第29話 首輪付きの獣、或いは怒りの聖者
空から再び神を冠する星が落ち、或いは輝ける乙女が流星となったその瞬間。
無限に積み重なった鋼の残骸の山。死体の山。
やがて収まりつつあった燃え盛る炎と吐き出される黒き煙。砕けた灰色の構造物と、様々な思惑から無傷に近く残った巨大なクジラの如き長く大きい発射台。
戦いの舞台となったその巨大な浮き島の都市に、生者は一人とて存在しなかった。
動くものは六つ。
炎の中、鋼鉄の亡霊が、六つ。
生き残りの死者の六人たちは、ただ、佇んでいた。
黒き騎士の霊の名を冠する、統一性がありながらも一体一体の形が異なり一つとて同じ姿を持たない鋼の騎士たち。
頭が半壊した機体、或いは手足の大半を失った機体。
装甲の多くが砕けて中身を剥き出しにした機体。
背負った武装という武装が破裂した機体。
その中でも二つ、身体に傷らしい傷を持たない騎士の姿があった。
他よりも少しは上等で細身の鎧の、そして赤いフードとシャッターバイザーめいた頭部を持つ白き狩人と。
その辺りに倒れた残骸たちと何の代わり映えもしない銃鉄色の鎧を纏った鋼鉄の騎士。
死地において死を拒絶した二振りの機影。
一人は泥を見た。一人は星を見た。
本当にその六つ以外――誰も生き残らなかった。
敵も、味方も。
軍人も、民間人も。
きっとここで生者であったのは、単身、星になった一人の乙女だけだったのだろう。
燃えていた。全てが。
炎の中に、消えていた。全ての命が。
そんな戦いの前であったか、後であったか。
連盟政府の生き残りの高官だかが乗っていたという航空機の護衛を務め、特に普段通りで語ることもないよくある戦いを一つ終え、たかが一兵士としてなんてことのない任務を遂げたあとに――……。
街中で、地図を片手にした夫婦とその一人娘に出会った。
にこやかで気概に溢れた貞淑な妻と、正しく誇り高く鷹揚なこうあるべき貴族のような典型の夫。
であるのに風変わりに、人の目線を気にしてか、露出の少ない服装で身体を幾重にも隠して黒いフードを目深に被った一人娘。
それぐらいしか取り立てて言及することもない、きっとどこにでもありふれた――それでいて久しく遠ざかっていた日常のような、珍しくもない道案内。
だというのに、
『……ねえ、貴方。痛いの?』
顔も碌に伺えない少女から、そう頬へと白い手を――ピアノを奏でるための細い指を伸ばされたのは。
◇ ◆ ◇
帰還した船の内の雰囲気は重苦しく、そして、狂気的だった。
己たちの今後を案じて不安がる者、或いは己たちこそが正義であると戦場の狂気に呑まれた者。
或いは、市街へと展開していたために減圧と戦闘の被害を直接的に受けてしまった生身の陸戦隊。
そんな仲間への仕打ちに憤る者や、目の当たりにした光景に塞ぎ込む者、銃から手を離さずに目をギラつかせる者、笑い続ける者、己が正義だと縋りたがる者――……。
よく見た光景だ。
幾度と見た、あの戦争でも見た光景だ。
自分の部下二人――正しくは年若い上司ともっと年若い部下だろうか。その二人は憤り悲しむか、或いはただ目を伏せるかの反応だった。
「案ずるな。貴官たちには、被害は及ばない」
そう微笑みかけると、その二人は不思議と、もっと地獄の苦境の内にいるような顔をした。
涙を堪えきれずに泣きながら怒りを叫ぶ少女と、食い縛った歯から静かに憤懣を漏らす青年。
他に比べれば――比較的、精神状態はいいのだろうか。それでも精神的なショックは見られる。
恐らく彼らも含め、この船の兵士たちの概ねの総意は一つだっただろう。
ただ、とても彼らが冷静な話し合いにお呼べるとは思わない。激昂か狂気か、ともすると艦内での撃ち合いに発展しかねない由々しき事態だ。
「上奏は指揮系統に応じて行われる。つまり、この中なら、指揮官であった俺が行うのが妥当だ。そう規定で定められている。大丈夫だ、何とかしてみる」
「だとしても、大尉――――!」
軽く一瞥すれば、冷静さを取り戻してくれたのか金髪の少女は息を止めて続きを唱えなくなった。
俯きがちの金髪の青年は、言葉をかける必要もなく道を譲ってくれた。
