第30話 別離、或いは千切れた写真


 その男は、どこまでも穏やかな目をした男だった。

 側頭部の辺りが刈り込まれ、全体的に短めに整えられた黒髪。

 冷たさも感じてしまうようなアイスブルーの瞳。

 いつも何か考えているようで、かと思うと何も考えていなさそうで、苛烈かと思えば純朴で、純粋かと思えば合理的で冷徹。

 だが熱くて――そして公私ともに規範的に過ごす兵の模範たるべしと定めた男。

 そんな男が、言ったのだ。


『アイアンリング特務中尉、すまない』


 他の人間には聞こえない程度に、あたかも自分を共犯者に選んでくれた――の如く。

 憂い顔の彼は、自分にだけ聞こえるように……ある日、そう言った。


『……俺に何かあったなら、貴官に、シンデレラのことを任せていいだろうか?』


 約束だった。


 自分と彼の。

 男と男の。

 兵士と兵士の。


 ああ。

 約束――だった。



 ◇ ◆ ◇



 ヘンリー・アイアンリングがそのことに気付いたのは、多分、そんなことがあったからだ。

 シンデレラ・グレイマンを目で追っていた。追うようにしていた。決して男女の関係を望むからではなく、そう、約束を交わしたから。

 だから、彼は彼女の異変に気付いた。


 艦長による兵の使い捨てと、民への虐殺的な戦闘行為。

 艦内の居心地は最悪に達していた。

 ヘンリーの目に見えたのは二つだ。

 一つは、そんな行動の反動なのか自分たちの特権階級意識を肥大化させてしまった者。

 かつての彼もそうだった。

 あの大戦と度重なる残党派などのテロに対して作られた監視組織【フィッチャーの鳥】。

 その自負と権威。

 自認と矜持。

 それは行き過ぎた特権階級意識に繋がり、暴力による支配の心地良さに呑まれ、そうして、車に轢かれようとした老婆の代わりに怒ったシンデレラとの――何よりハンス・グリム・グッドフェローとの出会いを呼んだ。


 己の所業に耐えられなかった兵士たちは、やがて、何故こんな酷いことが行われしまうのか/この世に許されてしまうのか――……ああ、それは自分たちならば許されるのだ。

 と自己の罪悪感を消す方向に移った。

 おそらくは、もう完全にあの艦長の下で疑いなく【フィッチャーの鳥】として残酷に羽ばたける翼を得てしまった者。


 もう一つが、兵として艦長の行為に激しく憤る者たちだ。

 戦友を無能な艦長に奪われた。

 公共の秩序の安全の為に集められた自分たちが、私的な虐殺に加担させられる。

 自分たちを出世のための駒としか思っていない害悪から命令をされる。

 ――そんな、不満。それが高まっていた。


 艦内の雰囲気は最悪で、これが戦争なのかとヘンリーも吐き戻したくなった。

 シンデレラはより酷かった。

 空中浮游都市ステーションの耐圧ドームの補修を命ぜられ、それを行っている最中からも酷かった。

 戦場の死に当てられる――。

 かつてグリム・グッドフェローが彼女をそう称したが、まさしくその通りだった。虐殺の、巻き込まれる民間人の情念が彼女への負担となって襲いかかったのではないか――。

 そう思わせるだけの憔悴と、空吐瀉。

 事実ヘンリーとて、何度も作業を中断させようと思ったくらいだ。


 それでも彼女はやり遂げて、そして今、艦内に漂う最悪の空気を吸い込みながら、艦長の行いを糾弾しようとしている。

 おそらく彼女は代弁者だった。見捨てられた兵と――市民の。その怒りの代弁者だ。

 一触即発のような不穏な雰囲気が醸し出されていた。

 艦長はそれを知ってか、或いはそれなのにまだ甘く見てか、武装させた陸戦隊に自分のための護衛を努めさせている。

 艦長室前に佇む彼らは、どちらだろうか。

 怒りが見えた――艦長への。仲間を無碍に見捨てられてなお、その命令を遵守しているのは彼らが激しい訓練で忍耐力を培っているからだ。

 しかしそれすらも、限界に見える。

 どちらなのだろうか。

 艦内が先に怒りの限界を迎えて蜂起し、同じ怒りを抱えている護衛役と撃ち合いになるのか。

 それともその護衛役が率先して艦長を殺害するのか――そのどちらかだ。


(これが……これが、戦争なのかよ……)


