閑話 荒涼たる真世界、或いは薪の焔


 小惑星の命名法則というものがある。

 2022MS――このような仮符号があった場合、そこからはこう読み取れる。

 この小惑星は2022年の6月後半に発見された18番目の小惑星であると、そんな意味を持つ。

 アルファベットの26個からIとZを除いた24が、それぞれ一月からの前半と後半にあたり、そして後ろのアルファベットはIを除いた25個で発見の順番を表す。


 そして、暦が星暦へと切り替わるのに伴って――旧世紀に発見された小惑星との区分のために、その発見年度にBというアルファベットが前置されるようになった。


 故に――。

 地球の重力及び月との引力の関係により本来は存在できない筈であるのに、しかし存在してしまっている二つ目の衛星――資源衛星【B7R】という小惑星の名が示すのは、星暦七年の九月前半に観測された小惑星であるという事実。

 具体的な発見日は、星暦七年の九月三日。

 その小惑星は、本来、地球の軌道に対して衝突の余地はなく、観測こそされ永くに渡り忘れられていた。

 しかし、後にそれは本来あり得ぬはずの軌道を取り、地球に接近する。


 論理的には衛星になり得ぬというのに、それはスペースウォーズ計画の適用による迎撃の果てに、地球圏の第二の衛星として収まることとなる。

 その異常。

 唯一無二の異常。

 それを指して資源衛星B7Rは通常の小惑星にあるべき二つ目のアルファベットを剥奪され、そして、衛星に対する仮符号の規則からも外されることとなった。


 ……全くの余談であるが、この星暦という歴史は地球圏の統一政府が作成されたことに由来し――。

 そしてこの地球圏の統一政府には、環境問題に伴う海上都市の形成と、その形成の際に生まれた各国の領海や公海の問題とその解決に由来している。

 ある意味では、今日の海上遊弋都市フロートとなるその大本が、世界連邦政府の形成及び星暦という新しい暦の制定に最も寄与したと言っても過言ではないだろう。


 そして、その世界連邦政府の形成から100年あまり――。


 星暦一一四年、五月――。


 再び歴史に姿を表した小惑星――後の【B7R】。

 世界連邦政府内での二大勢力圏のスペースウォーズ計画に伴い、地球への不可思議なる直撃軌道にあったその小惑星の進行は阻まれ、そして、二つ目の衛星として地球の周囲を周り始めた。

 天文学的には存在し得ない二つ目の衛星――それに伴う諸環境問題により世界連邦政府は崩壊し、今日のような地球四圏――保護高地都市ハイランド海上遊弋都市フロート衛星軌道都市サテライトが生まれることとなる。

 なお空中浮游都市ステーションにおいてはその成立は四圏の内で最も新しく、それまでの前身はあれど、ガンジリウムとそれに伴う力場というものによって正式に確立したと言っても過言ではない。


 いずれにせよ、その小惑星の接近と世界連邦政府の崩壊は遥か遠く――……実におよそ、百年近く前の話だ。


 それが今日まで続く戦争の、遥かその遠因である。



 ◇ ◆ ◇



 ああ、どこまで話したっけな。

 なんであの金属を、ガンジリウムって呼ぶのか――……だったか?


 簡単な話さ。


 あれは還元前は――つまり酸化状態だと、ガチョウのヒナのみたいな黄色なんだ。そして、還元すると白い色の固体になる。

 液体にすると光沢が強まって銀色になっていくんだが、まあ、そりゃあいいだろう。

 ガチョウ鉱――旧世紀のどっかの国の言語で、ガチョウを意味する言葉があった。

 それと鉱物を意味する接尾辞って奴だったかを組み合わせて、Gansirium――ガンジリウムだ。


 はは、勉強になったか?


 で、まあ、なんだったか……ああそうだ。何故、あんな虐殺をしたか、だったか?


 あんた、通勤には何を使ってる? 車か? 地下鉄? 徒歩? 自転車? ま、なんだっていいんだがな。

 そういう通勤の途中に、公共の場で、意味のわからん大声を出してる奴を見たことはあるか?

 何なんだこいつ、って思うだろ? オレもそう思ってたよ。イカれてやがる。駄目だコイツは、ってな。


 でもな、食わず嫌い――……って言うのか?


