第二幕 黒衣の姫君
第32話 新世界より、或いは蠢く鼠の陰謀
両手のその外甲には鋭い流線型のブレード。
胸郭上部の嘴じみた装甲は、傷一つなく太陽を照り返す。
任務――終了。いつもどおりだ。
投降勧告を行い、それを繰り返し、受け入れられないか暇がない場合に撃墜する。
もう、十一月に入っていた。
寒空はコックピット内には無縁で、むしろ流体のガンジリウムを循環させている機体にとってはある程度涼しい方が調子がいい。
【
何故ブレードを使用するか、いくつか理由がある。
一つは補給を極めて必要とせずに継続して戦えること。
もう一つは、連携上の理由。
他に、一対一において一撃必殺のプレッシャーを載せた駆け引きに持ち込めること。
それから――一番大事なことが一つ。
ある程度、時間がかかってしまうものではあるから……その途中で、相手の心変わり――つまり一度断った投降勧告に、改めて応じる余地が出てくることだ。
今回は、そんな事例だった。
「――ノーフェイス1、帰投する」
暗澹たる気持ちとは関わりがあろうがなかろうが、戦いは続く。
自分もまた、ただできることをする――そんな日々に戻っていた。
そして、
「オネスト少尉、今日のご飯はなんだろうか?」
日々の楽しみといえばそれだろう。
人と話すことが――正確に言うと話を聞くことが――好きであったり、或いはコーヒーが好きであったり、愛くるしく愛おしい自由気ままなニャンコ……いや猫を撫でたりすることも幸福ではあるが。
何が一番だと言われると、食事だ。
ちゃんとご飯さえ食べさせて貰えるなら、多分それだけで世界の終わりまで戦えると思う。
自分はだいぶ低燃費な幸福論の持ち主なのだ。きっと。
そうとも。
軍隊が何がいいかといえば……よほどでもない限りは食事が基本的に三食出されることだ。
あの戦争の最中、神の杖によって農地が焼き払われて餓死していく人間もいた。
或いは後期においては
それを思えば、三食を存分に食べられることのなんと嬉しいことだろうか。
かつてマーシュにそう言ったら、手料理を多く出してくれたことがあった。
そのときの彼女の料理は……まあ、味についての言及は控えるとしても、その気持ちが嬉しかった。自分も随分と食べたものだが、彼女も一口食べると逆に文句を言われた。
難しいことだと思う。だがご飯を食べれるのはとても嬉しい。
更に、
「いやー、見てくださいよ大尉……ほらこれ! どうっスか! いやー、貰っちゃいましたよ! こんなに沢山!」
「そうか。有り難いことだ。……貴官には得難い才能があるな。人に好かれる才能が。羨ましいことだ」
フェレナンドは、その両手に沢山の果物を抱えていた。
素晴らしい。
一見したところ、爆発物や毒物も仕掛けられていない。その手の勘に敏い戦友から実地試験的に教えられた――何せこちらの首には懸賞金がかかっていた――が、食べ物にそういうことする奴は駄目だと思う。許されないと思う。お百姓さんに謝ってほしい。
しかしそれにしても両手いっぱいに果物を持ち帰るなど……ああ、なんと素晴らしい部下なのだろう。
ご飯が美味しくなる。偉い。すごい。
「やー、大尉ほどじゃないっすよぉ〜〜〜! でも褒められて嬉しいっス! フェレナンド・オネスト、愛され系男子なんで!」
「……一度でいいから言ってみたいな」
「やー、大尉は愛する系男子だから無理じゃないっスかね。音楽性の違いってやつっスよ」
「そうか。……そうか」
実を言うと男子である以上、ほんのりと興味がなくもなかったりする。いや、戯言だが。
……いやまあ、ほんのりとは。
こういう屈託のない笑顔を浮かべられるのは……羨ましいなあ、と思う。
「うーんこのバカ二人、殴りたいですねぇ……」
エルゼが半眼を向けてくる。
どうにも上官に対して酷いのではないだろうか。
そう、それとなく言い含めると物凄く白い目で見られた。解せない。
なんかあの日、あの喫茶店でマーシュと話をしてからエルゼはちょっと当たりが強くなった。酷い。解せない。
◇ ◆ ◇
料理――ぐっちゃぐちゃにふやけたオートミール。
なんか凄い雑に炒められたほうれん草とコーンのソテー。油でペチョペチョしてる。
