第50話 カタリナ、或いは墜落、またの名を聖者の行進


 助けられないことも多い。

 手が届かないことも多い。


 それでも――伸ばした手が、零れ落ちそうになっていた何かを受け止められたその時の。

 ほんの僅かな、助けになれたそのときの。


 人の、笑顔を。

 彼らのぬくもりを。

 隣人と抱き合う彼らへの愛しさを。

 戦火にあってなお日常を続けようとするものを。


 或いは自分に関わらずとて、ただそこにある人の笑顔を――献身を。安堵を。幸運を。平穏を。


 それを知っているから、嫌うことなど、できないのだろう。


 人が、好きだ。

 彼らを誇らしく思う。

 愛している。


 そのことに、理由なんていらない。



 ◇ ◆ ◇



 マスドライバーへと向かう途中の海路で足を止めて、三機のアーセナル・コマンドは睨み合う。

 こちらの銃鉄色ガンメタルのコマンド・レイヴンとの距離は、決して近くない。至近距離での急速接近直線機動バトル・ブーストを立て続けに幾度と行って、それでようやく埋められるほどの差だ。

 つまり、その維持をされたなら必敗する――。

 そして視線の先で、


『君とて知るはずだ。今避けねばならないのは、我々人類の分断だと――それを起こす【フィッチャーの鳥】こそが、次なる戦いを起こす源であるのだと』


 こちらへと呼びかけるかつての友、マクシミリアン・ウルヴス・グレイコート。


『判るだろう……法と人道を重んじていた君ならば。彼らのその行いは、決して、近代国家で許されることではないのだと……』


 それは、こちらの良識を問う言葉だった。


『君とて幾度と目にした筈だ。占領下で、或いはそれ以外でも……彼らはあたかも支配者のように振る舞い、テロを未然に防ぐために恐怖を敷くという名目の下に弾圧を行った。少なくない人間が言われもない罪で投獄され、或いは私刑同然の尋問や暴力に遭い、ときにはその肩書を利用しての徴用や強奪を働く者すら出た。その特権的な身分は、彼らが起こした死ですら捜査の一環として塗り潰すほど……そんなものは、断じて近代法の理念から否定されなければならない』


 よく通る中低音の声が耳朶を打つ。

 ああ――何故、切り結んだその時にそれを思い出せなかったのだろうか。


『見ただろう、あの焼け落ちる都市を。……あれが彼らが引き起こす分断と恐怖の果てだ。そのあたかも貴族的な特権には、貴族的と言うなら本来あるべき貴としての自負すら伴わない。ただ世に混沌を生むだけの存在であるのだ、奴らは』


 いずれ兵への演説のためにスピーチの力を求めてサークルに所属したその時に、付き合ってくれた彼が。

 あの日の記憶が振り返られ、その身振りや手振りまでを想像させる。

 紛れもなく、あの、莫逆の友の声。

 どうして――……どうしてその、替えがたき友である彼の声すらも忘れていた。


『一握りの優越者がこの社会をほしいままにすれば、それは致命的な分断を引き起こす……故に除かねばならないのだ、あの圧政と支配を。かつての我が衛星軌道都市サテライトが忌まわしき戦端を開いたかのように……このまま続けばいずれ人々の不満は暴発するだろう。今まさに、その岐路に立っているのだよ。地球は――生存四圏は』


 彼はおそらく、その真心から足を止めて語りかけていた。

 ああ――【ハシバミの枝ヘーゼルアスト】の指揮官として現れれば、こちらと戦わざるを得ないから。だから彼は、単身でこちらへと身を晒した。

 真実あの日、別れたときのまま、ハンス・グリム・グッドフェローをその友としていた。


『断じてそれを見過ごしてはならないのだ。どうか我が友ハンスよ……後生と言っていい。私と共に来てくれ――……必要なんだ。私には、君が』


 縋るようなその声に、挟める言葉などない。

 いや、


『……オイ。他に言うこと、あるんじゃねえのか?』

『明かせないだろう。彼の答えが――……その心根が確かめられるまでは』


 視線の先で、ロビンと何某かの言葉を交わし合っていた。

 ああ、彼ならば――……と思う。

 心根の優しい男だった。だからこそ、きっとシンデレラも、自分という役目も果たせなかった役立たずの人間があの場から取り除かれたのに合わせて、彼のその理念に賛同し出奔したのだろう。