 ヘンリーは自分の金髪を握り潰した。

 この【フィッチャーの鳥】は若い組織だ。エリートというその雰囲気を形成するのは、むしろ、年若さからくる自負心と世界が見きれぬが故の傲慢さから成り立つ。

 本当の意味で、あの戦争を経験したものはそう多くはない。

 だから、こんな雰囲気を味わうのはヘンリーも含めて初めてのものが多かっただろう。

 それが爆発する。

 した先はどうなるのだろう。そこは破滅しか呼ばない混沌なのか。或いは暴力的ながら秩序が保たれた狂気の渦なのか。

 そうなったとき、自分は――或いはシンデレラはどうなるだろう。彼女のあの性格で、あの容姿で、部外者という肩書はどうなってしまうのだろう。


 見えない魔物に腹の中身を掴まれるような焦燥感。

 そんな中で動いたのは、やはり、あの男だった。

 鋼鉄の剣めいた無表情。彼も――凄まじきまでの怒りを押し堪えているのは見て取れた。そも、彼が一番あの命令に反対していたのだ。どの兵も、通信からそれは知っている。

 今になって気付く、あまりに揺るがぬ怒りの業火をそれでも押し込めるグリム・グッドフェローの目線は、それだけで万物を両断しそうだった。

 食い下がろうとしながら、その一瞥で気圧されたシンデレラが言葉を詰まらせた。

 彼が目指す先は艦長室だ。

 誰か――きっと多くが祈る気持ちだった。もしかして、あの大戦の英雄たる男ならば、何か。


 近付かれた護衛役たちには緊張が走った。

 生身のまま、アーセナル・コマンドさながらに個人として重すぎる存在感を放つ抜き身の剣。

 それだけで、暴発してよかったのかもしれない。

 だとして――きっとハンス・グリム・グッドフェローは彼らを蹴散らす。彼のその在り方は駆動者リンカーとしてではない。その心そのものが、不屈なのだ。剣なのだ。

 抜かれたならば確実に斬られる。

 そんな剣が己たちに迫っている――その驚愕。

 だがきっと護衛役にも、ヘンリーにも、或いはシンデレラや他の兵たちにも届いた真実の驚愕はそのようなものではなかった。

 ふと緩んだ穏やかな瞳。どこまでも痛みを推し量り、そして識ろうとする思索者の瞳。


「大丈夫だ。貴官らの想いは必ず届ける。約束する。……俺に道を譲ってくれないか? この怒りの渦の中でも、正しく職務を全うしようとする勇敢なる兵士よ」


 慈しむようなその言葉だけで十分だった。

 己もあれほどまでの怒りを抱えながら、しかし、兵に対しての労りを識る男。怒れる聖人――怒りながらも聖なる者であることをやめようとしない心優しき鋼の男。

 主を見付けた忠犬のように。

 心から従うる本物の兵士を見付けたかのように。

 これが騎士道物語であれば、護衛役たちは膝を付き、そして彼の行く道を飾っただろう。

 そして、扉が閉まる。

 

