皆に、僅かばかりでも思うところがあるというならば。
猟犬という肩書が、この己にも意味を持つというなら。
その死に――このレースに向かい合えと、言われた気がした。
決して死者を背負うことなく、それに視線を合わせることなく、常に生者のみを見定めるべしと理性で定めたハンス・グリム・グッドフェローには不要な感傷。
そうしたら喪失に対する上乗せや報復で喪失を生み出しかねぬからこそ、抱いてはならぬ感傷。
だが――
「今は、オーグリー・ロウドックスか」
一言呟き、推進剤を全開にデブリを目指して飛ぶ。
このままでは戦闘機動のための推進剤すらなくなるだろうか。なくなるだろう。彼女のように精緻な回避のできぬ己は、加速度に対する耐性の長しかない自身の技量に従った機動しかできない。
急加速と急減速。そして急旋回。
進路を阻むデブリに対して機体を無理矢理に回旋させ、即座にスロットルを全開に加速する。
あまりにも無駄が多い機動。あまりにもレースには向かない機動。知っている。自分では彼らのような競技者にはなれない。その道を目指すこともできなかった。
ただ避けて、いずれ相手を殺す。
それだけのために突き詰めた武骨な回避と殺傷性。それしか己は――持ち得ない。
もしも、自分が未来を知らなければ――。
ハンス・グリム・グッドフェローでなければ――。
他の道を選んで進むと決めていたならば――。
別の機動は、あったのだろうか。
人を魅了し、一体になり、栄光を目指し、ただ一心に磨き上げる――血に曇らない未来があったのだろうか。
そんなものを、加速度と遠心力の中に投げ捨てていく。
不要だ。
己が目指すべき果ては、ただ欠けず折れず毀れず曇らぬ一振りの剣――――それのみ。
ああ、だが……。
アルテミスが奪ったフラッグがマップに表示される。
こちらが予期していたそれとは別のフラッグ。予測時間から不適当と断じたフラッグ。
それを奪う彼女の研鑽のなんと見事なことか。
流石、己がかつて魅せられた少女だった。その走りをもっと見たいと願った少女だった。その時だけは――いずれ訪れるだろう戦乱の未来も忘れて。
後の戦闘の助けになるかと考えつつも、そんなものを抜きに興じてみたいと思った競技レースの――覇者だった。
苛まれる加速の中、己は時を隔ててその場に立っていた。今だけは立っていた。
かつて彼女がいたその場所に。その技術に。競技に。
今だけ己は、その人の世が作ってきた偉大なるスポーツの片鱗に触れていた。過ぎ去っていくデブリの流星が、己を一つの走狗へと変えていく。
そして、
「どう? 走るのは、楽しかった?」
やがて辿り着いた宙域にて、周囲を岩石めいた大小のデブリと大型の船舶の亡き骸に囲まれた地点にて。
姿の見えぬ彼女は、大会側には通じぬ周波数で呼びかけて来ていた。
かつて、アクタイオンの猟犬として飛んだその時に用いていた周波数。こちらもそれに受信チャンネルを合わせ、彼女もそれに送信チャンネルを合わせた。打ち合わせなく。
「……教官は、俺に、これを教えるために?」
そう、問いかけてみた。
すべてが嘘で――機能としての兵士を突き詰めようとしていた己に人間性を与えるために。
かつての教官として、こちらを慮って。
そうしているのかと、問いかけた。
「相変わらず人がいいね、ハンスくんは。優しいねー……だから兵隊さんになったのかな?」
「……他の道を選ぶ勇気も強さもなかった。それだけの男です」
「あはは。皆が聞いたら、怒るよ? ……それとも実はハンスくんはそういうエゴイストなのかな? 少しエディスにも似てるね、そこは」
「……」
なんと答えたものか。
伺いつつ――両腕は拳銃を挙上する。
分かっている。分かってしまった。寒々しい殺意。数多の戦場に身を置いたが故にわかる死線。
「じゃあ、最後にいいお土産はできたかな? 兵士じゃないハンスくんに、してあげられたかな? 私の手で――どちらの貴方も作ってあげられた?」
「……」
