第51話
ねえ、ノア。馬鹿だったね、私。
どうしてあなたから離れるなんて選択をしようとしてるの。
「……いやだ」
訳も分からない世界へ飛び込んで混乱した私を救ってくれたあなた。
一国の皇子なのに、こんな怪しい女を抱きしめてくれた。
「大丈夫だ」と背中を、髪を、撫でてくれた。
……決めたよ。
「帰らない……っ」
できない。帰らない。
駄々を捏ねてるのは分かってる。私の人生がめちