第73話 貴人と執事、或いは死神の口付け
執事[シツ・-ジ]
上級使用人。
上流階級や裕福な中流階級などで、主に、主人への給仕や酒類・食器の管理や男性使用人の統括、主人への給仕を行うもの。或いはその役職。
◇ ◆ ◇
ホログラムの噴水が調子を変える。
緩やかに吹き出し、降り注いでいた水があたかも幻想の空間の如く――ゆっくりと降り落ちる雨粒のようにヴィジョンを変えた。
それを彩る蛍光色のサーチライトめいた演出。
水を自由に流すこともできない真空の都市の片隅の、僅かながらに――しかし考えられた憩いの場だった。
耳にかかる己の黒髪が揺れる。
死したる兵との約束のために刈り込んでいたそれは、今、偽装として人工毛髪を付けている。
かつての戦中を思わせる自分の姿。あのアナトリアで、すべきこともできなかった己の姿。
少女のあまりの発言に、思わず思考が停止した。
実は名家のお嬢様であったのだろうか。
高貴な生まれ、と言われたら信じてしまうような雰囲気はあるものの、彼女はどことなく野卑だ――いや、地に足がついていると言おうか。
何か張り詰めるような雰囲気と、剣呑さも宿した金色の瞳。自分が富み恵まれた者という自負がない。どちらかと言えば反逆者に近い。
これを貴族と称するのは、マーガレット・ワイズマンを貞淑な模範的淑女と評する程度には愚かしい行為だろう。……或いは家業が危ぶまれる没落寸前の手負いの貴族、というなら理解も可能だが。
「……ひとかどのレディならば、これまでの無礼に謝罪を。生憎と見ての通り粗忽な生まれであり、上流階級との交流は少なく、知らず礼を失していることを否めない。ご容赦を」
伺う意味も込めて、腰を折ってみる。
噴水の縁にハンカチを敷いて座っていた炎髪の少女は、そんなこちらを眺めてから――僅かに金の瞳を見開いて――小さく首を振った。
「いえ、ええと、その……こちらこそ突然の申し出に失礼しました。ご家族との歓談の中に、割り込む形で……」
「……それも含めて、失礼なのはこちらだ。貴官に対して相応しい場を用意することを怠った。これでは無礼者の誹りを免れないだろう。……どうかご容赦を願いたい」
「ええと……」
その反応を眺めつつ、内心で結論付ける。
彼女は決して上流階級ではない。彼らなら、また多少反応が異なる。例えば――或いはマーシュ・ペルシネットの方が、よほどその階級の人間として相応しくすら思える振る舞いをする。
ならば、一体何故そのような申し出がなされたか――ということだ。
考えてみる。
執事――貴族階級も確かに存在するこの星暦の世において、その職自体は失われていない。かつての世と異なり、あまり大勢の使用人が雇用される傾向にない場においては、より親密で私設的な秘書という意味合いが強いが……ある事はある。
問題は、何故、自分がそう見込まれたかということだ。
この都市に来てから行っていたのは、戦いだ。見世物の剣闘士。剣闘士を召し抱えるという事例は知っているが、剣闘士を侍従頭として雇うというのは寡聞にして存じない。ボディガードというなら、まだ、理解できるものだが……。
「その……貴方が、ご家族を探していると聞いたわ。そのために、あのような場にいると」
「確かに、肯定する。ただそれ以外にも――……いや、善き人にこう言うのも卑しいか。だが言わせて貰うならば、生憎と、身を立てる術がそれしかないからというのもある」
「……戦いに敗れてしまったから、ですか?」
「戦いに身を置いてしまったから、だ。……一度剣を取ったならば、そしてその剣たるの魔力に魅入られたならば、人は剣を手放せなくなる。剣の恐ろしさと言おうか。……或いは笑顔の方が恐ろしい、という劇作家の言葉もあるが」
話しながら、少女を伺った。
我ながら――……茶番だ。そして、己はこんなに小器用であったかと驚く気持ちもある。貴族好みの、僅かに機知を感じさせる会話。迂遠な例えも交えた会話。
仲間たちの――主にマーガレットとロビンだが――記憶の中のものを掘り起こしながらの再現であったが、彼女にはあまり違和感を持たれてはいないらしい。
おそらく、特権階級に――何かしらの区別される階級や役割にいるというのは、嘘ではあるまい。ただ、貴族とは違う。それだけだ。
(……これまで接触を図ってきた連中とは、色合いが異なるとも言えるか。企業人でもないだろうな)
己の中の回路が切り替わる自覚があった。
戦闘のその時、無意識に敵機の挙動を分析するように――そのような意識に切り替わっていく。
元来得手とは言えないが、戦いの一環としてなら可能ではある。間合いを図ること、呼吸を図ることとそう大差はない。無論、社会性の強い相手に有効に機能するとは口が裂けても言えぬが――……逆説的に、少女はその程度の相手ということだ。
「……貴方の戦いを見ました。二丁拳銃で肉薄する……機体の性能だけでなく、貴方個人の身体的な素質もあって初めて可能な
「慧眼かと、レディ。……つまり貴官は、俺に、
「……」
歯切れの悪い反応。
或いは彼女は、こちらを
それはともあれ、何故、執事などという面妖な言葉を吐いたか……だ。まさか本当に男を侍らせる趣味がある訳でもあるまい。
「……不審だ、という目をしていますね。ええ、判るわ。自分でも突拍子もないことを言っていると――……貴方の腕前は知れても、秘書としての能力は知れない。でしょう?」
「……は」
「ただ――……こう考えて貰えたら、如何ですか。あるところに女がいる。部下も、私兵も持つことができない。個人的に契約を交わせるとしたら秘書程度――……そして、単なる秘書よりも近しい侍従が欲しい」
「ボディガードや、護衛も難しい。……執事だと――そんな名目がいる、と」
少女の無言の首肯に、内心で考察する。
有り得ない話――……とは言えないのか。自分の味方がいない貴族の少女が、その権力の殆どを取り上げられた少女が、それでも信頼する手駒を獲得しようとした。如何なる形でも、腹心を求めた。
いや、或いは……。
露骨に貴族と結び付ける役職を用いることで、その権威や報酬のことをこちらに刷り込ませようとしている――……のかもしれない。
「しかし、信用ができないのではないか。貴官が――ではなく、貴官にとって俺がだ」
「それは……」
「粗忽者と言ったように、貴官からは俺が非合法な競技者としか見做せないだろう。そのような者を腹心に据える、貴官の内心が読めない。……年頃だろう。危機感もあるはずだ」
言えば、
「死神、と呼ばれていると聞きました。……でも貴方は、死を楽しんではいない。己の死も、誰かの死も。少なくとも、あの戦いの場にいた誰よりも――……貴方は死を嫌っている。憎んでいる。そういうふうに、見えました」
「……」
「それなのにあんな場に立とう、としている貴方に興味が湧いたというのが半分です。……ご家族のためと伺いましたが」
「優しい人間だと、貴官は俺をそう見ている――……か。ならば誤解だ。先程も言ったように、ただ、殺すしか能がない男だからだ」
「だから、あのような稼ぎ方をしている……と?」
「肯定する」
半分は、オーグリー・ロウドッグスとして――もう半分は、ハンス・グリム・グッドフェローとしての言葉。
他に能があれば、また違う形で【
だが、炎髪の少女は金色に光る目でこちらを見据えて言った。
「嘘、ですね。貴方が本当にただ稼ぎたいだけなら――……細かい経緯の話より、報酬の確認をします。……その程度の人間なら、私も幾らか見てきたから判るわ」
「……」
「……貴方は私を疑っていた。測っていた。我が身可愛さだけではなくて、もっと別のもののためのように。――まるで軍人みたいに」
こちらの内心を深く見通そうとするような少女の瞳。
その美貌と相俟って、並の男ならそれで萎縮してもおかしくないだろう。そんな、或いは猛獣使いのような目だった。
やはり――やはり単なる貴族の子女とは言い難い。その仕草こそが、逆説的に彼女の立場を浮き彫りにしているようだった。
「元軍人だ。癖になっている、とも言える。……そういう貴官こそ、身の回りに軍人が多いのか? 或いは家族が?」
「家族は……もう、いないわ」
「それは……重ね重ね失礼した、レディ」
奇妙な沈黙が訪れた。
さて――と、考えてみる。何かを切り刻んで腑分けしてみるように分析するのは、さほど、できないというわけではない。細かな仕草を観察するのは戦いに通じるものだ。
しかしそれらを統合して少女そのものを類推できるかと言えば、また別の問題だった。そのような探偵めいたことまで可能かと言われると異なる。そこまで小器用ではない。
単に言動を、そのたびに小さく斬り刻む。それだけだ。