「それじゃあ、できるだけ苦しまないように――キミの命、私のものにしてあげる」
「断る。……俺は、苦しくとも死ぬまでは生き続ける。そも、人は誰かの所有物ではない。奴隷制は現代では否定されている常識だ」
「ヤだ。私から離れてどこかで苦しむくらいなら、なおさらここで私の楽しみになってよ。あはは、ほらどう? その方が、苦しみの総量は少なくて効率的と思わない?」
効率的。
合理的な機械の理論。何かの意趣返しか諧謔か。
真意は知れないが――
「……確かに効率という意味ではそうだろうな」
「あはは、流石だね。こう言えば通じちゃうタイプなのかな。うん、だから――」
「故に、こう言う。来たりて、取れ。――仮にも
「……へえ」
「月には地上で失われたものが集まると謳われるが、何とも大層な記憶力だな。伝承をデマ以下に変えるなど、並の自尊心では到底不可能だろう」
主催から訝しまれぬように無線の周波数を試合用に切り替えつつ言えば、殺気の密度が増した。
何かに付けてこちらよりも上の振る舞いを行っていた彼女にとっては、理解していても癪に障る言動にはなろう。
「吠えるね、ワンちゃんは。……もう一度、口の聞き方から教えてあげた方がいいかな?」
「今の貴官に、俺に何かを教えられるとは思えないが……いや、言うまい。月の狂気に呑まれたくなる日もあるだろう。酩酊する酔漢に正気を問う不躾さは、俺にはない」
「……可愛くない。生意気」
「そう見えるならば、貴官の方がよほど傲慢ということだろう。……耳が痛かったか? それならば失礼したが――」
言うなり降り注ぐ高速の弾丸。
単発式。アサルトライフルではない。ハンドガンでもない。レールガン――は規制の関係や摘発の関係から存在しないとなれば、あとはホイール加速式の工業用パイルバンカーの改造品か、それとも大型ガスボンベの改造品か。
敵主武装は高速大口径の主砲。
明確な遠距離戦の想定をしている機体か――考えつつも、呟く。
「一つ、訂正は叶うだろうか」
「……今度はなに?」
「貴官から俺への教授が可能とは思えないと言ったが……思い上がりだったらしい。どうしても貴官に伺いたいことがある。……貴官は、既に発行されてしまった芸能ニュースへの訂正のやり方はご存知だろうか?」
「……?」
「男嫌いの美貌の女神――という見出しだが、正しくは男が貴官を嫌うのでは、と考えたが如何か。貴官にも理解できるよう簡素な言葉で伝えるなら、性格が悪いということだ」
「――」
つまらない挑発に思えたが、思った以上に効果はあったらしい。
数多降り注ぐ弾丸。
それは発射と共に位置を変え、射撃と運動の基本に忠実に放たれる。或いはデブリを散らし、或いは空を切り、暗黒の宇宙に飲み込まれていく。
こちらの推進剤の残量は目に見えて低下していた。
使い切ってしまえば、何の足場もなくなった場所からは再加速もできない。そんな、致命の命綱だ。
しかし、
(……流石の機動だ、と言うにはおかしい)
こちらの胸に過ぎったのはそんな疑問。
彼女の機動は、こんな基本に忠実――などという程度ではなかった。あの空戦機動の教官のエディス・ゴールズヘア同様に一番訓練生たちを地獄に落としたのだから。
遠距離武器というのも不可思議だ。
小型で高速の機体という点からは頷けたが、小型で高速の機体に大口径の主砲を搭載するのは割に合わない。彼女の技術ならばそれでも反動の慣性を十分に利用可能だろうが――そも、遠距離攻撃と高速移動は食い合わせが悪いのだ。
敵機との距離が離れれば離れるだけ、位置関係を変えるための移動半径というものは増大する。二百メートル先で九十度動く際の弧の長さと、四百メートル先で動く際の長さはまるで違う。
つまり、如何に高速化させても……無駄とは言わないが活かしきれない。逃げ切れないのだ――それがアーセナル・コマンドという超高速ならまだしも、たかがアーモリー・トルーパーでは。
弾丸も同様。