ケチャップがドバドバかかって痛めつけられたミートソースとミートボール。ミートとミートが被ってる。
あと、なんかぬるいパックのジュース。
……流石だ、オネスト少尉。
彼がいなければこのお昼ごはん戦線は破綻していただろう。
補給は実際大事だ。古典的な兵学書にも書いてある。
モソモソとそれらを口に入れて――でもお腹いっぱい食べれるのはいいことだ――そして瑞々しい果実を口に運ぶ。
そう、天幕で覆われた簡易的な兵隊食堂でフォークを動かしているところだった。
『この映像が見えますでしょうか。これは、敵味方へ戦闘の中止を呼びかける
娯楽向けに設置されたテレビから流れ出す、あの日の映像。
提供は――軍によるもの。
そう記す映像の端に記されていた。
そのまま映像は幾つものカットが映し出され、
『こちらで都市部の補修を行う白い機体が、シンデレラ・グレイマン准尉です。彼女はこの後も――』
休養中の『アトム・ハート・マザー』目掛けて、デモを隠れ蓑に【
やむなく応戦はしたものの、【フィッチャーの鳥】としてはそれは不本意なものであり、それが故に戦闘中止の呼びかけや都市の保護を優先させた。
だが卑劣なる【
シンデレラ・グレイマンもその内の一人。
……卑劣なる敵は、鹵獲したその【ホワイトスワン】を以ってこちらの士気を挫こうとしてくるかもしれない。このようなテロ行為には、【フィッチャーの鳥】は断固として抵抗と非難を続ける。
要約すれば、そんな内容だ。
軍の……いや、【フィッチャーの鳥】が用意したカバーストーリーというわけだ。
「た、大尉……? あの、手……それ……」
「……ああ、すまない。ぼうっとしていた。……手を洗ってくる」
「う、うす……了解っス、大尉」
思わず、プラスチックのフォークを握り砕いていたらしい。
困ったな、と破片を抜き捨てる。
仮設コンテナみたいなバラックで用意された自分の部屋の、その応急手当道具を求めて土埃の舞う駐留地を歩く。
途中で、自己錬成訓練に昂じる兵士たちとすれ違った。
駆け足中だというのに足を止めて敬礼をしてきた律儀な彼らへ、こちらも敬礼で応じる。
戦争の……後期ほどだろうか。
ある程度、規律も取り戻されてきたとき――それを思わせるようなところだ。
そうして、自室として割り当てれたバラックの階段をのぼる。
郵便受けには――自分向けの電信。
中を開いてみれば、内容は、やはりと言うべきか……予想通りであり、期待外れのものだった。
(調査結果は芳しくなく、か。メイジーの所在は不明、か。歯がゆいな。せめてその居場所さえ判れば――……)
ベッドに腰掛け、紙を封筒に戻す。
電子技術が高度になったことと引き換えに、逆に一定のセキュリティ面の評価を受ける紙の報告書。
少なくない私費を投じているそれは、あの戦争の終結から半年経ったあたりから今まで――同じような文面ばかりを綴って来ていた。
正直なところ、彼女の居場所が判ったところで自分はどうするのだろう――と考えるときはある。
あの戦争当時で十五歳から十六歳のメイジー・ブランシェットは、こちらとの約束により婚約の事実を知らされてはいない筈だ。
そして、ブランシェット博士も戦争の最中に亡くなった。
メイジー・ブランシェットが、こちらとの婚約について知ることはないと――そう思う。
つまり自分と彼女は、戦場で数度機体越しに言葉を交わしただけの戦友とも言い難い関係。
果たして、そんな男が彼女の居場所を突き止めたところで――今更何かすることが正しいのか、と悩みもする。
だが、それはそれとして……。
自分の中の冷静な歯車の部分は、破壊活動や救出活動を行う軍人としての部分はまた――思案する。
それが軍による拘束の場合。
彼女とて前大戦の英雄だ。おそらくはその最上位の英雄だ。仮にも法治国家である以上、手荒な真似はされてはいまいだろうが……。
もしも彼女が
グツグツと腸が煮え借りそうになり、首を振る。
自分は――助けには、行くだろう。間違いなく。そうしたいと思っている。
だが、おそらく感情のままに行ったその日がこの世界の最後になる――腹の中の獣が囁く。そんな世界なら焼き払ってしまっていいんじゃないか?