その真横を通り抜け、規定されている通りに許された範囲の早足で、規定されている通りの入室要領で上官の部屋へと足を踏み入れた。
その上官に命ぜられたであろう護衛的に艦長室を固める職務意識の強い兵たちも、特に激しい会話もなく道を譲ってくれていた。
「民間居住地を狙った正当性のない戦闘行為は、統一軍事法典の第140条における重大な軍紀違反だ。同法第141条の非軍事施設への攻撃にも当たるだろう。小官には居住地が【
艦長室で居丈高に座っていた上官へ、担当直入に切り出した。
言うまでもないことだが――先の戦闘は、三つの観点から非常に疑義に問われるものである。
「……一つ目、これが第141条の構成要件から外れる『正当なる被害に当たるかどうか』という問題だ」
艦長が主張した敵の本拠地であるという言葉だが――確かに事実として、敵が市街地を本拠地にしている場合については、その上での市民を巻き込んだ軍事的な行動も正当なる被害と認められ得る。
ただしその際には、誰の目から見ても明らかである敵の根拠地であるという証拠が必要だ。
決して、何となくそう思ったから戦闘をしてみたら敵が来たので倒しました――では、不十分だ。
敵方にも防衛の意識があるため、或いは攻撃の意識があるため、周囲に展開していたこちらに対して、根拠地でないのに偶発的な戦闘に発展したという可能性があり得るからだ。
無論、そこでの応戦や戦闘を指して正当でない――と呼んでいてはあらゆる軍事的な行動が立ち行かなくなる。
基本的にはその辺りは鷹揚に、ある種の軍事的な寛容を以って――本来の形而上学的な理念的には黒であるが――慣習的には、罪に問われない場合が多い。
ただし、悪質な……。
つまり、そこが敵根拠地の確信がない状態で、民間人を巻き込んだ戦闘に発展するという未必の故意を有しながら、恣意的に戦闘を勃発させた――釣り出したという際に、この寛容が認められる傾向にはない。
無論、最急的にはそれを判断するのは法廷だ。
ただし理念的にも、慣習的にも、判例的にも、これは不当なる被害だ――――と認められることが多いものだった。
先にも言った通り、兵とは、ただ実行者であるだけではならない。
事実、戦争犯罪法廷及び軍事法廷では人道に対する罪はその命令者と実行者の責を問うものである。唯々諾々と虐殺者になった兵士は、良識と兵の根源的な理念に基づき裁かれる。
これが一つ目の理由。
「……二つ目は、この
戦闘そのものも然ることながら、彼らを巻き込む形での半球ドームの崩壊を引き起こしたというのが、そしてその保護行動を全く行わなかったのが、彼らへの加害として未必の故意を有すると考えられてしまうのならば。
それはやはり、戦時国際法に抵触する。
それらに呼応させるための交戦規定及び、統一軍事法典の第141条での非軍事施設への攻撃に当たる可能性は極めて高い。
そしてこのような
これら二つが合わさると、極めて危険だ。
「……そして三つ目。兵士たるものの義務と意義――その長期的な益と士気の観点からの話だ。友軍が……貴官の部下が展開している状況で、その部下への被害が考えられる攻撃を実行した……つまり、この件について、士官としての不適格行動に当たらないかという点だ」
捕虜となった友軍を犠牲を問わず救出する。
必ず戦地で孤立した味方の救援に応ずる。
その作戦行動はときに救援を行うことによる被害が、救出対象を救うことで得られる益よりも多くなる。救助のために数個の部隊が壊滅したという話すら存在している。
一見しては軍事的な合理性を欠く行為だ。
しかしこれは、『たとえ戦地で囚われることがあったとしても軍と仲間は決して自分を見捨てない』という勇気を兵に与え、その士気を保つ。
勿論その感情的に仲間のことを助けたいというのと同様に――生を保証させることで強き死の内でも動作するように仕立て上げるという理性がある。
先の攻撃は、それに反する行為だ。
「またしても兵に知らせずして、偽りの指令を出して部隊を展開させて、兵を撒き餌にする。そして戦闘においては生身の陸戦隊の撤退を待たずに開始され、事実として被害を出す。……これでどのように士気が保たれるのか。この部隊にはそんな特別な訓練や規範が存在しているのか、確認したい」