いくら遮る空気抵抗の存在しない宇宙と言っても、ガス圧の武器では限界がある。遠間から撃ち落とそうとしたところで、ある程度の高速戦闘に慣れがあるならば躱すのはそう難しい話ではない。
故に――ともすれば。
「……撃たれにくくするための、小型化か」
積極的な攻撃姿勢ではなく、消極的な防御姿勢が彼女にそれを行わせたということ。
つまり――あのかつてのような機動を、彼女は実現できないのではないか。そんな疑問が出てくる。
無論、小型高速機に引き撃ちに及ばれてしまえばそれは明確なる脅威であり、対処法がないというのも確かではあるのだが……
「……通達する。貴官の優位は、ここまでだ」
ただそう告げて――こちらも暗礁宙域を睨む。
果たして己に実現可能かはともかくとして、それを行うしかない。
そう決意して奥歯を噛みしめる。
それしかないならば、ただ行うだけであり――あとの全ては些事だろう。
◇ ◆ ◇
ビニールハウスめいて飛び出した強化ガラスが暗黒の宙域を大写しにし、そして投影型のホログラムモニターが様々なカメラの映像を中継する一室。
関係者席というそこは、普段ならば企業の代理人や整備に携わる人間たちが詰めている場所だ。
しかし、この場合のその席はあまりにも寂しく――たった二人の少女を除いて、誰もいない。
一人はある意味で整備士と呼んでも良かっただろう。彼女には、確かにそんな才能があって――事実、闘技場の主催者から提供される最低限のメカニックが行う整備以前のことを行っているのだから。
「何をしているの……撃たれっぱなしで……」
そして、そうではない方の少女――ウィルヘルミナ・テーラーは、忸怩たる想いでその戦闘を見守っていた。
己の戦力として、腹心として得たいと思っていた実力と精神性の持ち主。
かと思いきや甚だしく粗暴で野卑な一面も持った無礼者。
それでもその暴力性だけは他に比する者を見たことがない――そう思わせるだけの男が、鴨撃ちのように射撃を喰らい続けていた。
回避はできている。
だがその全てに推進剤を用いていて、射撃の反動を効率よく運用している敵機を前にしてはジリ貧と言わざるを得なかった。
「貴方からその暴力すらも奪ったら、一体何が残ると言うのよ……!」
その一点。
ウィルヘルミナ・テーラーがオーグリー・ロウドックスに未だに一目置いているとしたら、その代えがたい強さという点だけだ。
それさえもなくなったなら、彼女が彼に対して気を払うことは一つもなくなる。限られた時間の中でのこれまで数日の行いも全て無駄になる。
だからこそ余計に悔しく――拳を握ってホログラムに向かい合っていた、そんなときだった。
「……うん、そうだね。あなたはきっとそう。おーぐりーを、そんなに生け贄にしたいの?」
「なに、を――」
「嫌なこと、嫌いなものがあるんだよね。……おーぐりーにそれを見てる。重ねてる。だからあなたは、おーぐりーをやっつけちゃいたいんだね」
言われて、ぎくりとした。
ウィルヘルミナ自身、他者の何かを掴むことができる――或いはそれは別の人間たちよりも優れて。そんな自認があった。オーグリー・ロウドックスに接触を図ったのもそんな技能によってのものも大きかった。
だからこそ、その
一体、どこまで見えていると言うのか――――。
しかし少女は何一つ気負った様子もなく、そんなウィルヘルミナの内心を察した様子もなく、ただ訥々と言葉を続けた。
例えるなら流体だ。
枠に囚われない。流転する。流動する。重さを生む硬さを持たない――そんな無重力少女。
「……おーぐりーは、その人たちじゃないよ? おーぐりーは、おーぐりー。わたしの大切な――」
何かを言いかけて、ラモーナが止まる。
恥ずかしがったというよりは、単に、言い難いことをふと思い出したような顔だった。
少し困ったな、と言いたげに寄せられた眉。
少女のそんな顔に、ウィルヘルミナは胸の痛みを感じていた。
