外典、或いは狼の視座。またの名を剣鬼

「……」


 今はウルヴスと名乗っている男の勘は主に告げる。

 ある種の嗅覚――汎拡張的人間イグゼンプトか経験か、彼のそれは狼めいた嗅覚として働くようになっていた。

 それが、知らせてくる。

 目の前のは、危険だ。

 経歴に見て取れるが――……最早それは何の指標にもならない。その程度で、この青年の危険性を言い表せはしないのだ……と。

 油断なく、グレイコートは周囲をちらりと眺めた。


 ――伏兵、なし。

 ――武装、なし。


 だからこそ、恐ろしい。

 何の備えもないことこそが、恐るべきだ。

 これは――ただ身一つで人を堕落させる、邪淫の如き青年なのだ。


「……私を脅している、ということか?」


 慎重に言葉を選びながら、ウルヴス・グレイコートは青年に告げた。

 そうすると子供のように眉を上げ――月光の下で妖しく銀髪を煌めかせる青年は、あえて伝えるように悲しそうな顔をした。


「別に。言ったじゃないかよぉ……旦那ァ……おれは気ままな渡り鳥さ。一杯奢って欲しいんだ、って」

「……私も、酒は持っていないと言った筈だがな」


 そう答えればまた眉根を上げ、それから青年はくつくつと笑い出した。

 同時にウルヴス・グレイコートは考えた――いや、己への疑問を投じていた。

 何故、未だ、会話を続けている?

 自分がいきなり銃を抜くような輩とは違う常識的な倫理を持った人間だからではなく――……何故、足を止めて会話を続けざるを得ないのだ?

 踊るように軽やかに階段を降りるモッズコートの青年が、そんなウルヴスの瞳を眺めて酷く嬉しそうに娼婦のように目を細めた。


「いいねぇ……旦那、血の眼だよ。アンタの脳みそにぽっかり宿した血の瞳だ……結局、理性ってのは、そういうものだ」

「……何が言いたいのかね」

「汝、畏れるべし――ということさ。ハシバミの枝、聖母マリアの枝、を退ける奇跡の枝……そうさ、そうさ、神の奇跡だ」


 見透かすように――ねぶりあげるように。

 青年のその赤い瞳に、一体何が映っているのか。ウルヴス・グレイコートの何を見抜いているというのか。

 己がそこに属していることもさておき、何より【ハシバミの枝ヘーゼルアスト】の名前に込められた理念までを言い当てた――。

 地を這う邪なるものへの防御の説話を持つハシバミのその枝は、まさしくその通りに地たる保護高地都市ハイランドにあって邪なる者たち――暴虐働く【フィッチャーの鳥】――を除く、という想いが込められている。

 故の、ハシバミの枝。


 大本から切り離されてしまった枝――zweigツヴァイク――ではなく、大本と繋がったままの枝を意味するastアスト

 保護高地都市ハイランド連盟軍の中にも、その運動の支援を行う者もいた。彼らの暴虐な振る舞いは、軍人として相応しくないとの想いを込めて――。

 一体、何を見ているというのか。どこまで見えているというのか。

 毒婦じみた唇で、妖婦めいた声色で、コートの前開きから覗いた神父服を強調するかの如く、月の雨で体を濡らすとでも言いたげに青年は奥ゆかしく両手を広げた。


「この通り敬虔でね。――……はは、汝、試すことなかれだ。そうとも、試すことなかれ、だ。ただそれは、天上におわします大いなる御心の主に対してだろう?」

「……汝、隣人を疑うことなかれとも言うがね」

「ああ、隣人さ――……そう、隣人だ。人だよ、人」


 ひそめるように、身体を曲げて青年が笑う。

 これが、男に生まれていてよかった。女だとすれば――……その細かな仕草の一つ一つが、淫婦にすぎない。


「なあ、どうかね、狼の旦那。……旦那とおれは、気が合うんじゃないだろうかねぇ」

「会話の甲斐がない男は一人で十分だ。……つまり、君は営業をしたいと言いたいのかな?」

「おれは傭兵さ。そうだろう? それは力だ。いいかい、それは、力なんだ」

「……雇え、と」

「いいや、一杯奢って欲しいんだって。なぁ、寂しいぜ。忘れてくれるなよ……。そうじゃないか? それともおれの見込み違いかね……ならおれチャンは、大人しく毛布にくるまって暖炉に向かうよ」


 悲しいのだと、子供が拗ねるようにわざと背中を向ける青年。

 目眩すらしてきた。

 その道化めいておきながら婀娜っぽい振る舞いも、耳から這い寄る蛇の如き声色も――……直感で危険を感じさせながらも会話を続けさせる魔性の魅力。

 己が従うべき勘が狂わされている。

 月の魔物ルナティック――そうとしか呼べぬ、狂へる月の化身じみた青年。

 そんな存在が己に語りかけてきているという事実に、真意を図るために己が会話をせざるを得ないという現実に、頭痛のような目眩がする。


「ギャスコニー、だったな」

「は、ほら、なあ……やっぱり旦那とおれは気が合うじゃないか……そうさ、血の遺志ってのは、すべからく斯くあるべしだ。なあ、戦いの幕を引いたもう一人の答えの男プレイヤー?」

「……」

「星の娘は泣いているぜ。そうだろう? 旦那の脳の瞳はどうだい? きっと、が見たかったはずじゃないのさ――……旦那も、星の娘も、聖母マリアの枝も」


 トン、と階段を蹴った青年が隣に立った。

 軽やかな――いや、跳ねた訳ではない。そんな大仰さはなく、ただ、隣まで歩いてきたにすぎない。

 だというのに……。

 青年が、ウルヴスの肩を抱く――親しげに。コート越しに肌の熱を伝えてくる。そして耳元で、囁くのだ。


「なあ、ほら、一杯やろうぜ。とびっきりの一杯だ……旦那とおれは、もう、同じいちごを口に運ぶ身さ。とびっきりに甘く、おれの指はあんたの唇を撫でる」


 恋人がそうするように――或いは商売女がそうするように。

 蕩けるほど甘く、凍えるほど熱く。狂おしいほど濡れて。

 妖しく静かに語りかけた青年は、また一段跳びに跳躍し――一転、その雰囲気が変わる。


「ギャスコニー神父と、おれのことはそう呼べ。銃なる剣バヨネットのギャスコニーだ」


 硬質、無比。鋭利、冷徹。傲慢、実直――確かな自負を感じさせる男根主義マチズモの極みのような顔。

 さながら、月に冴える大斧か。

 揺れる銀髪の向こうに満月を背負い――獣めいた獰猛さまで感じさせる片笑いで、青年は歯茎を剥いた。

 先ほどの己自身の姿への侮蔑を憚らぬであろう男の気配が、そこにはあった。


 何たることだと――ウルヴスは頭痛を覚えた。今日は、なんて日だ。

 かつての戦争のように翻弄されている。

 自分という堅実であるはずの男が、何よりも石橋の如く――つまり現代的な軍事戦術の現れと呼んでもいい筈の論理的な合理性の男が、またもや規格域外イレギュラーワンたちに踊らされている。

 戦術を蹴散らす戦闘。戦略を踏み躙る戦力。

 そんな者たちの象徴ともいうべき存在に、あの戦争のその時のように、またしても台無しにされているというのだ。


 だが、


「まぁ、ああ、そうだねえ……旦那の目なら、ヒルデって呼んでくれても構わないぜ? なあ――……」


 そんな気も知らずに、青年は嗤う。


「愉しくやろうぜ、何事も」


 三日月の如き、唇だった。

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