 一つ、腑に落ちた。

 やはりシンデレラは愚かでもなければ傲慢でもない。心根の底に優しさがあり、世界を見られる賢い少女だった。

 彼女は決して騙された訳でも、唆された訳でもなかったと判って――……一つだけ安堵できた。

 だから、


「……マクシミリアン。答えてくれ」


 瞳を一度閉じ――


「君が……君があのストロンバーグでの戦闘も、そしてマウント・ゴッケールリでの戦闘も……それを企図したのか?」


 改めて、そう問いかけた。


『……後者は、違う。信じてくれ』

「前者は、君か。……あの、流れ弾一つでも市民全てが死ぬ可能性があった騒動を起こしたのは……そんなことすら判らない、あのような素人同然の兵を連れてきたのも……君か」

『ハンス。……その咎は受ける。裁かれろと言うなら裁かれる。だが、できないのだよ。今の私には――為すべきことがあるのだ』


 彼のその言葉には、確かな確信があった。

 こういう人間を、自分は幾人と見てきた。

 死すらも厭わずに己の気高い信念に従おうとする者――殉教者――自分ではその高みには至れない、星のような生き方。

 ……おそらく、こうなれば、彼への説得というものは無意味だろう。如何なる陳情も批判も、ただ彼の心を苛むばかりに留まり行動を改めさせることなど出来やしない。

 ならば、余計な言葉は無意味か。

 腹の中から湧き出ようとするあの日の死者に対する怒りを飲み込み、言葉を紡ぐ。


「俺は――保護高地都市ハイランド連盟の軍人だ」

『ハンス……』

「だが……確かに君の言うように……【フィッチャーの鳥】の、人道法、或いは連盟旗のその理念に背いた行いについては思うところがある」

『……!』


 ある。確かに。考え続けている。如何にすべきか。

 さらなる上級部隊への通報も行った。複数の軍内の監察機関へも実態の報告をした。

 まだ回答は得られていない。そして、やはり、そこであれを仮に是と肯定されたときに俺はどうすべきかと――考える日はある。

 だが、


「ただ……俺にはどうしても、【ハシバミの枝ヘーゼルアスト】も良いものだとは思えない。確かに武力を用いて行わねばならないこともこの世にあると、判ってはいる。理解している。だが……一歩間違えれば、最初のあの襲撃でも都市一つの全住民が犠牲になるところだった」

『……』

「ときには出血が必要だと――……その理屈も、理解しているつもりだ。人はそこから決して逃れられないと、判っている……判っているが……」


 果たしてそれこそ、【フィッチャーの鳥】と何が違うと言うのか。

 己は正しい行いをしているから、この程度の犠牲は受け入れられるべきだ――という傲慢。ハンス・グリム・グッドフェローが、善を信じても正義を奉らないその理由。

 いつかその正しさは拡大され、拡張され、希釈され、都合のいいものに対して当て嵌められる定義となる。

 それこそ当の【フィッチャーの鳥】自身が、戦後の混乱と被差別、それを助長する残党派によるテロを防ぐために出来上がったというのが――その理念と実態こそが、反証となる。


『……確かに、君の言う通りだ。言えないだろうな、常に正しいとは……。【ハシバミの枝ヘーゼルアスト】がそうであるとは、口が裂けても……。……或いは、思うさ。これは、単なるこの世に新たな戦火を齎してしまうだけの悪しき行いなのかもしれない、とも』

「……」

『だが、誤りの筈なのだ……明確に、君があの虐殺的な被害に加担させられたことなどは。その後、その艦長に処分がくだらないと聞く。それは何よりも確かな誤りなのだ。誰の目にも明らかな……!』

「……」

『繰り返す、というのか? その過ちを……それを、見逃していいのか? 人道が……法が、踏み躙られたそのままで……』


 マクシミリアンは、そのまま切実に訴えかけた。


『君の類まれなる遵法精神も、私は、あの四年間を共に過ごした者として……理解しているつもりだ。たとえそれが、僅かばかりだとしても』

「……」

『その上で、問いたい。我が友ハンスよ。……【フィッチャーの鳥】を、その暴虐を見逃すことは……法の理念から、是なのか?』

「……俺、は」


 返す言葉はなかった。

 法に従うならば、あのような行為は断じて肯んぜられない。見逃していいはずがない。許されざる悪行だ。裁かれねばならない所業だ。

 だが同時に法に従うなら、保護高地都市ハイランド連盟の軍人たる自分が反政府的な武装勢力に参画していい筈がない。加えるなら、自己の勝手な判断であの艦長へ――私刑を行っていい筈がない。

 そして、自分は、ただ盲目的に法を信奉している訳ではない。

 それが過去から現在へと連綿と続き、人の普遍的な善へと寄り添おうとしているからこそ――だからこそ己は、法に遵守している。問題があろうとも、一歩一歩善へと近付こうとしているからこそ、だからこそ法を尊んでいる。