後々にそれが結実し、後で合点をいかせるということはあるが――本当の意味で分析できているかと言われると怪しい。単に、のちの心構えの材料――こうすると多少なりとも反応速度が変わる――をしているに過ぎない。
(……どうするのが正解なのか、判らないところはある)
囮が第一義。そして、選ばれたのは自分。その二つから如何に類推して動くべきか。
細かな機材の説明は受けたし、任務にあたって最低限の研修は受けた。情報部と、マグダレナから。ただそれは致命を踏むなという意味であり、潜入調査員として十分な働きができるかと言えば疑問だ。
ある程度、この
行方知れずのアーク・フォートレスの情報を持っているものがいるとすれば、その持ち主は、己の持つ情報の質にまるで気付いていないか――それともある種の危機感や高潔さを持ってそれを秘匿している人間である、ということだ。
真空を囲まれた住居は、冷たい。
迂闊な者ならば、そんなアーク・フォートレスの存在を知った時点でその日の糧のために売り込むだろう。それぐらいここは深刻なのだ。己が浮かび上がる目があれば、容易に賭けてもいい。そんな肌感覚。
企業も同様。あれだけのことがあってなお貪欲だ。熱気に溢れている。この
となれば、秘匿されたその情報の行き先は二点。
相応しき主に――この場合は反抗勢力か――握られるためにその日まで秘されているか、それとも、その驚異を人に過ぎたものと知って押し殺しているか。どちらか。
そしてそのどちらもに対して、この少女は、繋がる目がない。
そんな風に思えた。その時だった。
「駄目ね。……黙ることはできても、語って装うのは不得手だから」
小さな吐息とともに、耳にかかる髪を撫で付け後ろに流したウィルヘルミナ。
少女然としていた雰囲気が霧散し、その顔立ちはより硬質に。隙のない支配者や独裁者の如き――女王のような雰囲気を纏い、彼女は声を上げた。
「単刀直入に言う。私は、腕が立つ仲間が欲しい。私だけの――私の仲間が。報酬なら約束するし、地位や名誉も授けられる。他は、相談次第だが可能な限りどんなことでも。その程度に、お前を強く買っているのだ――その腕を」
凛として、それ以上に断固とした声色。
貴族らしくないと言ったのは、半分は誤りだったのだろう。確かに貴たる者に相応しいだけの自負心があり――同時に彼女は貴族というより、より専制君主向きだ。例えば軍事帝国の将官。それだけの器を感じさせるものがあった。
後ろ盾も持てない少女の、そこに込められた重さを推察し――黙考する。
ウィルマ――ウィルヘルミナ・テーラー。
彼女は、これまでこの都市で出会った誰とも毛色が違っている。異物だ、と言っていい。日々をただ送ろうとしているとか、より大きな利を得ようとしているとか――……それらとは異なる、何某かをやり遂げようとする意志を持った者。
それを確かめることができた。
ある種の収穫なのだろう。そういう意味では、関係を維持して深掘りすべきと――己の中の合理の面がそう囁く。
これが、餌に釣れた獲物か。それとも獲物に繋がる手がかりの内か。何にせよ、今までのものとは異なる収穫に手応えのようなものを感じていた。だが、
「その……これでも、多少の伝手はあるから――……姪御さんの御父上を探す力には、なれると思うわ。……生きているなら、会いたいですものね」
最後に付け加えるように、彼女はただそう寂しげに――善意からこちらを慮るような言葉を吐いていた。吐いてしまっていた。
だからこそ、故に、
「……先程、貴官が俺を信用できないと言ったが――訂正したい」
「……貴方が、私を信用できない?」
首を振る。
「俺は俺自身も信用していない。貴官の申し出は魅力的だが、貴官の信頼に応えられるだけの自負がない」
「……
「背負いきれないと、そう言った。……兵ということは、敗残者と同義だろう。いや――貴官の身辺にいる人間を毀損する意図はない。だとしても、俺は、敗残者だ。……少女を守り切るのはおそらくこの世で最も不得手だろう」
「姪御さんを連れているのに?」
「……だからこそ、と思ってほしい。貴官に注力できない」
本音だった。
そのような優しさを持つ少女へ付け入ろうと考えた己、という罪悪感に応えるだけの申し訳無さ。
潜入調査員なら、何かありそうな彼女との関係を維持すべきなのだろう。どんな手法を用いても。そうすべきだ。