「……英雄。鉄の英雄……アナトリアの不屈……死にゆくものの最後の光……」


 誰かが言った。

 ああ――彼こそは、まさしく兵士の守護者だ。

 民の守護者たる兵士の守護者が、鉄の英雄ハンス・グリム・グッドフェローなのだ。

 それは、全ての名もなき詩に変わる兵士にとっての祈りであり希望だった。


 言い争う声が聞こえた。

 初めは静かに――淡々と。

 そしてあの艦長を取り除くための実に冷静さを失っていない策が出たとき、兵たちは喜びに思わず顔を見合わせた。

 ああ、彼は兵の英雄なのだ。

 天が遣わせた兵にとっての守護聖人が彼なのだ――と。


 だが、それでは終わらなかった。

 彼は聖者である。何より――怒りの聖者だった。

 あの場の全ての兵の怒りを代わりに語ったかの如き糾弾。

 艦長を締め上げ、そして振るわれる弁舌。罵倒と罵声。

 彼は理解者なのだ――と誰かが言った。

 寄り添い、その痛みを識る鋼の看護人。全ての兵が感じる苦しみを悼み、その癒やしの為に尽くす鋼鉄の天使。

 彼が突きつけるその怒りを前に、一体誰が怒れるだろう。

 全ての兵たちが抱える憤懣を背負い、彼は、一人我が身を犠牲にそれを上官へと突きつけたのだ。


 最早、怒りの空気は霧散していた。

 ハンス・グリム・グッドフェローは、艦の怒りを、原罪を背負って十字架をかけられた。

 ならば――一体どうして自分たちが暴発できよう。

 彼はどこまでも理性的に、そして法を護ろうとした。

 そんな彼一人に全てを任せてしまった者たちが、一体どうして、今更、暴力によってその行いを踏みにじることができようか。


「案ずるな。貴官は、貴官の職務を全うしようとしているのだろう? 構うことはない。それは、きっと正しき行いだ」

「グリム・グッドフェロー大尉……」


 シンデレラに言葉をかけたあとに、規定に従い手錠をかけようとする兵士目掛けて彼はそう言った。

 ああ――ゴルゴダの丘に向かう救世主を見送る信徒は、こんな気持ちだったのか。

 粛々と、悪法もまた法と言ったソクラテスが毒杯を煽るかの如く、己の足で去っていくパイロットジャケットの背中。


 暴発は、回避されたのだ。

 艦内を漂う怒りは霧散し、そして、我々は失ってしまったのだ――というどこか寂寥とした空気が流れていた。


 ……ただの一人を除いて。


 ヘンリー・アイアンリングだけは、その瞳を、見ていた。



 ◇ ◆ ◇



 だから、だろうか。

 艦内のその格納庫で――。

 作戦行動中の戦闘配備の為に、動力であり装甲である流体ガンジリウムを液体にし続けるべく加熱し循環させている機体の前で――。

 かつてない戦闘の疲労の為に、そしてただ一人あの戦いで武力の徹底的な行使を行った機体の整備に皆が集中するその中で。

 金色の髪を頭の後ろで括った、鉄の尻尾――延長脊椎の垂れたパイロットスーツに身を包んだ小柄なシンデレラのその影を見咎めることができたのは。


「……オマエ、どこに行くつもりだよ」


 ビクリと、その背が震えた。

 その反応で察しがついた――シンデレラは逃亡しようとしている。

 彼女が部隊に来たそのときに、実は、ヘンリーもあの艦長から言い含められたことがある。

 今回の襲撃と、グレイマン技術大尉の誘拐には、情報の漏洩が予期される。グレイマン技術大尉がその出処かもしれない。

 だからその娘のシンデレラにも注意を払え――彼女がその父と共謀して機体を強奪するかもしれない、と。


 はっきり言えば、愚かな懸念だ。

 それならシンデレラは初めから機体に乗り込まず、ヘンリーを助けに出撃などせず、敵に渡してしまえばよかったのだ。

 自分が優れた指揮官だと勘違いした男の、あまりにも筋違いな推察と独り善がりの命令。

 ただまあ、ある種では正しい。

 仮に彼女があの時点で共謀などしていなくても――後々、その父を人質に呼び出されたり、或いは心変わりによって脱走することもあり得るだろうと。


 だからヘンリーは、ある程度備えていた。

 なるべくは――いくら美少女とはいえ戦友とはいえそこまで気が合う訳でもない――シンデレラと行動を共にしようとしていた。

 それが抜けてしまったのは、この三日間だ。

 きっと彼女はそこで――敵からの接触を受け、甘言を囁かれたのだ。


「出撃の予定は、ないだろ? オレたちもおとなしくするぞ。大尉がそうしてるんだ。だから――」

「その、大尉のことですよ!」


 選んだ言葉が、誤りだったのか。


「あんな……あんな風に優しい人が、あんな風に優しかった人がああなってしまうなんて……それは、それはおかしいことなんですよ! こんなの、許しちゃいけないんです!」

「だからってオマエに何ができるんだ! おかしなことをしてないで、戻るぞ! 今ならまだ機体のチェックと言い訳ができる!」

「……っ、ヘンリー中尉は何も思わないんですか!? 大尉が――本当は優しい人がああなってしまうなんて! ああも怒ってしまうなんて! おかしいんですよ、【フィッチャーの鳥】は! あんなことは!」