 ……何が正解なのか。


 正気たれと己に命ずるからには、己は、己の正気の在り方を決定付けなければならない。

 ただ己の正気にのみ、理性にのみ従うと決めたのなら――それは義務であるのだ。逃れることのできない、己と法と善に対しての。

 沈黙が続いた。

 そして、自分の中で意を決して口を開こうとしたその時、


『いや……すまない。正直に言おう、我が友ハンス。こちらになど、ついてくれなくていいのだ――……協力してくれなくていいのだ……私になど。ただ、もう、戦いから遠ざかってくれ。それだけが私の願いなのだよ』

「マクシミリアン……?」

『頼む――……ハンス。もう、戦わないでくれ……心優しい君が、誰からの理解もされずにただ殺戮者の汚名を着せられることに、私は友として耐えられない……』


 ああ――と、目を閉じた。

 彼はなんと優しい男なのだろう。善良な男なのだろう。

 だが、それが彼の心というならば――答えは余りにもわかりやすく決まっていた。

 それを裏付けるかの如く、コックピット内にデバイスに対する着信の音が響いた。

 フィーカがすぐにその音声をコックピット内のスピーカーに繋げる。そこには――


『グッドフェロー! 聞こえるか、グッドフェロー! こちらはハロルド・ブルーランプだ!』


 通信の背後で響く激しい銃撃の音。コンクリートや金属が散る音。

 マズルから多量の燃焼ガスが広がるような独特の発砲音。おそらく――7.62✕55mmか。

 海上遊弋都市フロート製のアサルトライフルではなさそうだ。そう分析しつつ、【一〇〇〇機当サウザンドカスタマー】への敵火器情報提供並びに当該建物突入における火器使用許可の発令をコンソールで実施。


「ブルーランプ特務大尉。マスドライバーは――」

『グッドフェロー! いいから街に来い! 速やかに! 不味いことになる!』


 銃声混じりの、切迫した彼の声。

 息が荒い。どこかに被弾したか。


『【衛士にして王ドロッセルバールト】と名乗る連中が、傭兵向けの装備を買い漁って武装して市街地に潜んでいる! 衛星軌道都市サテライトの残党だ! なんとしても、あのアトム・ハート・マザーが到着する前にケリをつける必要がある!』

「――!」


 衛星軌道都市サテライトの残党――自分も知っている。

 本国の停戦命令に従わず、軍備を持ち逃げして本国の降伏後もゲリラ行為とテロ行為を行った集団。

 その大規模な残党狩りに出撃した覚えがあった。普段とさして変わらない任務だったが、厄介であった覚えがある。戦力という意味ではなく、だ。


「……ブルーランプ特務大尉、【ハシバミの枝ヘーゼルアスト】がマスドライバーを利用しようとしている。ロビン・ダンスフィードもそちらに確認した。……問うが、それでも都市部への帰還を優先しろと言うのだな?」

『……ッ。ああ、そちらはまだ……まだ、! まずいのは【衛士にして王ドロッセルバールト】の連中だ。奴ら、海上遊弋都市フロートの連中を脅している……脳みそが煮立ったクソどもが、だ。本国の停戦命令にも従わない武人気取りの兵士崩れのカルト狂信者だ!』

「了解した。……なんとか振り切ってみる。そちらに武装した二個小隊を送っている。到着まで五分ほど、持ち堪えてくれ」

『……! オマエと会話していて、初めてよかったと思えた瞬間だ。感謝するぞ、グッドフェロー!』


 また銃声が響き、通信は打ち切られた。妨害電波というよりは、地下で電波が届きにくい場所のようだ。

 ブルーランプ特務大尉は、少年の体躯だというのによく持ちこたえているらしい。射撃が得意なのだろうか。

 ……敵の規模は不明だ。

 動員した【一〇〇〇機当サウザンドカスタマー】は二個小隊、兵員輸送トラック四台分の人員だ。おそらく不足ということはないと思うが――残る二個小隊も、作業が完了次第合流するように申し伝える。


『で、さて……どうする、首輪付きの黒犬チャーチグリム。コイツはこう言ってるが、オレは腹を決めてるぜ?』


 ロビンは、こちらに攻撃を加えることに躊躇いはないだろう。だからなおさら、マクシミリアンは投降を呼びかけているのだ。

 機体越しにこちらを見詰める彼の目線を感じる気がした。

 保護高地都市ハイランドの士官教育を受けながら、卒業と同時に彼は任官せずに緊張高まる衛星軌道都市サテライトへと戻っていった。

 そのまま連絡は取れずに開戦を迎え――……戦いにおいても、グレイコートという名を聞くことはなかった。どこかで生きていてくれればそれでいいと思っていたが、彼がこうして変わらずに居てくれたとは。