(ふざけるな。それでは何のためにメイジーが、グレーテルが、俺たちが戦ったのか判らなくなるではないか。……彼女たちの献身の理由を踏みにじるな。そこに懸命に生きる人々を踏みにじるな、獣が)
感情では動かない。動くならば、常に、理性と規範だ。
そして目を瞑って己の中の規範に照らし合わせて――……助けに動くのはやはり是だ、と結論付けた。
婚約者ならば、彼女との関係にはおそらく苦難の際の救助が内包される。恋人や夫婦でも、自分はそうする。
それは国家により生存権が脅かされた際に究極的にそれを主張することにある種近い。
そして非人道的な行為が行われているというなら、やはり、旗の下に誓った市民であり兵士として動く義務と権利がある。そうするべきだ――と。
……恣意的な運用なのだろうか。法と規範の。それも判らない。ただ、そうする程度には――彼女のことを想ってはいた。大戦中、何度も会おうとする程度には。
(……俺は君に会って、謝りたいんだろう。俺が不甲斐ないばかりに――……君を殺人者にさせてしまった。あれだけ、穏やかだった君を鬼神のように……)
或いはそれも、彼女の気高い献身と決意への侮辱に当たるかもしれないが――。
何故だ、と問いかけたくなる。
己に。この世界に。メイジーだけでなく、シンデレラだけでなく、この先も少女を死の走狗にしていく世界に。
多くの人を飲み込んでいく炎に。
戦争、そのものに。
……思えば思うほど、己の中の獣が牙を剥く。焼き尽くしてしまえよ。だってお前にはそれができる。平らにしてしまえ。義務なんて知ったことじゃない、そうだろ?
ああ、そうだろう。だが――それとこれとは関係がない。
その獣に目掛けて、己という剣を突き立てる。彼女たちを想うが故に怒っているならば、なおのことそれを踏み躙る行為へと怒るものだ。律するものだ。
その怒りは、己という剣を砥ぐことへ使え。それだけが、お前も、俺も、納得するただ一つの結論だ。
(……いずれにせよ、なんにせよ、俺はやるべきことをやるだけだ)
義務を果たせ。兵士であるということの義務を――己にそう言い聞かせて、また、機体へと向かう。
散発的に発生している、反連盟運動。
それは
地上での戦闘だ。
あの――前大戦の日々を思い出すような、地上での。
◇ ◆ ◇
その場所は、何かの肚の中のようであった。
まるで血液か、その胎動か。漆黒の滑らかな壁を奔る、幾条もの蒼い明滅光。
電子回路めいて、或いは電脳空間めいて周囲の壁を近未来的な光の筋が駆け巡る船内。
その廊下を――手摺もない橋を二人は歩く。
金髪のヘンリー・アイアンリング特務中尉と、白いスーツのラッド・マウス。
【
「彼らの多くは才に満ち溢れている。人の元来持つそれを巨人の規模に拡張させたかのようなものがアーセナル・コマンドとその
コツコツと足音を立てるラッド・マウスの周囲には幾つもの写真的ホログラム。
ヘンリーも雑誌で見知ったこともある前大戦の英雄と、それ以外の見慣れない人々の写真。
一体何を表しているのか――その白いスーツの周囲を衛星じみて旋回させながら、彼は歩く。
「
ワンオフの専用機など、とても現実的ではない――と人はそう言うだろう。そんなものは、現実を見ない幻想だと。
だが――……。
果たして対一〇〇〇〇機などという現実が罷り通る世界で、量産機を一万機生産するのと、それだけのコストをかけて至高の一機を開発するの。
そのどちらが――より現実的で合理的だろうか。
そう嘯くラッド・マウスは、ホログラムを消してヘンリーに向き合った。
「君は
言われて、ヘンリーはすぐには答えられなかった。
ゴシップの記事でしか知らない。
というよりもそれは、本当にゴシップとして取り扱われる程度のものでしかないのだ。戦場のおとぎ話。
死を呼ぶ沼の鬼火や、機械に不具合を出す小鬼と同列でしかないもの。
だが、目の前の白いスーツの美丈夫は、完全にそれを前提として話を進めていた。
「まず肉体的な接続能力の高さ――彼らの多くは、手に持った道具の殆どを自己の手足の如くに用いれる。これが一つ目だ。中には整備などで才能を発揮する者もいるがね」
指を一つ折る。