 そういうルールだとか、モラルだとか、なんかそういう暗黙の了解に従ってオレも良くはないなとは思っていたんだがね……でもその、食わず嫌いってのは良くないと思った。

 それで、やってみることにした。

 馬鹿みたいに声を出して、意味の判らないことを言って、狂ったように喚き散らすんだ。特定の誰じゃなくていい。そのへんの雲とか、ドアとか、そんなのに対してさ。


 ……で、これが、楽しかったんだよ。


 何が理由かは判らないけど、楽しかったんだ。すごく。

 スッキリするというのとはまた違う……ワクワクするような、さっぱりしたような、そんな何かだよ。

 自分が柵だとか檻だとか思ってた――……無意識に思ってたそんなものが、限界が、嘘っぱちで、オレはそこでは止まらない――もっとって、それが判るのは楽しかったんだ。


 ……で、何の話かって?


 だよ。

 人を殺しちゃいけない、犯しちゃいけない、傷付けちゃいけない――って思うだろ? オレもそうだった。そう生きてた。

 でもな、踏み出してみたら……それは檻でもなんでもないのさ。

 楽しいぜ、自由ってのは――いや、ってことを知ることが、かな?


 それが一番だ。

 気付くんだよ。目覚めるんだ。これは革命さ。天と地がひっくり返ったように、

 女と――ああ、男もいたか――の服を剥ぎ取ることが楽しいんじゃない。気持ちいいことが楽しいんじゃない。並べ立てて踏み潰すこととか、撃つことが楽しいんじゃない。別にそれだけが楽しくて、これだけのことをしたんじゃない。


 オレは、のさ。


 ……息苦しかったぜ、宇宙の生活ってのは。


 あんた知ってるかい?

 どれだけ住処を整えられても、どれだけ娯楽が増えても、おれたちは生身のままで外には出られないんだ。

 お前ら保護高地都市ハイランドの連中は、出生制限だなんだってあるんだろ? 住むとこが限られてるから。


 オレたちにはなかった。


 お前らよりも深刻に住むところはなかった。

 一歩外に出たら死んじまうんだ。判るか? 何か事故があったら、バカがやらかしたら、オレたちはまとめて死ぬ。

 寒いんだぜ、宇宙って。


 ああ、でもな、増やせるんだ。

 新しく街を作って――だってほら、いずれお前たちの誰かが住むかもしれないって言えば、いくつも街を作ってよかっただろ? だから融通が聞くんだよ。そういうところは。


 でもな、だから結構簡単に――どこ行けとか、どこに戻れとか、そういう扱いはされていたね。オレたちは。

 ほら、株……なんつったけな? ああ、株地だ。株地。

 オレたちのボウルは――ボウルってのは住処のことだ――企業が金を出してるところがあるだろ? だから株地っつって、売り買いするのさ。企業が。


 資源が近くでどう掘れるとか、どう暮らしやすいとかで値段が変わるんだ。で、思ったより高くなったらな?

 『別の奴に売るから従業員はこっちに住め』――って、入れ替えられたりするんだよ。お前ら、そういうのないだろ?

 いや、ま、文句を言ってる訳じゃない。

 これが新しい形なんだよ。お前らみたいに故郷がどうだとか、なんだのかんだのはない。オレたちは何年も何年も、そうやって生きてきたからな。


 ……で、戦争だったか?


 ありゃあ、よかったぜ。

 攻め取ったらな、そこを、やった部隊の土地にしていいんだとよ。功績に応じて切り分けていいとか、な。

 夢があるだろ? 楽しいんだよ。ワクワクしたぜ。

 だから、ま、上役にもへつらってな。

 なあに、慣れたもんさ。それに気は楽なんだよ。だって、別に真空に叩き出される訳じゃないだろ? ここじゃあちょっとアイツラの方がいい目を見るとか、そんなのだけだ。

 そういうのだって、ほら、なら仲良くなっとけばこっちだって恩恵に預かれる。努力だよ。コミュニケーションだ。正当な努力と、対価だよ。


 ……ええと、で、なんだったか。何の話だったかな。


 ああ、虐殺?

 それってのは、そんなに咎められることかい?

 お前みたいな奴らが勝手に線を引いて、限界を決めて、その限界を超えてみる勇気がないから、逆にビビって、それが恥ずかしくてヒステリックになってるだけじゃねえのか?


 わからねえよ。超えねえと、さ。

 お前は、そんな、超える楽しみに一生気付かないのさ。


 岸のそっち側は、楽しいかい?