「……ありがとう、マクシミリアン。そういう君こそが、優しい男だと俺は思う。君は昔からそうだったな。俺の方こそ、ずっと君を案じていた。……生きて君に会えたことが、この上なく嬉しい……本当に、君が生きてくれていたというだけで嬉しい」

『――! ハンス、では――』

「だが、。君の優しさは、俺以外の誰かに向けてやってほしい。こちらは十分だ……特には必要はない」


 ホログラムコンソールに触れ、機体の状態を確認する。

 戦闘続行は可能――――開いた口から出る言葉とは別に、脳は冷徹に計算していた。


「……虐殺者も、汚名ではなくただの事実だ。真実、俺はそれを行った」


 そうだ。自分で戦うことを選んだ果てにそうなった。

 誰かや何かではなく、全ては自分の選択であり責任の帰結だ。そこに誤解がある訳ではない。事実として、ハンス・グリム・グッドフェローは多くの人間の命を奪った史上最大の殺人者だ。

 殺された者たちは、死にたくなどなかっただろう。

 彼らにも、生命と幸福と日常があった。それを奪ったのは、他ならぬ己だ――その事実に如何なる修飾も弁解も聞かない。自分は血塗られた殺人者なのだ。

 そこに誤解など、入り込む余地はない。

 それでも、


「俺は、保護高地都市ハイランドの軍人だ。やらねばならないことがある」


 ――

 銃鉄色ガンメタル大鴉レイヴンの全身に力が籠もる。戦闘態勢。バトル・ブーストによる急速戦闘機動の用意は整った。


『ハッ、だから言っただろうが。コイツは人の話なんて、聞きやしねえって。……なあ、グリム。見縊られたら困るよなあ。オレたち黒衣の七人ブラックパレードは皆そうさ。――オマエもオレも、為すべき答えを探したのさ』


 同時に、ロビンの駆る青き【メタルウルフ】からのロックオン警告。

 操縦桿の武装トリガーを引けば、その身体に積載した火薬庫の如き火器は一斉に火を吹くだろう。


「ロビン。……また、街で虐殺が起きるかもしれない。争わせないで、くれないか」

『――――。そう、かよ』


 僅かな沈黙。


『なあ、グリム。……思えばオレたちは、随分とあのときに海上遊弋都市フロートを焼いたな?』

「……ああ」

『答えてみろ。あの時と、今と、なんの違いがある? ? テメーもオレも、あの日――……保護高地都市ハイランドの勝ちのために随分と殺した。積み上がるぐらいに殺した。


 冷徹な銀フレームの眼鏡を幻視するような、そんな声色。


『グリム。……テメーの中で、あの日の死と、今日の死に違いはあるか?』

「……」


 そんなの、決まっている。

 いつだって人の死は忌まわしいものだ。

 それが善人だろうと悪人となってしまったものだろうと、戦闘員だろうと非戦闘員だろうと、どこに所属をしていようとも――

 ならば、答えは決まっている。

 たとえその中に、どれだけ己の主観に基づく好悪があろうとも――


「……同じだ」

『だろう? オレはオレで、こっちを勝たせるためにいるんだ。なら、まあ、そいつは――必要経費って死じゃあないのかね?』

「……そうか。了解した。それが貴官の意見と言うなら尊重しよう。……俺からは、もう何も言うまい」

「ハッ、そうかよ」


 悲しいものだった。

 ロビン・ダンスフィードがそのような理屈を口にできるだけ割り切ってしまったことが。

 仮にも市民の防衛者であった筈の元軍人が、非戦闘員を、不正規の軍事行動の犠牲にすることを飲み込んでしまったことが。

 だが、同時に思う。そう割り切らなければならないだけのものを積み重ねて傷付いてしまったと言うなら、そこに余人が言葉をかける余地などないのだ。それが彼の価値観というならば。その内心を揺るがすことはできない。

 或いは言葉とは別に本心があるか――……彼ならばそうかもしれない、とも思うが。


(何にしても、俺にはすべきことがある。……ならば、退くべきときではない)


 ――


(己の有用性を発揮しろ。俺に必要なのはそれのみだ。……テロリストが市民を脅かしているというなら、それを除く。それが俺のであり、俺自身がだ)


