(07)本当に必要な時間
病院によってシステムは違うと思うが、姪が入院した病院は、最初は閉鎖病棟だった。こちらで興奮状態が落ち着くのを待ち、薬などの最適化を図る。
次は半開放病棟で、閉鎖より自由度は高いが、軽作業などの社会復帰に向けた学習が増えてくる。
こちらで軽作業の経験を積み、退院へ向けた具体的な学習や補佐がある開放病棟を経て退院、という流れだった。
姪は閉鎖病棟に4年、半閉鎖と開放に3年くらい、計約10年入院した。
個人的には、入院期間はこの半分だったんじゃないか、と思っている。
閉鎖病棟にいても、姪は薬が変わること、量が増えることを頑迷に嫌がった。
病気(統合失調症)の症状で、変化を嫌うそう。
しかし面会時にふと零した言い訳は「お母さんに怒られるから」だった。義姉が連呼しまくった「薬を減らせ」「変えるな」が根底にこびり付き、洗脳状態にまでなっていた。
それでもさすがに入院1年もすればだいぶ落ち着き、半開放病棟へ移って軽作業などの(社会生活的な)刺激を増やしていきましょう、という話になった時、例のバクダンが炸裂した。
「駄目!」
理由は「娘が嫌がってる」だった。
そりゃ病気の特徴から変化を嫌がるのはわかる。が、保護者も同調して全力で乗っかってドウするよ。義姉の本心は「今すぐ退院させろ」だったが「言うコト聞かない子供は迷惑」でもあり、病棟が移る準備や説明を聞くより「現状維持」の方がマシだったのだろう。
ただ「病棟の移動」話が出て、まさか3年も引っ張るとは思いもしなかったが。
閉鎖病棟にいる間に、確かに色々なコトが分かった。
姪は治療抵抗性統合失調症(薬が効きにくく治療が難しい)らしく、通常は1種類の抗精神薬の服用のところ、2種類以上の投薬でなんとか落ち着いている。クロザピンの使用を検討するようにも言われたが、必ず改善するわけでもなく副作用が大きく、当時は他県へ通院する必要もあったので「絶対オススメ!」と義実家へ提示できなかった。
そも義姉が先生の説明を理解せず、いつものように私が義父へ報告し「どう思う」と聞かれたので、副作用の危険性の方が重篤なので「現状(2種類以上の抗精神薬でイチオウ対応できてる)からすると、ちょっと」返したら、「そうか」でアッサリ却下された。
たぶん数秒も考えてない。
「孫はいつ退院するんだ」と聞くので、姪の病状と義姉の妨害を(強調して)伝え「まだ目処すら立たない」言うと「病院もだらしねぇな」で終わり。
いや「だれ」が「だらしねぇ」んだよと、言うのも面倒。
病棟移動の話が出るたびに「駄目」「無理」「できるわけない」の3連コンボで、そも「保護者」の同意がない。
結局、面会の数回に1回くらいは義父もきて、旦那様も仕事の都合がついたので同行した折、思いついて提案してみた。
「姪ちゃんも連れて、半開放病棟の見学に行きませんか?」
家族がいれば姪も怖がらないだろう、というコトで看護師さんに案内してもらい皆で見学に行った。姪がソワソワしていたので、旦那様と私で手をつないで、義姉は不満をブツブツ言っていたのを義父に「うるさい」怒られていた。
病棟につくと義姉がさっそく「暗い」「狭い」「寒い」から「移りたくないよねぇ」と姪へ言っていたが、姪は閉鎖病棟で仲の良かった人達がコチラに来ているのに気づき、話て納得したのか「私もココに来る!」とその気になった。
病院側もこの機を逃すまい、と義姉がアレコレ言うのを(そして義父に怒られ黙らされるのを)スルーして病棟移動の予定を組み、数日で3年越しの難物件が進展した。
一緒に見学し、当人が納得する。
たったこれだけの簡単なコトが、3年かかった。
この頃から義姉は姪の見舞いに行く時、私に車を頼まず、時間を数倍かけて(徒歩と電車で)自力で行くようになった。
私に頼れば楽だが「わからないコト(病状の説明)」と「嫌なコト(文句と説教)」を言われるので、面倒になったのだろう。
私は、あえて放っておいた。本気で困れば頼ってくるだろうし、意外な変化もあった。
義姉はボロボロの野良着のような格好でも構わず、そのくせ「人に見られる」と気にして極端に隠れる人だった。しかし私の運転する自動車に乗れないので、街中を歩き、電車に乗って、病院の受付も自分でしなければならず、結果、外出する服装が綺麗になり、ブローチなどオシャレするようになり、猫背でビクビクしていた様子が、背筋を正し真っすぐ前を向いて歩くようになった。
なにしろ話す内容が脊髄反射から「会話」になりつつ、劇的変化で、義父も旦那様も気にしていなかったが。
ただ認識能力は残念のまま。
義父が事故にあった時、頭部を強打し耳から血を流して朦朧としていた様子を、義姉は「こんな時になに寝てるんだろう?」と思っていたそうで、周囲が救急車だ警察だと騒いで「大袈裟」だと。その後も義父は呼吸器関連の疾患で入退院を繰り返すのだが、その度に一々「やったことない、知らない!」と入院手引きのパンフ持ちながら入院準備を拒否り、医師の説明と書類記入などの横で「私帰っていい? 帰っていいよね?」ゴネて(本当に)帰る。
いいんでない?
義父は義姉を「常識ある一般人」と定義しているのだから、「常識」通りに行動する様子を見てればいい。
ただ姪にも同じことをヤラカス。
半閉鎖病棟から開放病棟へ、本格的な退院へ向けての練習を始めましょうと病院側から言われたそうで、実際の移動は空きができてから、という話になった。
その状態で、1年過ぎた。
恨まれるだけだからもう口出しするまい、と思っていたが、我慢の限界。
医師がわざわざ「義理の叔母さま(私)も同席で」と言われたので病院へ義姉と病状説明を受けに行き、そのあとの面会で姪と開放病棟へ見学に行きたい、と申し込んだ。前のように姪と手をつなぎ、マイナス文句ばかりの義姉を放って「明るいねぇ」「窓開けて風が入るよ」「気持ちいいねぇ」と見学すること10分程度。
それだけで姪は移動する気になり、翌日には開放病棟での生活を始めた。
たった10分が、1年できない。
しかも成功例が事前にあるのに、10分も再現できない。
「退院」というハードルを越える苦労は大変だった。
病院側もアジをしめたのか、治療や相談を(義姉には内緒で)私へ連絡し、様々なことを決めてから「病院側の治療方針」として義実家へ事後承諾していた。
の、だが。
姪を社会復帰させるべく様々な練習があったが、入院癖がつき「退院したい」欲求ばかりが肥大してしまった姪は平静を保てない日が増えていった。
治療抵抗性統合失調症は、イワユル「完治」することは無い、と言われた。病状が落ち着くことはあっても、長期ではゆっくり悪化していく、と。退院できても、一般的な、例えば就職やバイトなどで自立した生活が送れるかは、難しいだろう。
そう言われた。
ここまで入院は7年。対応がマズ過ぎて、おそらく半分以下で済んでいただろうに、無為に時間だけをかけた。その前数年の通院も、適切とは言い難い治療しか受けられず、病状としては完全に手遅れ。
時間が過ぎただけではなく、時間と家族の無知が姪から気力と正気を磨り潰した。
それでも、なんとか退院できた。
の、だが。
姪は入退院を繰り返し、再びの長期入院となっている。
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