それが軍事的な成果という公と同時に、何よりも己の名誉が欲しいという私事から為されたというならば――最早それは士官不適格行動としても訴えられうる問題だった。
「くどいぞ、グリム・グッドフェロー大尉。いつまでも済んだことを女々しく……そんなに私の手柄を認めたくないのかね? あれは正当なる軍事的な行動だ。そう、間違いないのだよ」
「貴官はあれが正当な被害だと、そう仰せか」
「そうだ! あれは慣習として――」
「……あの場では緊急性が高く暇がないため議論は避けたが。通常であれば、極めて違法になる可能性が高い。少なくとも三件目については、それが元で処分された事例にも事欠かない。……であれば士官としてはその予期から、避けることを推奨される事態だ」
兵は勝手な判断で動いてはならない。
だが、士官はまた別だ。
そのために高度な指揮官たるものの教育を受ける。兵が手足とするならば、士官は触覚を持ち考えて動ける手足であることが軍からは求められている。
「これから先の三点――……その詳細な疑義の内容をお伝えする。それぞれ如何なる軍事的な合理性があったのか、如何に適法であるのか、どうか説明を願いたい。部下たちにも、艦内にも、説明の必要がある」
少なくともこの目の前の士官が何某かの軍事的な合理性に基づいている――つまりは。
敵の根拠地であったという確定的な証拠を持つという、そのことを求めていた。
それさえあれば、確かに、法廷での争いとしてしまえばあとは彼らの判断と――
「うるさい、平兵士が! 我々は【フィッチャーの鳥】だ! そんなものはどうとでもなる! 必要ならば、奴らの側から撃ったことに仕立て上げればいいだけだ!」
「――」
思わず、絶句した。
まさか、釣り出したと言いながら、攻撃を加えたのはこちら側からだとは。
それは――本当に敵機に対してだったのか。
敵機が現れたから、正当に軍事行動を行ったという、そんな条件すらも満たしていなかったというのか。
「それに貴様もその戦闘行為の実行者だろう! 残念だったな、グリム・グッドフェロー! 処分になるとすれば貴様もなのだよ! この英雄気取りの前線狂いが! 自分の立場を考えてものを話せ! 貴様も同罪だ!」
「そうか、俺も裁かれるか」
得意げにこちらを指差す艦長へ、静かに口を開く。
「だが――それとこれとに何の関係がある?」
言えば彼は、指差すそのままに停止した。
「俺が然るべき裁きを受けるのならば、それも妥当だろう。そう追求されるのであれば、俺としても認めるところだ」
「な――」
「しかし、俺が裁かれることと……俺がこの場で貴官に問い質すことの間に、一体何の因果関係がある?」
いつかも確かそんなことを言われたと、ふと思った。
お前も同じことをしたのだから、もう同じ罪人だ。
なるほど、確かにそれはある種の道理だろう。それが同罪になるという法に照らし合わせてそう扱われるならばそうであるし、或いは他人の価値観においてそう思っているならそれは不可侵だ。個々人の内面は自由だから。
だが、だとしても、それとこれとに一体何の関係があるというのか。
「……狂人め! 我が身が惜しくないのか!? 貴様は前線狂いの狂人だ!」
「そうか。どう思うか、感じ方はそれぞれだろう。否定はすまい。ただ付け加えるとしたら、俺も人並みに我が身惜しさはあるとしても――」
周囲の人間、この世界の既に死したる父母。己自身の目指すこと。
それを思えば、そんな汚名を着せられたくはないと――確かに心からそうは思う。
だが、
「やはり、それとこれとに何の関係がある?」
それは己の私情であり、公のものとは関連性がない。
公のために死ぬか死なぬか、いつだって公を重んじるべきである――自分はそんな大それた気概もなければ意気もない。権威主義者でもなければ、自己犠牲精神に溢れる殊勝な男でもない。
ただ己は契約をした。
己が誓った想いを胸に、その手段として兵を志して軍に入り、対価として戦う力を手に入れ、そして彼らと自分は契約を交わした。
受け取ったなら、返さねばならない――。
ただそれだけの定理だ。法と鉄と血の盟約だ。