 フィーカの呼びかけ――【いつでも行けますシステムオールグリーンご随意にマスター】――地獄までも付き従う気概の従者。

 もう一度、己へと命じた。

 ――


「俺には時間がない。市民には時間がない。命令を既に受けている。……邪魔立てするなら、貴官らとて撃墜の対象となる」


 ロビンがまず、応じるか。

 その背部でおもむろに展開したミサイルコンテナと、シャッターを上げたミサイルポッド。

 放たれるかと身構えた瞬間、その隣の灰色の機械天使が青き重騎士を腕で遮った。


『行かせる……べきだろう。彼を見過ごしても、我々の計画への瑕疵にはならない。発射までの時間を稼げるならば、それでいい』

『あ? ハッ、いやまあそうだったな。確かに、無理に戦う必要なんてねえ。オーケー……そういう指示なら呑んでやるぜ』

『だが――』


 こちらへと向けられる【アグリグレイ】の右腕――携行レールガンの尖端。

 閉じていたレールが開く。紫電が弾け、殺意を充填する。


『――がえんぜられない。前に幾度と戦場で相対したその時から、思っていた……我が友ハンスの声で、我が友ハンスの言葉で……ただ命ぜられるがままにになってしまう彼を、

『へえ……』

『たとえ殺してでも――そんな存在はここで否定しなければならない……!』


 ロビンを押し留めようとしていた彼はもう、居なかった。

 二対一――彼が、マクシミリアンが、ロビンが数度口にしたように灰色狼グレイウルフであると言うならば……メイジーのライバルとして戦場で幾度と鉾を交えてなお生き残ったほどの駆動者リンカーと言うなら、不利はこちらか。

 今からでも投降すれば命だけは助かるだろうかと考えつつ、己の中の怯懦を笑う。

 そんな気などないだろうに。

 己がここで退くことは、ハロルド・フレデリック・ブルーランプの、カタリナ・バウアーの、フェレナンド・オネストの、エルゼ・ローズレッドの――……否、海上遊弋都市フロートの市民の死を意味すると思え。

 彼らの命を想え。

 失われていく生活を、その生を想え。

 かけがえのない人命を――その悲鳴を想え。死を想え。


(――――――……許すな。一片たりとも、それを許すな。命ある限り否定し続けろ)


 ならば畢竟、答えなど一つしかない。


『だ、そうだぜ。墓守犬チャーチグリム

「そうか。……ノーフェイス1、交戦する」


 速やかに迎撃ないしは離脱して、市街に向かう――それだけだ。


Vanitas空虚よ――para備えよ bellum戦いに,」



 ◇ ◆ ◇



 猛烈に辺り一面を塗り潰す銃声とマズルフラッシュが、地下駐車場で瞬いた。

 それは闇に包まれてしまった――ハロルドが照明を撃ち抜いた――そのコンクリートの中で、さながら火花のように散っている。

 そのたびに車のボディが甲高い音を立て、防弾ガラスに皹が入る。

 いくら企業向けの高級防弾車とは言えども、二十名近くからの集中砲火を前には残骸になるのも時間の問題だろう。


(……やれやれだ。全く)


 車体を盾にしつつ、放たれる弾幕から顔を出すこともできず、ハロルド・フレデリック・ブルーランプは吐息を漏らした。

 その手の内の拳銃は9mm弾。

 信頼性はあるが、防弾装備で身を固めた敵を殺すには少々殺傷能力が足りない。

 それを理解しつつ、右手に握る拳銃の銃口を調整する。


 ライフル弾に限らず、銃火器というものはそもそも薬室で弾丸を燃焼させ、あとは銃身を滑らせることで弾丸を外へと撃ち出す兵器だ。

 即ち、その燃焼箇所――つまりまず音が発せられる震源地目掛けて撃ち込めば、そこは薬室であり、撃ち抜けば銃を破損させられるということである。

 屈んで車を背にしつつ、ハロルドは眼前の壁や天井目掛けて引き金を引く。

 薬莢が舞い、跳弾が数回――敵兵士の悲鳴が上がる。


(それにしても忌々しいものだな。……身体が付いてこないとは)


 機体に乗っていれば今頃、全ての――或いはこの三倍の敵を以ってしてもその全員を返り討ちにできていたというのに残念だ。

 彼は、確かに擬似的な汎拡張的人間イグゼンプトであるが、だからといって必ずしも生身でも凄まじい戦闘力を誇るとは言えない。

 手の内の銃の発射に関しては問題なく、或いはその反動の殺し方も疲労に対する最適化も十分に行える。

 ただ、走り回ったり躱したりというのにはまた別種の訓練が必要であろう。

 高位の汎拡張的人間イグゼンプトはその必要もなく――つまり敵の心理を把握し、銃口を把握し、軌道を把握し、大きな回避動作もなく殲滅できると聞くが……生憎とハロルドは、生身においてはそこまででもなかった。