その仕草を目で追ってしまう。
それほどまでに、彼の言葉の内容は現実からかけ離れていた――いや、そうだというのに、ヘンリーの脳には男の声が染み込んでくる。
「その性的な接続性能は、今は関係ないから置いておくとして……精神的かつ社会的な接続能力の高さも彼らの特性だろう。残念ながらハンス・グリム・グッドフェローはそうではないのだが――……
そう語る彼こそがその
この男に、おそらく、それは禁句だ。
そう口にした途端に死と苦しみという鼠の群れに喰い荒らされて死ぬ――そんな冷たい予感。
「それらがアーセナル・コマンドの操作においてどのような役に立つかという話だが……結論から言おうか。彼らは、その
わかるかね、と男の青い瞳が問いかけてくる。
判らないのに、曖昧に頷いて返してしまっていた。
それを知ってか知らずか――或いはどちらでも良かったのか。ラッド・マウスは、聡明さを隠さない声色で続けた。
「機体が破壊されたならば、それに合ったバランスを。肉体的や精神的に負担があるならそれに合った調節を。弾丸の反動を受けたときも、戦闘機動のその時も、常にそのときの最適であり最高のパフォーマンスを絶えず発揮し続けられる」
もっとも、優れた
「人並みを外れている。機械でさえも及ばない。……通常の学習型のAIでは行えないことなのだよ、それは」
「……通常の?」
問い返したヘンリーへ、ラッド・マウスは口角を上げた。
まるでこの問答がヘンリーを見決める試験そのものだったとでも言いたげに――或いは、見事に合格したのだと称賛するように。
それとも、そんなヘンリーに声をかけた己自身の聡明さへの、称賛なのだろうか。
「そうだ。そこが彼らを超えることができる点だとも」
頷く彼は、ふと、同じ声色のまま突飛な質問を口にした。
「君は、アーセナル・コマンドを用いた戦争を芸術性のある競技と思うかね?」
「いや……こんなのは……オレにはそうは……」
「そうだ。芸術性はない。そして命懸けである以上は、そこには『これで十分だろう』という制限がある。突き詰めても意味がない点が。特に優れた美しい動きを目指したところで、特に誰の利益にもならないばかりか――実に無駄となるマイナスが」
生と死は、或いは闘争とは合理的なのだと告げるような口ぶり。
ある意味では、ハンス・グリム・グッドフェローに似ていた。彼の教導もまた、合理に根ざしたものであったからだ。
だが違うのだ。
どこか――何かが違う。その違いを探ろうとする己を、ヘンリーは打ち消した。多分、それも、ここでは行ってはならないことの一つだ。
心中で頬を叩き、ラッド・マウスの言葉に集中する。
「これが芸術性のある競技ならば、トップクラスの選手はそれでも己の思う――己の中にしかない理想形を求めるだろう。どこまでも悔しさと共に、己と照らし合わせてそれを追求し続ける。才能の上に努力を重ねて極光を目指す」
努力する天才。
彼の指が空をなぞれば、そのようなホログラム文字が浮かび上がる。
「だが――アーセナル・コマンドの、その優れた
あたかも――ここにはいない誰かの努力を、徒労だと言いたげな口ぶり。
だが、
「そんな徒労を、自分が辿り着けぬかもしれない領域へと己を進み続けさせられるのは
同時にそれは何か、一種の誇らしさを伴った称賛にも聞こえた。
そして、改めてヘンリーに向かい合ったラッド・マウス大佐は、正面からその不敵な出題者の笑顔を向けてきた。
「さて――そうして磨き上げる人間が、もしもここで仮定として――彼ら
「その努力の分だけ、追い越すことができる?」
「ああ、その通りなのだよ。そしてそれは、才が及ばぬからこそ磨き続ける者にも到達できない領域となる――あの、死神ハンス・グリム・グッドフェローに代表されるような連中には、ね」
ヘンリーとて知るハンス・グリム・グッドフェロー。
そして、ヘイゼル・ホーリーホック。
その二人を写したホログラムと、他にもいくつか――それが、ラッド大佐の指の先に浮かび上がる。
「アーセナル・コマンドにおいての彼ら
彼の指が、ホログラムのハンス・グリム・グッドフェローの写真に触れ、それを握り潰す。
それに合わせて、他の面々の写真も消えた。