 ――――ある戦争犯罪者へのインタビューより。



 ◇ ◆ ◇



 思い出すことがある。

 前の大戦の、ある日のことだ。ある――ある地下都市にてのことだ。

 敵歩兵及びアーセナル・コマンドを有する強襲猟兵の根拠地とされてしまった陣地の奪還を行った際のことだった。

 確か――……中尉になってからであったと思うが、良くは覚えていない。


 上空――衛星軌道からの超高高度爆撃を恐れて、人々は地下への退避を進めていた。空中浮游都市ステーションへの誤爆に伴う形で改めて条約にて使用が禁じられたものの、果たして衛星軌道都市がどこまでそれを遵守するかは判らない。

 その備えとした――地下都市街。

 戦争の中期ほどには、かつての地下鉄の廃線などを利用する形で地下市街の形成は進められていた。

 そんな中での、敵地上侵攻軍の支配下となったその市街。

 歩兵との共同作戦だった。敵の駆動者リンカーが搭乗を行うよりも先に襲撃を加え、アーセナル・コマンド同士の戦闘に発展させず敵を制圧する。


 実際、効果はあった。

 メイジー・ブランシェットの駆る【ウルフハンター】を皮切りに、保護高地都市ハイランド連盟も第二世代型アーセナル・コマンドの開発及び配備が急速に推し進められていたものの――それにも限度はある。

 部隊の多くに配備されていたのは、対アーセナル・コマンドを想定していない第一世代型。

 必然、このような歩兵による敵泊地の駆動者リンカーに対する急襲作戦というのは戦術的な効果の高いものであった。


 既に何件も成功事例はあり、戦果を上げていた。

 そして――……このときもそうなる筈だった。

 衛星軌道都市サテライト連合軍の支配下にあった地域の住民が――年若い子供だ――こちらの歩兵に気付き、助けを求める声を上げてしまったこと。

 敵の大半はそのような市民の傍にいたこと。

 それらと――その他諸々の要因が組み合わさり、作戦は軌道修正を余儀なくされた。

 発生した、アーセナル・コマンド同士の戦闘。

 ……とは言ってもそれはほんの数機相手であり、鎮圧事態は速やかであった。自分は歩兵部隊への唯一の支援猟兵として随行していた。先行量産型の第二世代型に搭乗して。


 問題は、その後だった。


 銃撃戦及びアーセナル・コマンド戦闘によって死者を出し、そして投降した衛星軌道都市サテライトの軍人。

 正規軍人というよりは、十分な軍事教育も施されずに送り出された彼らはほとんど野盗同然であり、そして、その支配下となっていた地域の惨状は――……最早、語るまでもないだろう。

 据えた血と体液の匂いが充満する、かつて駅のホームだった施設にて。

 後ろ手に縛られた彼らの前で、強化外骨格エグゾスケルトンに身を包んだ仲間の一人が憤慨する。

 アサルトライフルを片手にしたその年若い兵士は、敵軍が支配地域の非戦闘員に対して起こした凄惨なる戦争犯罪を目の当たりにし、義憤に燃えていた。


「こいつ等は家を焼いたんだ! 俺たちの国を! 街を! 女子供だって例外なく殺した! それに――こいつらがここでやっていることを見ろ! 楽しんで殺してやがった! こんな獣みたいな殺し方を……! こんな奴ら、生かしておく必要なんてないだろう!」


 規範ある仲間がそれを抑えにかかるが――しかし皆、気持ちとしては彼に同意しているのだろう。

 強化外骨格エグゾスケルトンのヘルメットの奥で、無言で充満する殺気の圧力。敵への恩讐を抱えぬ兵など、その人間牧場――ないしは屠殺場を目の当たりにしたものの中にはおらぬ。

 とは言っても、あくまでも、規律があった。

 皆、自分同様――感情では眼の前の惨劇に怒りを叫びながらも、鋼の精神にてそれを抑え込もうとしている。

 投降した敵への攻撃を理性で防いでいる。歯を食い縛って耐えている。憤怒の貯水槽の、臨界のところで。

 故に、彼の言葉は危険だった。


 そして――……襲撃作戦の際の敵との銃撃戦により、歩兵部隊の指揮官は死亡していた。


 事前の取り決めに従うならば自分が――ハンス・グリム・グッドフェローがその次席。つまり、必然、激高する彼を抑えるのは自分の役目となった。

 周りの兵からも、それを求められる。

 アンタがそいつを宥めてやらなければ、そいつの怒りによって俺たちにも火がついてしまう――

 止めるにしろ、にしろ、その肩の階級に相応しいだけの責任を取れ。俺たちは、あんたのその命令に応報するのだ――と。

 ヘルメット越しの沈黙の目線が、こちらにそう促していた。

 