 射撃には、牽制も交じる。

 暗視装置を用意していなかったお粗末な衛星軌道都市サテライト残党の歩兵――【衛士にして王ドロッセルバールト】と名乗る連中が、闇に包まれた駐車場内で明かりを確保しようとするのを妨害する。

 灯された黒塗りのバンのライトを撃ち抜き、戦線を膠着させている。

 まあ、彼の側からは顔を出さずに好き勝手撃てるだけ、だいぶ有利であろうが……。


「おい、リロードが終わったら早く渡せ。撃ち合うよりは気が楽だろう」


 同じく車体を盾にしたカタリナには、リロード係を申し付けていた。

 彼女が護身用として携えていた拳銃と、彼が所持していた拳銃。その二丁が、二人に許された最後の砦であり――その再装填の隙こそが、二人の命綱であるからだ。

 だというのに――彼女は涙声で、


「なっ、な、なんで……! なんであたしを庇ったのよぉ……!」


 拳銃を差し出しながら、そう呟いた。

 ああ――……と、ハロルドは天を仰ぐ。

 敵がまず狙ったのは、ハロルドよりも体格が勝るカタリナの無力化だった。だからその隙を狙って抜き撃ち、敵一人の火器を撃ち抜くと同時にその小銃の弾丸を以って照明を破壊した。

 それでも、一撃で無力化が叶ったのは一人だ。

 既に放たれてしまった弾丸を止めることはできず、結果、否応なくカタリナを助ける――リロード係として必要になるだろう――ためには、ハロルドが彼女の身体を庇う必要があった。


「黙っていろ、民間人。……オマエより僕の方が戦場のキャリアは長い。僕の判断にいちいち文句を付けるな」

「でっ、でも――」


 キッと睨み返そうとしたカタリナの背を抱き寄せる。

 丁度、跳弾したライフル弾が彼女の頭があった位置を掠めた。


「――カタリナ。


 少女の背に腕を回したまま、右手で応射する。

 また、跳弾。

 車の影から歩み寄ろうとしていた敵が膝裏を撃ち抜かれて倒れ伏した。悲鳴を上げる。

 他人を撃つつもりなのに自分が撃たれたらぎゃあぎゃあと五月蠅い連中だと、侮蔑にも近い気持ちをいだきながら更にもう二発。近寄ろうとしていた敵たちを黙らせる。


 その頭の中の想像上のとやらの名目で死は恐れぬらしいが、腕や足を失ったあとの生活の想像はしていないのだろう。

 いい気なものだな、と思った。

 所詮は武人気取りのかぶれたテロリストどもだ。どう勇ましく言おうと――或いはをまるで理解していない。

 元がアーセナル・コマンドの駆動者リンカー上がりだからか、陸軍の兵士のように遮る鋼の装甲なき白兵戦への想像力が欠如しているのだ――――そう、眼帯の奥に失った右目を思いながらも、ハロルドは銃撃する。