契約だ。そこを損ねてしまっては、筋が通らない。
「この……忌々しい殺人機械が! 狂った従者が!」
「狂った、というなら今の貴官の顔がまさしくそれだが……いや、言うまい。忘れてくれ。他人の容姿に関してはハラスメントに当たるか。失言だった」
「〜〜〜〜〜〜〜〜っ」
苛立った艦長が机を殴りつけた。
……あまり好ましくない人物とはいえ、彼にもやはり戦闘によるストレス反応が見られる。元となる人物をあまり知らないが、こうも高圧的で暴力的なのは多少なりともショック症状だろうか。
ああ――と、思う。
自分が公人だとか、機械だとか、そんなものは誤解だ。誤解が多い。
(……己の内なる願いと公の利益が同じであるから、多分、己は公の秩序に従っている。自分の中の善なるものと今の秩序が重んじるものが、極めて近似であるからだ)
思考を止めて機械になった訳ではない。
ただ感情と、それに基づいた己の理性が、秩序とそれが護りたるものを良しと心から思っていて――そして互いの取り決めを守ろうとしているから、己はここにいる。
連綿と続く人類史のその中で育まれた普遍的な善の価値観。
それと己のそれは同じだ。
自分は心からそれを尊びたいと思っていて、そして、その過去と未来の普遍的な善なる観念を守るための今の秩序であるからだ。
(どうにも誤解をされるのは、何故なのだろうな)
少しばかり悲しくはなるが、まあ、今は別にいい。
ゆっくりと胸の辺りに手を当て、艦長に告げた。
「貴官の言葉に……二つほど、訂正するとしよう」
「……なに?」
「俺はあの時、オープンチャンネルにて呼びかけた。つまりあの場の誰しもが俺の抗命を知るところであり、そして貴官からの不当なる脅迫についての証拠もまた残っている」
仮にあの軍事行動が正当であるとしても――それならそれで周りの兵たちのために望ましいものでもあるだろう――ただし、やはりと言うべきか。
彼の行為は、明白なる脅迫行為だった。
それ自体が、有形無形を問わず不利益となってしまう程度には。
「二つ目。言い忘れたが、今の会話は録音されている。……然るべき部署に然るべき方法で届けられる。俺と貴官への沙汰は追って下されるだろう」
他の兵士ならば、或いは彼を後ろから撃ったかもしれないが……。
己はそうはしない。
秩序と善に基づき、それを心地よいと想い、そして規範的な兵士として市民として振る舞うと決めているからだ。
彼の言葉に従うなら――つまり【フィッチャーの鳥】がそんなものをも握り潰せるというなら――それでも構わない。
ただ、自分は正当なる行動を行った。
そしてこれは、悪い言い方をすれば……同時に自己と部下の保身が叶うものだ。たとえ【フィッチャーの鳥】がその権威を失い、後に裁かれることになったとしても。
こういうやり方は、多分、マーガレット・ワイズマンに学んだ。
正義を為すために力が必要であり、そして正義を為すだけでは貫けないものがあるとしても、ならばやはり正義を貫くべきである――と。
自分は正義ではない。
彼女のように己を流星に変えてしまった輝ける永遠の騎士ではなく、単なる兵士で市民だ。
だとしても、その本分を守ろうと思う。そう己が定め、そしてそのことで守りたいものが――生者があるからだ。
「きっ、貴様ぁ! 反逆するか! ふざけるなっ、それを渡せ! 今すぐに渡せ!」
「……そう慌てるのは、貴官こそこれが秩序に対する反逆と理解するが故か? ……まさか自覚はあったとは、感嘆した」
「〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜ッッッ」
彼が椅子から立ち上がり、銃を向ける。
拳銃の銃口はこちらの頭部を捉えている。撃たれれば死ぬだろう。そのことに恐怖すべきであるが――
「撃てばいい。俺は大憲章に基づく正当なる防衛として貴官に応戦する。……試してみるか、俺と早撃ちを」
生憎と――備えている。
積んである。必要な鍛錬は。
彼が引き金を引くよりも早く抜き撃ち、確実に絶命させられる。それだけの自信を生む程度の訓練は積み、そして実際に成果もある。