己も命令ならば――内心と関わりなく――それを遂行できる。しかし、今回の任務は陽動だ。波を起こすことだ。そのやり方の細かな指定はなく、説明もされず、ただこちらに一任されている。こちらの人間性に丸投げされている。
……ならば、多少の好悪を反映しても良いだろう。
果たして、彼女は、
「また、改めてお伺いしても? 私にもあまり時間はありませんが――…三度は足を運ぶ、ぐらいの気持ちの方がいいかと思って」
「足を煩わせることになるだけだろう。正直、貴官に見込まれるほどのものを持っているとは思えない。……どこにでもいる、無駄飯食いの役立たずの一人だ」
「……それだけ強くて?」
「何一つ守れなかった。結果で見れば、無価値に等しい」
無論、そのことと――己が為すべきことを為そうとすることに何ら関わりはないが。
だとしても、実際結果としてはメイジーもシンデレラも守れずに戦いに駆り出してしまっただけの男は、客観的にそう評するしかないだろう。
卑下や自己否定ではなく、単なる事実というだけの話だ。まだ何も為せていない。――いや、だからこそ為そうとするだけであって、特にそこにあの嵐の日々のような自己嫌悪はない。
しかし、彼女にはそう聞こえなかったらしい。こちらを慮っていた金色の瞳が怒りに染まる。何か、その地雷のような心の線を踏んでしまったというのか。
「そんな言い方は、失礼です。貴方ほどの力を持たない人に対して――それだけの力がありながら。そういう発言は、控えるべきよ」
「耳障りになったなら謝りたい。確かに人には内心の自由がある……俺のこの力に何を見出すかは自由だ。しかし、事実として俺は無価値なる敗残者だ。それは変わらない」
「だから、そんなことはないと言ってるでしょう! あれだけ他者を圧倒しておいて! そんな力がありながら! いい加減にしないと――」
声を荒げる彼女に、周囲の視線が集まってくる。
確かに陽動とは言われたが、これは不味いのではないだろうか。変な注目を集めてしまう。……それは多分良くない。
咄嗟に考え――反射的に彼女の腕を掴んでいた。
そのまま身体を引き寄せ、口付けほどの距離にて声を顰めて告げる。どうすれば彼女を静かにさせられるか――そう頭の片隅にて考えつつ。
「死を見た。多く見た。昨日まで、先程まで暮らしていた人が吹き飛ばされるのを見た。助けを求める声を聞いた。助けられなかった。或いは俺を守ろうとして死んだ。ときには俺が殺した。そのような人の命を奪った。余りにも多く。殺した。殺し続けた。殺し続けている」
「ですが、それは、戦争で……」
「戦争での殺人と平時の殺人に何の違いがある? 命令はある。仕事でもある。社会的にも区別される――俺もそう飲み込んでいる。だが、殺された人間にとってはそんなことは何ら関係ない。戦闘員も、非戦闘員も、誰も彼もが同じだ。その苦しみと喪失は変わらない。嘆きは変わらない」
「……放して、ください」
身を捩ろうとする少女の腰を抱いて引き寄せつつ、その金眼を覗き込んで更に続けた。
「死したる恐怖を知りながら、他者に死を齎せられる者はこの上ない愚者だ。そのような愚行を、それでも行うだけの理由を有しながら――……その何一つも果たせていない。それを、無価値な敗残者以外の何の言葉で呼ぶ?」
「……ッ、放しなさい――」
「死を憎んでいる? いいや、きっと本当は俺は何とも思っていない……理性で、理解しようとしているだけだ。だから殺せる。……そうも思える。どちらにせよ、俺は、君から何かを買われるだけの理由はない。理想で俺に近付くな。その身も、心も、衣も酷く引き裂くだけだ」
「はな、して……痛いの……」
「目を見ろ、お嬢さん。俺を見ろ――死神だ。そう呼ばれた。お前から、俺は、どう見える? 死に値段を付けたいと思うか? こんなものを、売り買いの場に上げるのか? こんなふざけたものを……。お前は値段を付けるのか、こんなものに……」
「っ、ぅ……」
「答えろ。それとも、どんなことでも――こちらが望むならその身体すらも差し出すか? 俺はそれを手酷く喰らい尽くす。傷を負わせて、血肉を貪る。獣のように激しく――……それを望むか? 俺は、ただ君を玩びながら引き裂くだけだ。柔らかな肉の、その骨まで執拗に苛むだけだ。死とはそれだ。俺の歯型をつけてやる。二度と癒せぬほどに」
情熱的なダンスに近く。
或いは、婦女へと迫り続ける暴漢の如く。
腰と腰を寄せ、顔と顔を寄せ――……睦み事のような、そんな距離感が解消された。
腕を放せば尻餅を突いて、薄赤色の髪を揺らして顔を背けてしまったウィルヘルミナ。彼女を前に内心で額を抑える。
(……遠ざける気だったが、どうにも真に迫りすぎたか)
或いは意識していないだけで自分の深層心理にはそんな気持ちがあったのか……どうも、言葉が過剰になり過ぎた気がする。
かつての貴人のように、こちらの首輪を取ろうとしてくるその所作に――あの時よりも育ってしまった内なる怒りの獣が牙を剥いたのか。
それとも、手を血に染めずに済んだものがあたかもこれからそれを行おうとするような言葉が、死の苦痛や何かから遠く評価するような行為が、己の何某かの逆鱗に触れたか。
何にせよ、己の意図を超えてやり過ぎていた。
ただ一方で、これほどすべきであるとも思えた。
「失礼した。……これで判ったと思うが、俺は、貴官の傍に侍らせられるような上等な人間ではない。二度と関わらない方がいい。……貴官はおそらく従軍していないと思える。死の熱と冷たさを知る必要はない」
「……っ、馬鹿にして……!」
「そのような意図はない。だが、失礼した。……あまり覚悟なく俺に近付くな。その柔肌を獣に食われたくなければ、大人しく息を潜めていろ」
突き放すような物言いに、それでも赤髪の少女はこちらを強く睨み返してきた。
好意に対して悪印象で返すことは、どうにも内心でも憚られる。だが、必要な措置だった。
執事なる――荒唐無稽な役職に就くこともできないというのも真実であるし、己が疑似餌同然の今においては襲撃時に巻き込まれるリスクを減らしたいというものもある。
果たして、彼女は目を腕で拭いながら走り去っていく。
その背を見ながら、善良な人間を脅しつけるという行為にどうにも己の内に倦む気持ちが溜まっているのを自覚する。或いは、倦んでいたからこのようなことを行ったのか。
「おーぐりー」
「どうした、ラモーナ。君から彼女はどう見えた?」
自分のような凡百の人間でなく、
特に、構えているよりもある程度揺らいでいる人間の方がその内心に触れやすい――とラモーナ自身から聞いた――ならば、まさしく今の状況はそれに合致していたと思えるが。
しかし、
「おーぐりー、わざとやってるの?」
「……うん?」
「逆効果だと思うよ、おーぐりー。おーぐりーはおバカさんなの?」
「…………………うん?」
なにが?
◇ ◆ ◇
気密扉を開いたロッカールームが静まり返る。
あの一件以降、或いは普段の戦いぶりを見てからか、余計な声をかけてくる連中はいなくなった。
戦争の中期を、
ともあれ、思索にはもってこいだった。
開いたロッカーの小さな鏡が己を映す。伸びた黒髪。黒い眼帯。歯茎を剥き出しにした鋼鉄の如き
今日は闘技者としてではなく、デブリの掃除業者としての仕事だ。ゴワゴワとした防護服に身を包みつつ、考える。
例外なく大型であるアーク・フォートレスを隠すとなるとどのような場所か――そのことを。
まず、都市部での秘匿は極めて難しい。
それ自体が一つの前線基地の如きアーク・フォートレスは、要するに一つの小さな都市のようなものと見做しても相違あるまい。確かに建設のそのまま都市の建造物の一つとして掩蔽するのは合理的であるが、その場合、武装をどうすべきかという問題が付き纏う。
その全てが力場による防衛機構を持つ以上は――つまり流体のガンジリウムを循環させる機能を持つ以上は、その構造こそが偽装における最大の問題だ。サーモセンサーにて容易く察知される。
となれば、あとは、やはりデブリに紛れさせることが一番だろう。
故に“
だが一方で――……戦後、そのような輸送や運行の妨げになるものの中に――つまり容易く衆目に触れてしまいかねないものの中に紛れ込ませようと考えるのだろうか、という疑問はある。
いや、それとも……そこで誰かに発見されても、その誰かは必ず
(本業……いや、この場合は副業か? とにかくスペースデブリの除去業者として、未踏破領域に立ち入る機会もある)
彼らはある種の機動や機械の訓練のようにそれらを扱っていたが、スペースデブリの除去自体は本業として営まれている。