「案ずるな。グッドフェローがオマエのところの社員に指示を出していたらしい。……あれは良く出来た士官だな。到着までさほど時間がかからないそうだ」


 ふ、と笑みを零しつつ応射。

 跳ねる弾丸が敵の戦闘力を奪っていく。手の内で薬室を撃ち抜かれた小銃が、或いはその弾倉の暴発が、敵の指ごと戦闘力を失わせていく。

 そう思えば、闇を裂くヘッドライトと共に新たな敵のバンが複数台出現し――――弾丸一閃。その戦闘車両の運転手の頭を撃ち抜き、横転させた。衝突音と悲鳴が響く。

 もう、弾倉を三つは消費した。

 残りは半分か。

 或いは白兵戦の想定をしていないのはお互い様かと自重しながら、ハロルド・フレデリック・ブルーランプは好戦的な不敵な笑みを浮かべる。


「人には得手不得手がある。……少なくとも、僕はオマエよりは得手だ。。オマエの仕事は、到着したオマエの社員に指示を出すことだ。――、ということだ」


 鼻水を垂れたカタリナに呼びかけ、また別の拳銃にて跳弾の牽制を行う。

 或いは自分ではなく弟ならもっと上手く殺しただろうかと思いつつ――そんな感傷を頭から追い出しながら、ハロルドは笑いを零した。


「……ああ、間に合わなかったら、お得意のマヌケなジョークで時間を稼げ。衛星軌道都市サテライトのバカ共には、さぞかし波長が合っていい具合だろう」

「まっ、またマヌケって言った――――!?」

「フン、事実だろう。……調子は出たか、カタリナ?」

「〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜っっっ」


 マズルフラッシュが瞬き、薬莢が転がる。

 ハロルド・フレデリック・ブルーランプは、笑っていた。



 ◇ ◆ ◇



 三つ――――三つほど、ハンス・グリム・グッドフェローには彼らと戦うにあたって戦法上の命題があった。


 一点目は、この場で彼らとの戦闘の帰結がどうなるにせよ、本来の役目がまだ残っているということ。

 つまり、機体を戦闘可能な状態に保たなければならないという点。


 二点目は、ハンス・グリム・グッドフェローはロビン・ダンスフィードの戦法を知っているが――同様にロビンもこちらの機動を知っているということ。

 そして、不味いことにロビンの戦法は知ったところで防げないというところであり、逆にこちらの機動上の癖を見抜かれるのは明らかなる不利となる点。


 三点目は、ハンス・グリム・グッドフェローの有する奥の手――というよりも禁じ手たる初期化コマンドを利用した、戦闘中の接続率の強制変更。

 己に最適化されている、危険度の少ない接続率を投げ捨てて行う危険域への合一。

 こればかりは、あの大戦中も一度として行うことはなかった。


 幼少期からの自己の計画的な肉体の成長及び脳神経系の企図した発達、そしてあらゆる不調を想定した訓練を行ってなおも――……を埋めるための最終手段。


 これを用いて、ようやく五分か。

 或いは四分六分しぶろくぶ――……無論、不利だという意味で。

 それほどまでに彼我の差は絶対であり、そして、この機能の利用は言わばハンス・グリム・グッドフェローの継続戦闘能力という利点を放り出す自壊行為に過ぎない。

 そうだ。

 己という無毀なる剣を、それでも砕くほどの無茶である。


 女性技術者の声――〈面白いことを考えるじゃないか、グッドフェロー少尉〉〈まあ、理屈上は不可能ではないよ。ただ、行うにはリスクがありすぎる〉〈具体的な回数の制限なんて、ワタシには予期できないとも。それをやれば、明日キミが壊れてもおかしくはない。逆に壊れないかもしれない。そこは不明だとも〉――警告か、それとも傍観か。


 ただし、と付け加えられた。

 己の中で兆候は出る。自分の備品化に伴った、肉体への異常。不随意運動への障害。

 集中力などの状態によってそれらの変動はあるにしても指標にはなる――そう言われて割り出した時間が、【一八〇秒】。

 これまでの非戦闘時の訓練によって、それを己の中の一つの目安として設定していた。その限度まで使えるという意味ではなく、その極限に近付くに連れて後遺症のリスクが高まるという意味においてだが。


 そして今――【一二五秒】。



(――――っ、だ)