ある研究理論であるが――人間は自発的に行動する速度より、何かに反応して行動する速度の方が速い。
実際に試験を行ったところ、訓練のない人間で平均して〇・〇二秒ほど、反応応射の方が速度に優れるという結果が出たらしい。
そして自分は、意図的にそれを高めた。明確なる人体の科学的な理屈に基づき、それを高めるだけの訓練を行った。
だから己のような小市民でも銃口に怯えない。ただそれだけだ。
「きっ、貴様! 私を誰だと思っている。私はジャマ――」
「俺は誰であっても同じ行動をするが。……貴官は、法の下の平等をご存知ないのか?」
「っ、っ、〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜ッ」
カチリと、引き金が音を立てた。
撃鉄が持ち上がり――それを睨む。その瞬間を。
しかし弾が出ることも、どちらかが死ぬこともなかった。
男は顔を真っ赤にしながらも、それでも引き金を落とし切らずに留まったらしい。
喜ばしいことだ。人命は尊い。それがどんなものでも、無為に失われていいはずがないのだから。
「それでは必要な事項は確認できたので、失礼する」
踵を返し、部屋を後にしようとする。
その時だった。
「軍人ならば命令に従え……たかが兵士風情が……私に逆らうなど……! 私は艦長だ! 命令に従え! 貴様も、他の連中のように! 軍人ならば、命令に!」
「職務上で、それが正当なものならば」
「黙れ! 死んだからなんだというのだ! どうせ貴様ら人を殺すしかない能がない食い詰めのクズ共と、ただ守られるしかないうるさいだけのカスの市民どもが――」
ああ――……。
「ふざけるのも大概にしろ」
すまない、と詫びる。
すまないマーシュ。すまないヘイゼル。すまないヘンリー。すまないシンデレラ。
そしてすまない、マーガレット――――自分はどうも、君のようにはいかないらしい。
ああ、判っている。
判っていた――――判っていたのだ。
「……何故軍人が命令に従うか、ご存知か」
「それが軍隊というものだ! 兵が個々人で動いていたら行えるものも行えなくなるだろう!」
「そうだ。貴官の言うとおりだ。あくまでもその判断は、職務と職責の範囲において裁量を許可される……それが兵士だ」
一歩、踏み出す。
「では何故軍隊が存在するかご存知か?」
口を開く。
相手は応じない。すぐには答えられなかった。
ああ――――駄目だ。限界だ。
かつて一度出会っただけの年若い少女の声がリフレインする――〈痛いの、貴方? ずっと悲しそうよ〉。
頬に伸ばされる白い指。
静かな声――〈怒っているわ。貴方、ずっと怒っている〉〈見続けて、痛くて、優しくて、悲しくて、怒ってしまっているわ〉〈ねえ、泣き止んで優しい
そうだ。
俺は、ずっと、怒っている。
「仮にも佐官ならば大憲章の記載を暗唱しろ! 貴様の肩の星は何のためにある! 士官教育はどうした! その寝ぼけ眼は女の尻でも追いかけていたのか! それで下士官に何の垂範を行うのだ!」
こちらの怒声に佐官が反射的には背筋を伸ばした。
これほどの声は、かつて教官として出向した際も張り上げた覚えはなかった。
「私は連盟旗と、それが象徴する万民のための自由と博愛と正義のために、その複数からなり大いなる一つとなった地域とその市民の独立と繁栄のため、その法の下へ、今ここに万民と神の御前にて、兵士としてその偽らざる献身と忠誠を誓います――……つまり、市民とその理念を守るためだ」
そうだ。
誓ったのだ。
嘘偽りなく己の内にある善と、嘘偽りなくこれまで歴史が作り上げてきた普遍的な善。
それを前に、己は誓ったのだ。
「もう一度問いかけるが、貴官は、あれが、大憲章や条例に恥じることのない正当な被害だと――……その肩の星に従って誓えるか! 民と連盟国土を守る兵士として! 死者に誓えるか! 散っていった全ての死者と、彼らが歩むべき道を作る全ての生者に!」
ならば、果たさねばならない。
ただ公のための思考停止ではない。
そうすべきだと誓った己と、誓約と、それが故の公のために――己は果たさねばならない。
「俺を見ろ……いいか、俺の目をよく見ろ。見るんだ」