そして代わりに浮かび上がるホログラム――中に、臍の緒がついた何かの靄が詰まったガラスの小瓶。
彼はそれを指で摘みあげると、ヘンリーの額に目をやった。あたかも、そこが、それの、胎盤となるかの如く。
「常にその身体の状態を把握させ、常にその最適を学習させ続けて――それを機体に反映させるAIがあればいいと思わないかね? 二十四時間三百六十五日――絶やすことなく肉体の特性などの状態を把握するもう一人の自分が」
そして、ヘンリーの額へと彼の人差し指はそれを押し付けた。
無論、ただのホログラムだ。
それはヘンリーの身体に遮られて消えただけで、身体の内に入ったという訳ではない。
だが、なんだろうか。
この怖気は。
まるで内側を侵食され、そこから軟体の赤子が飛び出すような――眉間に瞳めいた産道を抉じ開けるような、そんな気色の悪さは。
「脳に仮想人格を植え付ける。そしてその仮想人格を電気信号へと再変換し、機体に搭乗した際には彼らに管制を担わせる。ああ、無論だが……通常の人間の人格の電気信号化はまだ不可能だ。人格に無駄が多すぎてできないのだ……それができたら戦争が変わるだろうが、ね」
それが気の利いたジョークなのか、緊張を解そうとした雑談なのは判らない。
ただ、
「ヘンリー・アイアンリングくん。君の脳を改造する。……さて、耐えられるかな? 無論、断ってくれても構わないがね」
囁く彼の声は――黒き死を運ぶ鼠の足音にも、或いはそれを導く笛の音にも聞こえた。
◇ ◆ ◇
ある場所で――灰色のコンクリートに覆われた暗い地下室で。
何かを何度も打ち付けるような音と、女の小さな吐息が響いていた。
それは――容赦なく、確実に肉を苛む音。一切の優しさや気遣いとは無縁に、少女を攻めたてる肉体的な負荷。
激しく動くその身体を伝うように汗がほとばしり、一体どれほど続けられているというのか――連日に渡るその責め苦は少女の顔を紅潮させ、何度も何度も胸を上下させる。
生半可な人間では耐えられず、或いは諦めてしまうような肉体的精神的拷問。
特徴的な――片側だけ三つ編みにした茶髪が、身体の動きに合わせて跳ねる。
かつては癖があり、今は縮毛して切り揃えたセミロングの髪は――それでも毛先を肩の辺りで丸めて、そこを汗でしとどに濡らしていた。
少女の名は、メイジー・ブランシェット。
戦後、軍により軟禁された彼女は……年若く華奢な女性であるというのに、連日連夜その拷問的な扱いを強いられていた。
そう――鎖で吊られたサンドバッグの前で。
他でもない彼女自身によって。
「ねえ、どうですか! だいぶ仕上がって来てませんか!」
ベアナックルに近い感触を与えられる、ボクシンググローブよりも薄手のグローブを身に着けた白いTシャツにジャージ姿の彼女は、実に爽やかな笑みで背後を振り返った。
そこにはやはり、爽やかな笑み。
そして爽やかな筋肉。だいぶ可哀想なタキシード。
緑目黒髪、浅黒い肌の――エキゾチックな魅力を浮かべた甘いマスク。それと、その下のあまりに図抜けた逆三角形誇る岩の如き肉体。
「はっはっはっ、勿論ですとも、レディ。怒りを拳に込めるのです。ええ、理不尽への怒りは強い力になる――つまりそれは筋肉なれば! 筋肉とは即ち、重力への怒り! 怒りは強い! ははは、完璧な理屈ですとも!」
「ああ、うん、ハイ……」
完全に東洋の神秘系の王子様みたいな顔してるのに肉体がボディビルダーなのには理由があるのだろう。人間性に身体が追いついてしまったせいのあれだ。
流石は戦場でも無手で敵を屠っていた病的な筋金入りのマッスル・オブ・マッスル、ソルジャー・オブ・マッスル、マッスル・オブ・ソルジャーの兵士。
撃墜数――
かつて病弱で、常に入退院を繰り返していたと彼が語るのは大嘘としか思えない巨躯にして頑健なる肉体。それをまさに機体に反映させたコミックから抜け出たきた爽やか笑顔のマッスル王子様。首が顔よりも太い。
ユーレ・グライフ。
本名をイリヤー・ペトロヴィチ・ゴーリキー。
戦後、傭兵を務めている彼は今や、メイジーのボディビルダ……ではなくボディガードであり、そして、師匠だ。
師匠?