 強制的に遮断する。

 初期化コマンドを中断し、己の意識が、拡充されていた自己認識が引き戻される。

 全身の毛穴が開いたまま身体が凍り付くような透明感は打ち消され、無理矢理に内臓を弄られ続けたような吐き気を伴った倦怠感と疲労感が爪先までにも襲いかかる。


 それは、余りにも被弾をしすぎたからだろうか。

 それとも、別種の戦闘ストレスがあったからだろうか。


 何にせよ、継続的な戦闘能力と引き換えにした自己の完全操縦という一時的な強化は、これで打ち止めにされていた。

 無数の破片と爆風が打ち付けられ、銀色の亀裂が数多刻まれてしまった銃鉄色ガンメタルのコマンド・レイヴン。

 機体に深刻なエラー、或いは障害さえは辛うじて受けずに済んだものの……その内部を流れる流体のガンジリウムは、大きく外部装甲へと流出させられることとなった。

 海面スレスレを這うように飛ぶ。

 敵のミサイルから逃れるにはこれしかない、という道だったが……


『ハッ、おかしな動きをしたかと思えば……もう打ち止めか?』


 ロビンには一切陰りはない。

 それどころか、この時間の経過は――ただ彼への有利な場を作り上げただけだった。

 自分たちの戦闘領域を覆う、黒き雲。

 ミサイルが撒き散らした噴煙と、爆発と、燃料と温度変化が作り出した黒雲は――急速に発達し、膨れ上がる悪魔の如く天に向かって伸びていた。


 フィーカの警告――【気温の低下を確認。下向きの突風、積乱雲の兆候です】――天候すらも操るロビン・ダンスフィードの神憑り的な技能への警句。


 これが形成されてしまえば、あとは、彼は弾丸という弾丸を用いずに済む。

 プラズマを――つまりはイオンの分離を利用した電撃の誘導。

 降り注ぐ雷の嵐が敵を破壊し、神の三叉槍が怨敵を誅伐するという絶対的な破壊空間。


 真の意味で、彼に弾切れはない。


 天候すら含めた戦場の万物を用いて敵を殺す――――それこそが、ロビン・ダンスフィードという男が作り上げた彼というであった。


『……諦めたまえ、ハンス・グリム・グッドフェロー。君では、この先の戦いには向かえない。……いいや、向かわせないと言うのだ。この私が、マクシミリアン・ウルヴス・グレイコートがそう告げようと言うのだよ』


 或いはロビンだけならば突破できたかもしれないが……。

 何かの嗅覚の如く、的確にこちらの進路を塞ぎ、退路を遮る【アグリグレイ】の射撃が離脱を困難にさせていた。

 あたかもチェスの駒にその支配領域があるかの如く、彼の射撃は飛行空域を制限してくる。

 その果てに用意されるのが、言わば詰みとでも言うような――そんな領域だ。

 究極的な偏差射撃、と言うべきか。

 所謂、置きに来る射撃だ。その一撃だけならば警戒には及ばないかもしれないが――……だからこそ、恐ろしい。それはこちらの最高速度への到達を遮り、或いは攻撃への転換を制限し、いずれ不可避である死へと駆り立てる狼の牙だ。


 頭上を抑えられた。


 そして下は海――アーセナル・コマンドにとっての天敵。

 加えて、己にはもうこれまでの生存を許していた手段が取れない。

 ならば、待ち受けている道は一つだろう。


『我が友ハンス……諦めてくれ。そうすれば、命までは奪わない。私と共に来なくていい。君はこれ以上戦闘に関わることなく――君の婚約者と遠く離れて暮らすのがいいだろう』


 向けられるレールガンの銃口。

 そして、なり続けるロックオンの警報。

 確かに――ああ、確かに、これは所謂詰みだろう。

 ならば、言えることはただ一つだけだ。


「断る。――たとえ明日世界が滅ぶとしても、俺は林檎の木を植え続ける。連盟旗に――俺が俺に、そう誓ったからだ」

『……それが、君の答えか。どこまで語ろうとも、君はそうなってしまうのか。……いつから、そんな男に』

だ、マクシミリアン。俺は、

『っ、私とのあの日々もそうだと言うなら――――』


 向けられる尖った二本のレールを前に、推力を全停止。

 機体の前方で交差させたプラズマブレードと、全開にしたその力場。噴出する紫炎目掛けて、レールガンの極超音波の弾丸が撃ち込まれた。

 凄まじい衝撃――――力場で減衰され、プラズマに融解され、それでも殺しきれない衝撃によって機体が弾き飛ばされ、


 ――――



Vanitas空虚よ――para備えよ bellum戦いに,」


 再びの、初期化コマンドの起動。

 同時に反動により弾き飛ばされた銃鉄色ガンメタルのコマンド・レイヴンは、他のあらゆる機動に比べて低速で海中への侵入を行った。

 一定速度を超えることで、あたかも流体が固体めいて振る舞ってしまうという現象。

 バトル・ブーストでは着水叶わずに速度故に海面に叩きのめされるというその現象を避けることができた。


 ……海中にアーセナル・コマンドが入ることの危険性についてはかつて論じた。


 その装甲下を流れる流体のガンジリウムが、低温により――海水の冷却により固体になってしまわないように、管制AIが熱しようとすることが機体内部の温度上昇を招き、それがパイロットへの深刻な負担となるのだと。

 特に初期は安全装置が不十分であったために、それが起きたのだと。

 ならば――――


『馬鹿な……あれでは、自殺行為では――――』

『……いや、冴えた手だな。オレにある程度弾薬を使い切らせることで、辺り一面を吹き飛ばせないようにした。ハッ、流石だぜ。テメーの行動には無駄がねえ。諦めがねえ。……それでこそ、だ』

『言ってる場合なのか……! もし一歩でも間違えば、ハンスは海の中で――……!』

『……そんときゃ、そんときだろ。昔のダチだか知らねえが、あんまりウチの黒犬をナメんなよ。……あれは処刑人だ。一流のな』


 背後の通信を耳で捉えながら、どこまでも青い海中を航行する。

 上昇していく内部温度を認識しつつ、己を機体の一部品としながら――ただ進む。


 時刻――一二:一五。


 交渉は決裂した。

 だが、己のやることは変わらない。ただそれだけだった。

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