薄汚れた男の茶色の瞳を、正面から見据える。
「……俺が何故法令や命令に従うかも、教えておく」
金言――義務を果たせ。兵士であるということの義務を。
それ以外、お前には、俺には、求められていない。
そうだ。それ以外は求めていない。求められていない。求めてなどならない。
何故なら――
「そうしないと怒りでどうにかなりそうだからだ。俺は怒っている。ずっと怒っている。すべてを斬り捨ててしまいたいぐらいなんだ。民間人を巻き込み、少女を殺人者にさせ、挙げ句これが必要な死だと宣うものに――――この世界の何もかもに俺は怒っている」
自覚があった。
自分のうちに潜む膨大なる怒りの獣。唸り上げる狼。既に制御は不能だ。
規範という己の首輪を解いた瞬間きっとそれは暴れ出す――
「俺個人の感情で動き出したその日には、おそらく遠からずなんの歯止めも効かなくなる。だから俺は、俺個人の感情では行動しない。勝手な判断では行動しない。そうしたら最後なのだと言い聞かせている。兵士の義務を果たせ――と。生者が死者の橋を架ける――彼らを虐殺者を生かした人間になどさせるなと」
もう既に一度怒りを表層に出したためか、餌を与えられたその獣は牙を剥いていた。
愉しそうに――悲しそうに。
笑いながら、泣きながら、吠えながら、唸りながら、手綱を放される瞬間を待ち望んでいる。
焼き尽くせ――お前にはそれができる。お前の有用性はここでも使えるのだと。きっとそのために磨いていたのだと。
それをねじ伏せる。
お前の怒りの日は来ない――俺が来させない。
俺の中の怒りであるお前へ、俺はお前への怒りである首輪をつけている。
お前が焼き尽くすであろう人々のその死を考えただけで脳を煮え滾る怒りを――お前自身でもある怒りを以って首輪と成している。
「それが……だっ、だからどうしたと言うのかね!」
汗を浮かべたその男へ、告げる。
「俺は命令だから従っているのではなく、俺が従うべきだと決めたから従っている……俺に首輪があるというなら、首輪の意味を履き違えるな。法の道理に悖るというなら、俺はそれを命令とすら判断しなくなるぞ……俺が完全にただ感情で動くということだ。あらゆる敵と味方と万民に向けて。対一億機の俺が! 殺しだけが上手くなってしまった俺が!」
「きょ、脅迫しようと言うのかね! たかが一兵士が! 上官を!」
「これを脅迫だと言うなら――」
反射的、だった。
「――貴様が先ほどグレイマン准尉とアイアンリング特務中尉に行ったものはなんだ! 答えてみろ、ウジの糞にも劣る便所の腑抜けコウモリが!」
反射的に、男が向かうその机に目掛けて前蹴りを打ち込んでいた。
壁と机に挟まれた男が奇妙な声を上げた。何がが折れるような音がしたが、構わない。
己の中の獣が檻から飛び出さんばかりの勢いで喜びを唸っていた――うるさい、黙れ。
それを押し込めて机に身を乗り出し、男の胸倉を掴み上げる。
「いいか、良く聞け。良く聞けお嬢さん。貴様の淫売のママが教えてくれなかったことだ……貴様がその四足椅子の上にブタのプールを広げていたとき、俺達はどこにいたと思う? 俺達はどこで何をしていたと思う? 俺たちはどこにいたんだ! 答えてみろ……答えろ!」
焼けた街を指差せば怯えて首を振る、男の青褪めたその顔面。
平手打ちする。怯え声。その胸倉を両手で掴み上げる。
「答えろ、タマ無しドブネズミめ! 貴様の口は糞をひり出すことと上司の股間の銃をしゃぶるしか能がないのか! どうした、この二枚舌の便所雑巾の親戚が! 吐けるのは吐瀉物だけか!」
揺さぶり、その後頭部を壁に打ち付ける。
「どうした、言ってみろ! この糞の出る口の穴をイジって一人で喜ぶ変態おもちゃ箱め。上と下から小便を漏らすしか脳がないのか!」
睨みつければ首を振った。
当然だ――暴力を向けられた人が反抗できる訳がないというその思いと、同じだけ湧き上がる――たった先程それを考えなしで他人に行使していたのはこの男だという侮蔑。
指を全て切り取り、その穴という穴に詰め込んでから寸刻みにしてやろうか。
決して簡単に殺しはせず凌遅刑で苦しめてやろうか――命を奪われた彼らの痛みの一万分の一ほどでも!