「……確かに、貴方の家族にあんな振る舞いをしていることは申し訳なく思うわ。本当にそこは……貴方を不快にさせたい訳じゃないの……だけど……」
かねてより計画されていた外宇宙船団は、あの戦争にて頓挫した。
それだけなら良かった。そこに万一のための避難民を受け入れた箱舟とされることも、人類の未来のためと思えば――方向は等しく、受け入れられた。
だが、居丈高に愛国者として振る舞いたがるあの軍人たちが来て、それは変わった。
何が愛国者だと言うのか。真に
奴らはただ、死にたいだけだ。
誇らしい武人だと己を騙して、いつか誰かにそう言って貰える――なんて自己肯定感に満ちたふざけた希望を懐きながら、自分勝手に死にたいだけだ。
暴力と死で己を成り立たせたからその因果から逃げ出せずに、現実の方を歪めようとする夢想家たち。この世で最もドス黒く邪悪な殉教者気取りのテロリスト。短絡思考者であり、救えぬ俗物的根性の持ち主。
想えば、全てを燃やしながら踏み潰したくなる。
父は、復讐をするなと言った。暴走したあの男の傲慢な私兵の凶弾に晒されて――そう言った。
だが、だとしても……。
「ん。偉いね、うぃるまは。我慢してて、偉いね」
「ラモーナ……?」
「つらくてかなしかったんだよね? わたしにはよく判らないけど、うぃるまは怒ろうとしてなくて偉いよ」
「……」
「うぃるまは偉い。わたしがちゃんと見てるから、だいじょうぶだよ?」
透明の少女のそんな言葉に、穏やかなその瞳に――……ウィルヘルミナは内心で首を振った。
見抜かれていると言ったが――違う。違うのだ。
ラモーナは確かに何かを見ている。そして彼女はそれを見ていてなお、優しく解釈してくれている。
見抜いているのとは、全く違う。
「えっと……そんなに気にしなくても、いいよ。おーぐりーがおバカさんだったから仕方ないと思う。……女の子にあんなことしたおーぐりーが悪いよ」
「……ええ」
「うん、あれはおーぐりーが悪いよ。おーぐりー、デリカシーとかないから」
頷くラモーナを前に、ウィルヘルミナは居た堪れない気持ちになった。
ラモーナは優しい娘だ。だからきっと、ラモーナの世界には優しい人しかいないのだ。彼女が世界をそんなふうに見ているから。
怒りを前に蹲っている人を前にして、彼女はそれを怒りを堪えようとしていると見做してしまう。怒りのままに復讐の仕方を深く考えているとは思わずに、ただ我慢しようとしているのだ――と。
いつか致命的に――何か致命的に。
彼女のその優しさではとても想定できないことが起きたときに、彼女はどうなってしまうのだろう。ウィルヘルミナには、それが、気がかりなことになった。
それから逃れるようにホログラムに視線を移す。
どうあっても強くあるべき男――強くあってくれないと困る男。憎むことも疎むことも嫌うことも組み敷くこともできない男。
そんな男の苦戦を前に、また、己の内の炎が沸々と湧いてくる。それが身体の熱となり、だからこそ寒さを感じさせた。それは恐怖の予兆だった。喪失の予感だった。
オーグリー・ロウドックスは強くなければいけない――。
確固たる己の中での物語の前提となってしまったそれが打ち壊されたとき、そんな現実が剥奪されたとき、己はどうなってしまうのだろうか。
それが、ウィルヘルミナ・テーラーには恐ろしかった。
だが、
「うん、でもね。安心して、うぃるま」
「何を……ですか?」
「おーぐりー、とっても強いから。おーぐりーは柱になろうとしてるの。誰に寄りかかられても、誰に求められても決して揺るがない柱。誰にどんな感情を向けられても、それもまた構わない――って受け止める柱。大事な旗を掲げ続けるための柱。だから――」
大袈裟な保護服にその身を包まれた小柄な少女は、ホログラムではなく宙を見詰め、
「できるよね、おーぐりー?」
そう、家族ではなく仲間への信頼を向けるかのように――言った。
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