……そう、理由など決まっていよう。
小さく息を吐いて、小刻みにステップ。
メイジーの蒼き瞳が狙うのはサンドバッグ――そしてそこに貼り付けられた、自分の兄と写真を撮った今思えば超貴重な同一人物とは思えなかったハニカミ顔のあの男である。
腹の底から一息。
いざ、解き放つは業炎の左の
「あんなに! 手紙でも! アプローチを! させて!」
右肘打ち! 両手突き! 喉へ手刀! 腹へ貫手!
父親がうっかり口を滑らせた婚約者。
淡い初恋の人がいるから――と断ろうとしたら、その相手が彼で。
というかいくらねだっても写真の一つも送ってこないのに! 兄であるマクシミリアンには貴重なハニカミ顔を向けて! おかげで初対面で気付かなかったよ!
「ずっとずっとずっとずっと好きなのに! 全然全然全然全然迎えに来なくて! いつまでも軍人してて!」
笑い顔さえ憎らしい! でも好き! というか笑え! なんで兄にそれを向けてんですかこのホモ! ホモサピエンス!
そいつは婚約者の兄であってあなたの婚約者ではないんですが! なんか間違えてませんか! いや危うくなんか間違えそうになったのはこっちだよ! 乙女の進化の道とか!
「戦ってる最中に遠回しに告ったのに多分聞いてなくて! いや遠回し過ぎて気付いてないんでしょうね! あとなんかこう、なんかこう! 辛気臭い顔するときあって!」
左前蹴り! 右蹴り上げ! 左前蹴り!
「みんなの事好きな癖に! シャイで! 他人への好意をそんなに口に出さないし! 手紙ではお喋りなのになんかムスッとしてるし! 天然ボケだし! かわいいし!」
飛び膝! もういっちょ飛び膝! 右回し蹴り!
「手料理いつまでも食べさせられないし! いっぱい伝えたいことあるのに戦いだから喋ってられないし! その癖毎回こっちを庇って! いちいち王子様ムーブするし!」
なーーーーにが大丈夫かメイジーだ! あなたのせいで心臓が痛くて死にそうなんですが??? 死因が味方なんですが??? 死因が婚約者なんですが???
内部破壊か??? 防御無視か???
味方殺しか??? ……あっごめん言い過ぎた。でも好きって言ったのは聞いときなさいよ。ナメてんのか。
クッソこのナチュラルボーンいいときだけ的確に王子様行動野郎! 乙女心の天敵! つまりは人類半分の天敵! というか女の敵なら人類種の天敵だよもう! この精神的未亡人製造機!
「忙しいからすぐどっかに行くし! こっちも馬鹿みたいに忙しいし! 全然会えないし! 終わったらいなくなってるし! 人より遅く来たのに早く帰るし!」
済まないが帰還するじゃねえよ私も連れてきなさいよ! そこに二人のお家を建てるんですよおう! あの男! あの男! クソッ! 死んだ目も魅力的だ! 目みたいに死なせてなんてやらないからな!
許せない! もて遊びおって! もて遊びおって!
こっちは他の男にアプローチされても断ってきたんですが? 断りましたが? 揺らいでるときに限って誰かさんがタイミングよく助けに来るせいですが?
このままでは二十歳を迎えますが? 誰かさんのせいで? 誰かさんが乙女心を破壊したせいで修道女が生まれますが?
そんなに神様が好きか? 祈らせてやろうか? 会わせてやろうか? クッソ神の前に誓えよ婚姻をさあ!
「乙女の純情を弄んで……絶対に! 私が! イイのを一発キメてやるんだから――――!」
頭突きを一撃。
凄まじい音を立てて、サンドバッグが吹き飛んだ。物理的に。転がって壁にぶつかった。
別に超パワーではない。やることがないから毎日毎日サンドバッグを殴っていたら鎖の方が根を上げただけだ。根性なしめ。少しはハンス・グリム・グッドフェローを見習うべきだと思う。好き。
四年間磨き続けた自慢の拳だ。メイジー・ブランシェットに隙はなかった。(好きはいっぱいある)(娶れ)(責任から逃げるなハンス・グリム・グッドフェロー)(いっぱい家族作れ)(ラグビーチームぐらい作れ)
なおそのとき、ハンス・グリム・グッドフェローは凄まじい悪寒を感じて、それを直すべく――つまりは栄養を取るべく、サークリングもちょもちょを一心不乱に喰い漁っていた。
これが――
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