ならば、こちらの分野で働くことこそがいずれ彗星の尾を掴むようなことになると思って従事するしかない。
それに――……多少、気に入ってもいた。
人を殺すことも争うこともなく、自分が磨いた技能を活かせる場。それに就けることに。
(ハンス・グリム・グッドフェローと知れてしまったら、こうして
吐息を漏らしながらヘルメットを付けようとする。
だが、装着を手伝う自動ロボットは、一台。こちらに来るのは、他の皆が準備を終えてからだろう。
表の仕事。
あとは発射場まで輸送されるのを待ち、その後、月衛星軌道にてデブリの除去に赴くだけだ。
あの月の南極に属する暗夜の都市からは既に離れていた。
当然だがスペースデブリとは、宇宙空間――特に衛星軌道上を周回するものを指す。それは地球にとっての衛星軌道、月にとっての衛星軌道、B7Rにとっての衛星軌道の三種類が存在する。
そして二つの衛星が齎す引力の変化によって、この周回軌道に存在するデブリの軌道も変化する。つまりは、どこかに降り注ごうとする形に。
地球に比べて重力が――その加速度がそれほどでもない月やB7Rには、降り注いだところで基本的にはそこまで深刻な問題になるほどの被害は起きない。
とは言っても、ものがものだ。
或いは大型の構造物が降り注げば相応の被害にはなるし、また、運悪く真空ドームを破損させてしまうと甚大な影響を及ぼす。
当然であるが、月や地球――B7Rの軌道を周回する
今の所、月面や資源衛星上に降り注ぐだろう――――そんな予測をされたデブリから撤去していく役割に就いていた。
(射撃の腕が認められれば、地球の衛星軌道上のデブリ除去にも赴けるらしいが……経験の違いもあるだろうな)
地球衛星軌道上のデブリは、レーザーを照射してその気化の勢いによって軌道を変更。地球に再突入させ、大気圏突入の熱によって破壊するというのが主流だそうだ。
一方、月やB7Rのデブリ撤去は異なる。
直接収集したり、或いは衝撃性凝固剤を吹きかけるなどして対処を行っていく。
よほど大型の場合は、宇宙船による牽引後に解体するそうだが……そちらの現場には、まだ、直面したことはない。
そのような大型の現場。
また、
それがあの“
(アーク・フォートレスの秘匿が行われているとしたら、まず間違いなくより宙間のデブリだろう。……こちらの仕事も、あちらほどすんなりと上を見込めればいいが)
黙し、補助ロボットの順番を待つ。そんなときだった。
受付作業員と、ロビーに待機していた筈のラモーナからの呼び出し。ヘルメットを小脇に抱えたまま、廊下を進んだ先に待ち受けていた――燃える髪を靡かせた少女。
腕を組んで、居丈高に。
或いは、凛然と世界と己を区分けするように。
その金色の眼差しが、恨めしげにこちらを捉えた。復讐――だろうか。相当の不興を買ったと自認する。彼女は、限りなくプライドが高い少女だろう。
「それがお前の正装か、死神。現世にはゴミ拾いで来ているという諧謔か?」
「だとしても、拾うゴミが多いとは言えない。だからこそ、このようなデブリの処理に来ている」
「口の減らない男だ」
すっかりと態度を変えてしまった少女に、無理もないと頷いた。
いや、むしろ、あれだけのことをしたというのにまだ交流の機会があることへの驚きが勝る。それだけ手酷いことをした。なのにまだこちらと顔を合わせようとするとは――一体、如何なる考えにあるのか。嫌悪を圧し殺すほどの深刻な事情があるのか。
そう眉間に皺を寄せる、そんなときだった。
「値段、だったな? お前は、私に、そう言った。お前が、私を値踏みした」
何を――と止める間もない。
炎の如き髪が広がり、そして、金色の瞳が視界一杯に――
「ん……」
黒い歯茎への、髑髏めいたマスクへの口付け。
それからまるで泥水で口を濯ぐかの如く、顔を背けて口を拭う少女。
見え隠れする高すぎるプライド――女王然としたその姿。
そして、
「……これで、手付金には足りて?」
はわわ。
◇ ◆ ◇
シンデレラ・グレイマンにとって――きっとその日は、最悪の一日だった。
祝福されぬ、しかし、許されていたと思う生。
それが揺らいだ日――。
……いや、或いは。
許されたからこそ、受け入れられたからこそ、最悪だったのかもしれない。
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