「――っ」


 判っている。異常なことだ。

 もし今回の件が、あの艦長に何の咎めもなく終わってしまうなら――握り潰されてしまうというなら。

 それは、異常だ。

 【フィッチャーの鳥】より【ハシバミの枝ヘーゼルアスト】に理があると、ヘンリーとて思ってしまう。

 だが、


「その大尉が大人しく処分に従うって言ってるんだ! オレたちがそれを乱してどうするんだ!」

「だから、それがおかしいんだと! わたしはそう言ってるんです! どうして大尉だけに背負わせるんですか! こんなのは変だって、おかしいんだって! そう、言わなきゃいけないんですよ! 誰かが!」

「オレたちは兵士だろう! 誰かは、別の誰かだ! やるのはオレたちじゃない誰かだ!」

「兵士の前に、市民なんですよ! 人間なんですよ、わたしは! あの人を背負わせたまま死なせちゃいけないんです! あの人はきっといつか、笑って死刑台に立ってしまう! だから――!」


 叫ぶシンデレラに、ヘンリーも叫び返す。

 並行線だった。彼我の主張は相容れなかった。


「分断は防がなきゃいけないって……あの人の言うとおりだった。このままだと世界は大変なことになる……人々の怒りと悲しみで……! そうなる前に、【フィッチャーの鳥】がそんな分断を確定させる存在になってしまう前に……止めなきゃいけないんですよ!」

「オマエ――大尉を裏切って敵についたのか!」


 ヘンリーの怒声に、シンデレラが身を強張らせた。

 詰め寄ろうと一歩を踏み出し――それが良くなかったのだ。

 かつての出会いの再現か。そのことを思い出させたか。少女に、男の軍人の暴力を思い出させたか。

 ヘンリーに、再び銃口が向けられた。

 ただし今度はその主はハンス・グリム・グッドフェローではなく――シンデレラ・グレイマンだった。


「近付かないでっ! また、わたしに――わたしに暴力を振るって、言うことを聞かせようだなんて!」

「兵士が、仲間に銃を向けるのかよ!」

「わたしは――――わたしは、兵士なんかじゃないっ!」


 ガチャ、とまるで銃口でヘンリーを遠ざけるように突き付け直される。

 錯乱している――そう思えたら、どれだけ楽だっただろう。妄信していると、洗脳されていると思えたらどれだけよかったろう。

 だが、シンデレラには確信があった。

 ヘンリーには知り得ない何かの情報と、何かの筋道――それを心に持って、彼女は決意を済ませていたのだ。


「大尉を一人見殺しにするなら、わたしは兵士なんかじゃなくていいっ!」

「……ッ」

「あの人は……あの人はっ……! あの人は、ここでああして人殺しをさせられていい人じゃないんですっ! あんなふうなことを! 絶対に! なのに皆っ、皆っ、あの人を抱き締めようともしないで! 力になろうともしないで!」