「抑えろ。戦時条約により、捕虜の虐待は禁止されている」

「――ッ。アンタは、俺たちとコイツらのどっちの味方なんだ、どっちの! この腰抜け野郎が……英雄だのなんだのと持て囃されて、要するにてめえは自分だけがお綺麗でいたいだけじゃねえか!」

「……繰り返すが、抑えろ。これは命令だ」


 良くない兆候であった。

 彼のその怒りの言葉に晒されれば、投降した敵兵たちは己の身に振るわれるだろう暴力への――その予期に対する反抗心により、間違いなく頑なな態度を取るだろう。

 態度だけならばいい。だが、もし火に油を注ぐ言葉を言われてしまったなら……。

 そうして売り言葉に買い言葉が重なった末に――今は牙を抑えて、唸る声を心に収めて、鉄の自制心で何とか耐えている兵たちもどうなるか判らない。

 だから余計に周囲からは、と――或いは敵対者に向けるに等しいだけの、上官として責務を果たせるかを測るような静寂にして雄弁な圧力を加えられていた。


「抑えるんだ……銃から手を離せ。投降者――捕虜への虐待は禁止されている。それは重大なる交戦法規違反だ」

「その法律が何を守った! 法律は市民を守らなかった! コイツらは法を何も守らなかった! それで、そんな奴ら相手に俺たちが守ってどうなるっていうんだ!」


 彼のその怒りは、もっともだった。

 誰もの代弁者だった――俺にとっても。

 子供を保護した兵士も、遺体の運び出しを行う兵士も、俺自身も――……値踏みするように俺を眺める。

 ああ、と目を閉じた。

 お前はどんな言葉で己の理性を成り立たせようと言うのだ――そんな不確かなものを。何を根拠に。

 そう、問われている気がした。或いは、己自身へと問うていた。


 自分の信条を語るとするならば――総量として苦痛は少ないほうがいいだとか、敵が破ることとこちらが破っていいことには何ら関わりがないとか、そんな言葉が浮かぶだろう。

 だが、それでこの若い兵が納得はしないとも理解できる。

 そんな、ある種の形而上学的な、ただ道徳的な言葉は兵への何の慰めにもならない。そんな夢想が通じるほど、生易しい場所には彼らはいない。自分たちはいない。

 故に――逡巡することもなく口を開き、告げた。


「貴官は、既に幾度か出撃していると推察するが……その全ての現場がこうだったか? 全ての場が――全ての敵兵が、だ。或いは、貴官が別の部隊から聞いた話も含めてだ」


 そうだと言われた場合は如何したものかと考えつつ、若い兵士の回答を待つ。

 人の感情は、何かを追憶する際に一度途切れる。

 そして追憶先の感情が同一でなければ、多少なりとも今の感情には抑えがつくと――かつてそう学んだことに従う。


「彼らの中にも、良識的な者……いや、良識的でなくとも構わない。最低限の交戦法規の遵守をする者もいるだろう。仮に我々が捕虜虐待を行ったという話が広がった場合、そんな者たちも含めた敵の多くの兵士はこう思う――投降しても無駄だ。最後の一兵まで抵抗するしかない――……いや、それだけならまだいい」


 言葉を区切り、続けた。


「意味のある軍事的な抵抗や、個人的な抵抗ではなく……どうせ死ぬならと、ただの完全なる嫌がらせや刹那的な行動に移る者も出てくる――いいや、確実にそうなる。彼らの本拠地は宇宙そらだ。ほぼ片道切符でここに来ている。間違いなく……生還の見込みが完全になくなれば、残るのは暴徒だけだ」


 その法の背景には輝かしい人道的な理由があり、或いはそんな理念に対する切なる祈りもあり、自分もそれを信じたいが――……現状許される本質は、そんな打算的なものだ。

 打算的だ。だからこそ、現実的なものなのだ。


「市民を想うなら、ここで捕虜を殺害することによる被害の拡大を思ってくれ――敵の人命ではなく、こちらの被害の人命をだ。気持ちは判る……だからこそ、銃を収めてくれ」


 彼は強い怒りの眼差しで睨み返してきた。しかしそれでも――……彼はこちらを睨んだまま、それでも銃口を下げた。

 何とか一息吐く。

 彼の経験が少なく助かった、と言う他なかった。

 全軍が初めから捕虜を取らないという方針を掲げるならばともかく、そうでなく、このような衝動的或いは突発的に殺害するのならば、おそらくのところ先ほど口にしたような極論は起こり得ないのではないかと、思うこともある。


 自分は止めたが……止めもしない指揮官も出るだろう。

 仮にそれが相手に伝わったとして――……それで、本当にすべてが投降しない者になるかは疑問だ。よほど派手にかつ執拗にやらない限りは、敵の大半が強靭な抵抗をするほどの恐怖感を抱くことなどまずない。

 そして、手間であるが隠蔽の方法はあるのだ。

 ざっと、三つは思い付く。……そう思い付いてしまう程度には、自分も腹に据えかねていた。

 それでも呑み下し、何とか内心で吐息を吐いた。


(……より具体的に懸念で言えば、実際のところどうなるかは判らないが――今回もし殺してしまえば、ともすると戦後に戦争犯罪者として貴官が裁かれるかもしれない、というものの方が大きい。むしろ、そちらの方がよほどあり得るだろうな……)


 ただ、このように他人のために怒れる者や――或いはそうでなくとも激昂した者に、その者の身を案ずるような言葉をかけても無駄であろう。

 怒りは、我が身をも焼き尽くす――……。

 我が身を可愛く思えば、こうも激しくも激昂はしない。その者の内から怒りを消し、我が身を案ずる余裕を作るとしたら、それこそ具体的に心が折れるほどの痛みや恐れを与えてやるかだけであろう。


(……俺は、まだ、正常なる怒りを口にできる貴官の戦後を想いたいだけだ。正直、個人的には――彼らを殺したとて、俺は何も感じない。いや、怒りの解消にはなるだろうな)


 気持ちは判る――……いや、十二分に判るのだ。

 ……理念として、悪しき前例を作るべきではないというのは判っている。そういう自己の中の理性の声とてある。

 一度でも許してしまえば、法の判例のように他でも適応される可能性が高まり、また或いはそれが常態化し、そしていずれは巡り巡って秩序の崩壊を招くという――そんな法観念的な考え方だ。

 ただ――……人は法ではない。法そのものではない。

 前例を作ったところで、現実的に考えて、世が本当にそれ一色になりはしないだろう。そんな観念的なものが、この世にそのまま溢れる訳がないのだ。


 そういう考えは、道徳と同じだ。

 そうして己を戒めるためにこそ、或いは誰かを戒めるためにこそあれ、些か現実を離れた道理なのだ。

 馬鹿らしいものだ。

 現実はそう単純ではない。本当に心からそれを想って唱えることは、おそらくないだろう。


(やはりどちらかと言えば、ただ個人的な理由だ。……貴官を止めたのは。貴官やこの部隊の人間を戦争犯罪者にさせたくない――……そのようなリスクを取らせたくない、それだけだろう)


 もう一つは酷く個人的な――己のための事情だ。

 自己の内なる激情を縛り付けるために、法治観が必要だった。理性や合理、正当性や妥当性が必要なのだ。己の感情を抑えるために。

 きっと眼の前のこれに目を瞑って許可したら最後、自分の中での歯止めが効かなくなる。一度でも我慢をやめたら最後、己は次々に易きに流れるだろう。

 そう判っていた。

 だからこそ、全てにおいて縛らねばならないのだ――規範に。規範であることに。


 法観念のようなものが現実に適用はされないだろうと言ったが……自分に関しては別だ。

 自分はおそらく、実際のところそう意思の強い方ではない。――と己に呼びかけ続けなければ自身を縛ることもできず、きっとそう振る舞うこともできない人間なのだ。

 だから、縛り続ける。

 一度でも解き放ってしまったら、おそらく、二度目は耐えることもできず、或いは耐えることが馬鹿らしくなってしまうから――……。


「……辛いなら、任務から外れていい――というのは貴官への侮辱だな。おそらくだが、誰かが自分に与えられた理不尽のために怒ってくれる――それに励まされる者もいる筈だ。貴官は、貴官のその正義感は、そんな人間にとっての助けになるだろう」


 努めて穏やかな口調になるように心がけ、その兵士の肩を叩いた。


「……彼らの様子を見て回り、安堵させてやってくれ。まだ不安がる者も多いし、実際に怪我や精神的な負担とてあるだろう。人のために怒れる貴官ならば、より親身に寄り添えるはずだ……任せてもいいだろうか?」


 そう言えば、少し、ヘルメットの奥でその年若い兵士の眼差しが和らいだ気がした。その背を押して、救助された者へ顎を向ける。

 そのまま、やや年嵩の兵に目配せをした。

 それとなく、この兵士の様子を見てやってくれと――そんな意図は伝わったのだろう。歩き出した彼を静かに追うように、その下士官が続いていく。

 何とか胸を撫で下ろそうとした、その時だった。


「ハハッ、お優しい上官様を持ったねえ、お前らは! 羨ましいよ!」


 後ろ手に縛られた敵兵の一人が、嘲笑を浮かべた。

 馬鹿な――という思いと同時に、これだけのことをやるような馬鹿ならば、後先や我が身の可愛さを考えずにこんな馬鹿なことを口にするとも思った。

 そのまま、その髭だらけの兵は声を上げた。


「流石は大地がある連中は余裕に溢れてやがる! 見習いたいねえ! ハハッ、教えてやろうか! そこのガキの前で親をブッ殺してやった! そいつの姉もだ! 偉そうに噛み付いて来てた癖に、終いにゃぴーぴーぴーぴー泣き喚いて赦しを乞ってやがったね! 見せてやりたいぐらいだよ!」

「てめえ……!」

「はは、なんだ? なあ――ほら、離せよ? お前ら軍人だろ? お前らの優しい優しい上官様は、捕虜を殺すなってご命令だぞ? 保護高地都市ハイランド連盟の御大層な軍人様は、上官の命令も守れないってのか?」


 すぐさまに掴みかかった傍にいた兵士に、その兵隊崩れはわざとらしいふてぶてしさを示した。

 一度は収まりつつあった、仮設家屋が線路に並んだホーム上はまた熱気を取り戻した――最悪の熱気を。


「止せ。……捕虜の虐待は禁ずると、先ほど言ったとおりだ」

「ですがね、中尉……!」

「止せと、言った。抑えてくれ」


 目線で促しても、その胸倉を掴み上げていた兵士は収まろうともしない。

 相手はそのヘルメット目掛けて唾を履きかけ、ニヤつきながらなおも続けた。


「知ってるか? 親ってのはなあ、最初は子供を庇うんだよ。でもな、続けているとそんなのも改めるんだ。そのガキの姉貴がどうして死んだか判るか? 親に――」

「――警告する」


 言って、腰のホルスターからリボルバーを抜いた。


「捕虜虐待は禁じられているが、捕虜と装いながらも攻撃する行為に対しての警告射ないしは暇がない場合の実行射撃は、許可されているところだ」


 五十口径――12.7✕55mm弾を使用するリボルバー。百メートル以内なら最高規格の軍用防弾ボディーアーマーも貫通し、二百メートル内で二十ミリの鉄鋼板を撃ち抜ける。

 狙撃銃の弾薬を流用するそれは、至近距離ならば、正式採用されている強化外骨格エグゾスケルトン越しに致命打も与えられるものだ。

 或いは今回のような作戦を、敵からされる場合に備えていた。実際、歩兵と共同の上で応対したこともある。生身に向けて放てば、手足を簡単に千切り飛ばすと知っている。


「――へ、」


 停止した敵兵の前で続ける。

 怒りはあるか――己に問いかけた。お前は怒りのまま、感情を御せず、神になったかの如き思い上がりと共に裁きを行おうとしているか。

 

 暴力は忌まわしく避けられるべきものであり、感情のままに振るってはならない――故に逆説的に、銃を手にすると同時に精神は切り替わり、全く己の感情を交えずに執行できていると自認する。

 この手合いは、ただ、他人が苦しむ顔を見たがるだけだ。自分の身に起こることすら碌に考えない。或いは考えこそすれ、想定が及んでいない。

 だからあんなことをやった。こんなこともやる。

 どうするか――――簡単だ。情を交えず、怒りを抱かず、ただ厳然と執行する。それのみが唯一無二の、応報となる。


「肉体的な傷害のみならず、心的外傷後ストレス障害他の精神的な苦痛を――正しくは、精神疾患を負わせるものについても、それらの罪として条文が適用される事例がある。知っているか?」

「あん? てめえ、何を言って――」

「夜道で女性の髪を切った、ということで適用された例がある。……口で言うなら安いと思ったか? 言葉の暴力――それは比喩ではなく存在する。場合にもよるが……今回のような事案の場合、貴官の言動にそれが適用される可能性は十分に考えられる」


 顎で示せば、胸倉を掴み上げていた兵が退いた。

 逆に――皆がこちらへ、信じられないものを見るような目を向けていた。

 それもそうだろう。捕虜虐待を禁じた上官が、方便と共に発砲しようとしている――……彼らにはそうとしか思えない筈だ。


「ハッ、撃てるかよ! そんな理屈で! 結局のところてめえも頭に来てるんだろうが! いいぜ、殺せよ! こっちは捕まった時点で終わってんだよ! てめえみてえなお綺麗な頭をしてる恵まれたボケに嫌がらせできるなら、なんだってやってやる!」

「そうか。俺が怒っているように見えるか?」

「あ? んなもん決まって――――、……っ」

「敗北感を与えたかったか? 残念だが、不可能だ。貴官の単なる独り相撲だ」


 そのまま銃を持つ手を地面へ下げて、大声を上げた。


「全員傾注! 衛星軌道都市サテライト仕込みのコメディアンだ! 両手を縛られた状態で芸ができるらしい! せっかくなので見学してはどうだ? 今まさに、犬の鳴き真似をしているぞ! 負け犬のな!」


 戸惑うように顔を見合わせていた強化外骨格エグゾスケルトンの兵士たちも、その中の心得た者が笑い飛ばせば――つられて笑う。

 髭面の敵兵はしばし呆然としたのちに、己が侮辱されたと知って顔を真っ赤に染め上げた。

 それが再度口を開こうとする途端に――心得ある兵が、背後から猿轡を持って待機している。

 頷き、


「口を縛れ。心的外傷後ストレス障害など、被害者に精神疾患を与えかねぬ加害行為に対する必要な予防措置だ」


 反論を許させずに封じ込める。

 手足の一二本を撃ち抜いても良かったし、続けるようならば真実として、己の中でも嘘偽りなくそうすることに何一つ躊躇いはなかったが――まだ、それを避けられるだけの手段も、避けねばならない必要性もある。

 仮に自分が発砲した場合、どれほどの題目を並べたとしてもあの年若い兵士にとっては、言った言葉も守らずに捕虜の虐待を行う上官として映るだろう。

 それを、避けなければならなかった。避けられる内は。

 彼に悪影響を与えかねない行為は控えるべきだ。もし余計なことを学習したり、或いは恣意的に運用するようになってしまったなら、目も当てられなくなる。


(まだ、表情が硬いな……)


 僅かに勘案し、猿轡を噛ませた兵士に目をやった。


「しかし、まだ武器を隠し持っているかもしれないな。……これほどの男なら、下品にも屁と尻で会話することもできそうだ。……軍曹、武装解除を頼めるか?」

「勘弁してくださいよ、中尉! こんな尻の穴の小さな男は、武器になるほどの大声なんて出せませんぜ!」

「そうだな。そしてあいにく上品な我々には、尻語も判らないだろう」

「全く、違いないですぜ中尉! それじゃあ捕虜虐待になっちまう!」


 大げさに肩を竦めた彼に呼応して、他の兵士たちからも笑いが上がる。

 笑いには、力がある。

 これで溜飲もひとまずは下がっただろうとホーム上の兵たちを見回し――改めて、言った。


「念のために付け加えるが……アーセナル・コマンドのセンサーを通じてこの様子は撮影されており、これは、然るのちに然るべき場所に提出する。……敵味方に関わらず。いずれの行いも、軍事裁判の対象となる。留意するように」


 残る捕虜たちに告げ、リボルバーをしまう。

 強化外骨格エグゾスケルトンに包まれた味方の兵士へ、努めて落ち着いた声で告げた。


「各人、救助作業に戻ってくれ。誇りある保護高地都市ハイランド連盟の軍人として、職務の遂行を」


 それで――どうやらひとまず、場は収まったらしい。

 一度感情を切り替えた彼らは、またきびきびと仕事に戻って言った。年若い兵もそうだ。皆、最低限の気持ちの切り替えは叶ったようだ。

 助けられたな、と吐息を漏らす。

 こちらの意図を読んでくれた下士官がいなければ、本当に発砲して負傷させる必要さえあっただろう。避けられてよかった、と内心で頷く。

 そして改めて多くの部下たちが作業に戻るのを確認してから、捕虜へと呼びかける。


「……付け加えるが。先ほどの警告に関して、俺は確実に実行する。全く以ってただの防衛と法執行の意思と共に、俺は実行する。……くれぐれも言動には注意してくれ。こちらも手荒には扱いたくない」


 或いはこれは脅迫に当たるだろうか――と思いつつ、警告ならば不法行為とはならないかと考える。

 通常の生活時に市民が相手に銃を向けて何かを呼びかける……例えば武装解除だとか投降勧告を迫ってもそれは紛れもなく脅迫行為だろうが、特に現状この場においては――或いはこの場でなくとも――それを禁じられてはいない。

 ならばよほど不当でなければ、問題はない。

 そう結論付けた。

 ここまでは、正当なる範疇だろう。……次については、怪しくなってしまうところだが。


「今後のために付け加えるなら、実は、隠蔽の方法などいくらでもある。……捕虜を殺害した場合の露見の要因は、上空からの監視、或いは彼ら救助対象による証言などと――あとは死体の状況だ。射撃距離と死体の損壊状態……そのようなものから導き出され、のちに問題となる。ただし――」


 区切り、



 理解を促すように、続けた。


「俺がそうするか、ないかではない。ただ……現実としてそんな手法が存在してしまう。今回は回避できたが、いたずらに憎悪を煽る真似は控えてほしい。蟻のように踏み潰されて苦悶の中で死にたくなかったら、貴官らの懸命な態度を期待する。……こちらも無意味に、必要性なく苦痛を与えたくない」


 そう呼びかけ、年嵩の下士官の元へ向かう。

 元は空軍の士官である筈の自分が、アーセナル・コマンドの実装に伴い、強襲猟兵という新たな職種の運用に伴い、そして戦中の壊滅的な軍への打撃に伴い――事前の取り決めであちらの士官の喪失によって一時的な指揮官になった。

 そうは言っても、陸軍の作戦についてはまるで詳しくない。事実上の指揮官になるのは、その曹長であろう。

 ……本来なら近接航空支援のような扱いであり、いくら階級が上とはいえ、いくら統合で運用されているとはいえ、空軍と陸軍の指揮系統は異なるというのに――困ったものだ。


 早く、そのあたりについても軍で統一してほしいと思いつつ……特殊な兵科であり、かつこのような混乱の中にあっては難しいのだろうと吐息を漏らす。

 必要に応じて戦闘機のような空軍的な役割も、戦闘ヘリや戦車のような陸軍的な役割も行う。

 なんとも今は、傭兵のようなものだと――そう息を吐いた。


(『無意味に、必要性なく苦痛を与えたくない』――か。裏返せば、必要さえあれば……妥当性さえあれば、躊躇わずにそれができるということだ)


 じっと、己の手を見た。

 人殺しだ。人殺しの、血塗られた手だ。

 自分は……理性として、感情として人を傷付けることを厭っている。嫌っている。しかしそのどちらについても、そんな自己倫理を外す要因はある。

 方や合理性や必要性――方や激昂や憤怒。

 自己の中の嫌悪感や拒否感とは別に切り分けて、或いはそれを忘れて、振るえるのだ。忌まわしい暴力というものを。この、好きになれない感触を。


 ……先ほどのあの敵軍の兵士も、このような場に駆り出されなければ、或いはあのような行為に及ばなかったかもしれない。

 彼が行った行為への批判に異論はない。侮蔑も持つ。許されない行為であり、こちらも許すことができず、許されるべきではない。

 それでも、もし――もしかしたら。もしかしたら彼は、善き子であり、善き夫であり、善き父だったかもしれない。

 そう思えば、やりきれなくなる。

 何かに対して――……何もかもに対して。彼自身に対しても。彼に傷付けられた人々の苦しさに対して。こんな戦いに対して。


(……考えても、仕方のないことだ。形の見えないものに怒っても、何の甲斐もないだけだ)


 震える指を握り潰した。

 いつまでも悩み続けている――未来を識る自分なら防げたのではないか、形を変えられたのではないか、何とかできたのではないかと。

 自分は既に戦果によって史上最も人を殺した個人になったが……それだけでなく、史上最も人を殺した個人であろう。

 何もやるべきこともできずに、何一つ生産性のあることもできず、ただ今もなお人殺しを続けている――……真実救えない男だ。


「中尉、よろしいでしょうか」

「なんだろう? 今向かおう」


 そんな思考を打ち切り、呼びかける強化外骨格エグゾスケルトンの兵士へと足を向ける。

 自分の意識と、行わねばならない職務に関係はない。

 今はこれが自分にできる最大限だという思いと共に――線路に背を向け、進んでいく。


 なんにしても、すべきことをやる――自分にできることは、それだけなのだから。


 いつか一人で死ぬ、その日まで。


 

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