いいや違う。抑えろ。己の中の首輪を絞めろ――強く。
「答えるといい。貴様の物知りパパの尻の穴に聞いても教えてもらえないぞ、このおしゃぶりアヒルの精液豚野郎」
怒りの獣だ。
理解している。かつて戦地で少女や童女を陵辱し、その父母を殺害した戦友の所業を目の当たりにしたときも。
人々を地表ごと吹き飛ばした
新型機欲しさに市街地で銃を放つクソどもにも。
兵士の躯を踏みにじって嗤うイカレ野郎にも。
俺はずっと怒っている。
貴様のその都合のいい片天秤へ怒っている。容易く人の命を奪える想像力のなさに怒っている――こびりつくほどに、何もかもへと怒っている。
職務においては確実にそれを切り離したと自認する。
執拗なまでに義務を満たし、絶対に私情で動かないと縛り付け、その憤怒とは別の使命感と義務感と合理性で――全く人として恥じることのない行動をしたと自認している。
だが、駄目だ。
いくら切り離しても、駄目だ。
「楽しいか……暴力が。こんなものが! それを他人に振るって楽しいか! 俺はただ不快でしかない……貴様も、連中も、こんなものも、何もかもがだ!」
だが、だからこそ――規範という首輪を付けた。
決してこの私情で私刑などを行わぬように。
間違いなく全ての任務を侮蔑や激情は抜きに、ただそうあれと執行できるように――。
「貴様は望み通り新兵からのやり直しだ、この飛び級不能野郎! たっぷりとかわいがってやるぞ……いいか、二度と泣いたり笑ったりできなくしてやる。貴様のような輩には誰様それ様なんて上等な名前は必要ない! 名字がただのシラミ! そしてその排泄物だ! その口から上等な屁をひり出す暇があったら、ブサイクなその面の皮を玄関マットに改名してこい!」
掴んだ胸倉より手を離し、深く息を吐く。
こんなものなどどこまでも気色の悪い感触だ。いつだってただ――本当に心地が悪い。
……ああ。そうだ。そうあらねば。
怒りは向けるならばただ己にのみだ。全てを、剣を砥ぐことに繋げ。己という剣を砥ぐことに。それだけに。
あとは些事だ。こんなことをしたところで余計に気分が悪くなり――……たた無意味だ。
「こっ、こんなことをして……上、上官にこんなことをして……貴様っ……貴様ぁ……! 私を、私を誰だと……」
「発言は不動の姿勢で行え。下の蛇口の制御もできない、股間を触るしかない能無しが」
腹の底から息を吐く――……。
心中の刃で、檻にかけたその指を刎ねて獣を押し込める。そうだ。……やはりこのようなものを許してはならない。断じて。判っている。
マーガレット・ワイズマンや、全ての兵士。
彼らが行った献身の果てが、こんな獣の怒りを育てて世界を焼き尽くすなどであっていい筈がない。
ただ生きようとするだけの人々を害していい筈がない。
そんなものは、何よりも俺自身が望まない。そんな結末がこの世にあっていい筈がない。
故に押し込めている。
自分が死ぬ最期のその日まで――己が愛しているものを傷付けようとするこの怒りの獣に対する怒りの首輪で。
人を守ると。
俺がそうすべきだと、思ったから。
だというのにこれは――……ああ、本当に救えない。
だが、それすらもどうでも良くなりつつあった。
暴力を行って気が晴れたからではない。怒りが強まれば強まるほど、怒りそれ自体が膨らむその獣のより強い首輪となるからだ。
獣と首輪は一体だ。
瞬間的に切り替わる。――冷静に。沈降するように。