「ッ、あの人を見送ったのはオマエもだろう!」

「だから、何とかすると――そうしようとしてるんですよ、わたしはっ!」


 言い争う声を、聞き咎めたのだろう。

 それが、最後の最悪だった。

 シンデレラへと投げかけられる怒声。怯えて、咄嗟に銃口を向けてしまった彼女――。

 ああ、思えば、きっとシンデレラが誰よりも。

 誰よりも自分のことを異物だと判っていた。身を以って知っていた。あの艦長の言葉は、ある種、兵の懸念を指した言葉だったのだ。

 或いは彼女の父が作ったアーセナル・コマンドに仲間を大勢殺された兵士たちの場違いな恨み。

 そんな目を向けられ続けた彼女は――まして彼女は。

 艦内でヘンリーが予期していたような戦場の暴力を己へ向けられてしまいかねない恐怖を抱えていたのだろう。

 或いは確信か。

 その神懸かり的な感応能力で、あの艦内で暴動が起きたときには幼くとも女である自分にもその牙が向けられるだろうと――誰かの心を読んでしまったのか。


 だから真実、きっと、今この艦に彼女の味方はいなかった。

 そこに来てのこの状況では――もうシンデレラには敵しかいない筈だ。

 そして、怒れる敵に対して銃口を向けたか弱い少女が行えることなど一つだ。


「よせっ、オマエ、大尉がなんでオマエに撃たせなかったと思うんだ――――――!」


 銃声。

 咄嗟に飛びかかったヘンリーの太腿から、鮮血が舞う。


「ぁ……あ、違っ……違……ヘンリー中尉……違っ、わたし、違っ……ぁ、そんな、そんなつもりじゃ……やだっ、違っ、そんな……ぁ、血が……違っ……!」

「オレは……特、務……中尉だ……! バカ、っ、やろ……う……!」


 血溜まりに、ヘンリーが倒れる。

 兵は、すぐに増援を叫んだ。

 あれほどまでに緊張感が高まっていたこの状況で、一時的な収まりを見せただけのこの状況で、これだけのことをしたシンデレラがその後どうなるかなど――私刑を行われるなど明白だった。

 もう、謝罪の暇などない。


「ぁ……」


 琥珀色の瞳から大粒の涙を流したシンデレラは、それでも振り返らず、白い機体のコックピット目掛けてタラップを駆け上がっていった。



 ◇ ◆ ◇



 白い機体が、飛ぶ。

 明け方の空を、一直線に飛ぶ。

 今まさに日が登ろうとし、深い青の夜の下で燃える水平線。夜と昼の境目。唯一輝く明けの明星が浮かんだ空の元――陽の光を目指して飛ぶ。

 

 背部の大型レールガンや高機動使用の増加装甲兼増加スラスターで大きく膨らんだ上半身と、細身の足――純白の【ホワイトスワン】。

 海よりも深い青と、黒い液体金属のように蠢く眼下。

 それに挟み込まれた機体は翔ける。

 ウルヴス・グレイコート。

 あのマウント・ゴッケールリで出会った男――反応勢力である【ハシバミの枝ヘーゼルアスト】の前線指揮官。

 灰色の癖っ毛と、シンデレラと同じ琥珀色の瞳。

 疲れたような、それでいて温和な穏やかさを持ちながらも理知的な目の持ち主――あの自由行動の中で、彼と会話の機会があった。


 少なくとも、最初の印象は悪くなかった。

 似ていたのだ。その慮ったような思索の瞳が。

 自分が心から慕う、あの人に。

 そうと知らずに出会って――幾ばくか会話をし、そして、彼らがどんな信念の下で戦っているのかを知った。

 少なくとも、【フィッチャーの鳥】よりはマシだった。

 だけれどもシンデレラの中の厭世性と反抗性がという気持ちにもなって――本当は、彼に相談するつもりだった。


 何がなくても意識してしまうあの人と、何がなくても余計に意識してしまう二人っきり。

 ウルヴス・グレイコートの素性が明らかになった四日目には。

 その夜に、大尉へと相談と報告をしようと思っていた。

 だというのに――――あの、治安出動がかかった。


 彼への連絡を取り、一直線に合流地点を目指す。

 もう、今や、理解した。

 あの【フィッチャーの鳥】は間違っている。それには誤りはない筈だ。【ハシバミの枝ヘーゼルアスト】が正しいとは言えないが、あの彼らは明確におかしい。

 そちらの活動に加わると、こうなってはシンデレラは決意せざるを得なかった。

 何より、あの軍事行動を問い質してやりたい気持ちだった。何もしないと――言ったのに。


 そう決意を固め、だがヘンリーのことで後ろ髪が引かれる気持ちのあるシンデレラの耳に届く通信。


『よお、お嬢ちゃん。あいつに倣ってお兄さんも一度だけ告げるぜ? 投降する気は――あるかい?』


 ヘイゼル・ホーリーホック。甘く囁くしゃがれ声。

 彼もまた信頼できる年上の男で、少し女性に対してだらしない気もするがそれも含めて大人の魅力といった色男で、ある意味で父性のようなものを感じる男だった。

 だが――判る。

 シンデレラには、判ってしまう。

 彼は、ハンス・グリム・グッドフェローよりも兵士だ。もっと割り切った、完全な兵士だ。

 それが彼の誓いなのだろう。

 黒衣の七人ブラックパレードが抱えた質問と、その答え。


 ヘイゼル・ホーリーホックは、きっと、誰よりも仕事を遂げる男だった。


『……ま、そうだろうな。生半な気持ちでヘンリー坊やに銃を向ける訳がない。説得はできねえと思っていたぜ。……ああ、ヘンリーは無事だ。命に別状はない』

「……!」

『どうだい、最期の手向けにはなったかい? ああ――じゃあ、お兄さんも、仕事を済ませるとしますかね』


 感じる――漆黒にして無謬の殺意。

 まるで夜の大海原の如き、果てしのない黒。

 己に向けられる前大戦の英雄からの揺るがない意思。

 死ぬ――確実に。

 頭から爪先までの全細胞が死を受け入れた。強烈な重圧。深海の気圧めいた殺意の壁。対一〇〇〇〇機が発する死線。


 だが――シンデレラは歯を食い縛った。


 自分とて、ハンス・グリム・グッドフェローの師事を仰いだ。

 彼からの教えを思い出し、そして握る操縦桿に力を込める。

 射撃武器に対しては常にその射線を切り続けること。

 常に移動し続けて、敵から見て同じところにとどまらないこと。

 また、偏差射撃も勘案して、可能ならば二段階の急速移動で翻弄すること。

 それを――実行する。


「……っ」


 彼はよくこんなものに耐えていると――そう思った。

 シンデレラの才能だけではまだ埋められない鍛錬の差。

 加速圧に耐えるための肉体鍛錬と、少しでも負担を呑み込むための精神鍛錬。

 どこまでも地道な努力。

 一人で石を置き続けて、天国までの道を作るような。そんな途方もなく地道な努力を貫き続ける意思。鋼鉄の理性。不屈の男。

 きっと、彼が非才というのは誤りではないのだろう。

 自分が同じものをしたのであれば、彼を追い越してしまうと――シンデレラにはそんな確信があった。


 だが、非才故に。

 決して妥協することなく。決して諦めることなく。決して膝を折ることなく。

 どこまでもその鋼の理性の下で歩み続ける鋼鉄の男――それがきっと、ハンス・グリム・グッドフェローなのだ。

 ならば。

 ならば自分は、そんな彼の努力を決して悲劇で終わらせないために――――。


(言えないですけど……恥ずかしくて、言いたくないですけど……本当に、わたし――大尉になら全部あげたいんです。全部、わたしの何もかもを。大尉に)


 生者が死者の道となると彼は言うが――生者が生者の道になっていいはずだ。

 彼がどこまでも歩み続けるその足の、ほんの少しの助けになりたい。

 自分のことを抱き締めてほしいけど、でもそれも難しいなら我慢するから――だから。だからどうか。

 どうか、その道を拓く助けにならせてください。

 貴方のその鋼の歩みを、ほんの一欠片でも和らげるものにならせてください。

 わたしの身体をお貸しします。

 ですからどうか、貴方にも――――


「――――!?」


 衝撃、だった。

 それは、二重の意味で。

 機体のコックピットを完全に打ちのめした強烈な衝撃。その酩酊に機体そのものの制御を失ってしまうほどの衝撃――それが一つ目。

 二つ目。

 何故自分は二段階のバトルブーストを行っているというのに――コックピットを的確に撃ち抜かれたのだ!?


 偏差射撃などとは呼べないそれはもう、未来予知に等しい。


 本来ならば誰しもが予想もつけられないはずの、慣性を無視する急速直線運動であるバトルブースト。

 その、念には念を入れた連続二発。

 それすら、ヘイゼル・ホーリーホックにとっては何の撹乱にもならないというのか。


(でも、わたし、生きてる……助……かった……? 助かったなら……!)