自分にとって命令に従うこととは、その、切り離しの訓練の意味もあった。
どれだけの私情があろうとも。
それによらずに動けるだけの自分に――そう己を磨く研鑽として。
(……それも、無為か)
何が理性だ。笑わせる。
一皮剥いた自分は、己の鋼で溶鉱炉に蓋をしているだけの下劣な人間にすぎない。非文明的な野蛮人にしかすぎない。
かつての少女に問いかけたくなる。
――自分が優しい? 何を指してそう思う。
優しい人間は人など殺さない。優しい人間は怒りで人を傷付けない。優しい人間がこんな暴力に頼る筈がない。
こんなにも救いようがないものを優しいと呼ぶなど――あらゆる人たちに対しての侮辱でしかない。
湯気を立たせて失禁した艦長は、心底怯えた目でこちらを見ていた。
彼がどんな処分を下されるか知ったところではないが、今の暴力行為に対してで自分は間違いなく処分されるだろう。
それでも――。
それでもまだ、職務を果たすべきだ。
いくら間違えようとも、目指すことをやめるなとマーガレット・ワイズマンにそう言われた。
ならば、
「……俺が何故、首斬判事と呼ばれているか知っているか?」
ああ、と退室前に付け加える。
もしも【フィッチャーの鳥】がいずれ敗残者となったなら。
或いは敗残者とならずとも。
自分はどこかで、ある役目を遂げることになるだろう――慣れた役目を。
かつての大戦での忌まわしい名前。
味方も敵も、その尽くを殺害した断頭台である己の名前。
「二十五件だ」
どの罪状も覚えている。
殺したからではなく、嫌悪感を覚え――そしてその嫌悪感と任務を確実に切り離したからこそ覚えている。
「戦時法に従わず、深刻なる条約違反を犯した部隊――……憲兵からの要請により、全てを俺は斬り捨てた。……よくよく意味を考えろ」
勧告を行い、答えなかったその全てを殺害した。
かつて
無慈悲なる処刑の刃。
死神――ハンス・グリム・グッドフェローの悪名。
「――……失礼した。今の暴行の件への処分は甘んじて受け入れる。後の法の沙汰にもよるが……それ次第で貴官のあれは正当性のある必要な範囲の犠牲だと、俺は以後そう認識する」
そう告げて、部屋をあとにする。
腰から崩れ落ちた艦長は、怯えた目でこちらを見ていた。
そして、
「すまない、シンデレラ。……俺は、君との約束を守れなかった。すまない……」
部屋の外で待っていた大勢の中の、その彼女は今にも泣き出しそうだった。
不甲斐ない。
その期待に――……想いに応えることができなかった。
そう告げると……彼女は余計に顔を歪め、何度も首を振り続けた。
◇ ◆ ◇
それからの自分は、原隊復帰を言い渡された。
処分は訓戒。
所謂、厳重注意というだけで軍籍の剥奪や階級の下降を伴わないもの。
それでも原隊に戻されるまでの数日間は、勾留を受けた。別の
完全に自分は獣同然だった。鉄の理性が聞いて呆れる。所詮は暴力を生業とする卑しい人殺しにしかすぎない。
そんな中での、ことだった。
シンデレラ・グレイマン准尉が――ヘンリー・アイアンリング特務中尉に銃撃を加え、脱走を図ったという知らせが届いたのは。
そして機体を奪取した彼女は逃亡中、ヘイゼル・ホーリーホックにより撃墜されたという――そんな知らせが。
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