 しかし――その一撃で。

 本来ならば、《仮想装甲ゴーテル》すらも無視して死を与えるその神兵の狙撃で、自分は生き残った。

 きっと何か理屈がある筈だが――……今は生き残ったということが重要だ。

 機体のエネルギーを全て加速力に回して彼を振り切れば、まだ、

 

『いいや、もう、助からねえ』


 告げる、無慈悲なる槍兵の声。

 制御が――効かない。手足が動かない。肉体と脊椎で拡張接続している筈の白き機体が動かない。

 いや……違う。

 違うのだ。

 一撃しか撃ち込まれていないというのに、それはコックピットを射抜いたというのに、【ホワイトスワン】の両手足が吹き飛んでいた。

 銀色の血が、涙のように宙を舞う。


『悪いがお兄さんはを誓っていてね。一撃を必ず殺す為に撃つんじゃない。


 ああ――……と、シンデレラは理解した。

 機体に叩き込まれたその衝撃が、運動エネルギーの渦が、流体ガンジリウムの装甲を伝わって、圧力を与えて吹き出したのだ。

 本来なら機体を守るはずの流体装甲が、死を呼ぶ罠となってしまう。

 突き立てられた大いなる釘の毒によって、白鳥は四肢をもがれて墜落する――――海面へ。


 そして、シンデレラは知ることになった。

 黒の請負人ブラックナイト

 不動の騎兵ホースネイル

 かつて神という名の天から降り注ぐ獣を撃ち落とした、その神殺しの槍の力を。


 ……魚雷の原理は知っているだろうか。

 あれは爆発の威力やそれに圧された海水によって敵の船を鎮めるのではない。

 爆発によって生まれた海水の一時的な真空。

 そこに目掛けてなだれ込む水の勢いが、噴出する水圧が、鋼鉄を穿ち戦艦を沈めるのだ。


 着水する【ホワイトスワン】の純白の両手足から吹き出る銀色の血――流体ガンジリウム。

 液体になるほど熱せられたその金属が海水と触れたれば、即座に海水は蒸発し――水蒸気爆発。

 そしてその爆発が生んだ真空へ、海流が波濤となって襲い来る。

 原理は魚雷と同じ。

 吹き出る銀血と巻き起こる爆発が、まるで音符の連弾めいて次々に流れを作り、海流を加速させて行く。

 機体は動けない。

 四方から流れ来る海流の圧力に押さえつけられ、一切の防御も回避も行えない。


 そこへ――――超人的な精密性と制御性、未来予知同然――或いは全能なる神の見えざる手で作り上げられたかの如き、海流の槍。


 最早、寸分違わず。

 逃げることすらできない【ホワイトスワン】のコックピット目掛けて、その鋭い碧き釘の切っ先が突き立てられた。



『……あばよ、シンデレラの嬢ちゃん。来世があったら、いいところに生まれ変わるんだ』



 これが――第八位の潜伏者ダブルオーエイト


 今や地表の八割を覆う海の、その支配者であった。




 ◇ ◆ ◇



 そして一人、夜の深き青の中に浮いた黒鉄の城――飛行要塞艦の真横に。

 騎士槍めいて前へと突き出した超大型のレールガンを構える赤き四脚の機影。

 海の魔物の名――【アーヴァンク】を冠した機体のそのコックピットで。


「……くそったれ。なんのためにアイツが……グリムの奴が……! くそったれ……!」


 苛立ちを吐き捨てたヘイゼル・ホーリーホックは、モニターに煙草を押し付けた。

 死んだ妹と同じほどの年齢の少女を、無抵抗の少女をその背中から撃つことになった。

 妹がいる病院を守ろうと――そして今は亡き妹に誓った神を撃ち落とす槍の力を、こんな形で使わされることになろうとは。

 その怒りは、拳に現れた。

 叩きつけられたそこで、砕ける全周モニター。

 蜘蛛の巣めいてひび割れて黒く落ちる。――登り来る朝日のその方向が。


「クソ……! ガキを誑かしやがって……【ハシバミの枝ヘーゼルアスト】め……」


 煙草にまた、火を付ける。

 何度もライターで炙って、だが煙は出ず――それが前後真逆だと気付いたのは、しばらくして。

 咥えてしまって湿気た燃え方をするその煙草の先端を、ヘイゼルはじっと眺めていた。


 そのコックピットには、四人で撮った写真が。


 もう――――その光景が成り立つことは、二度とないのだ。

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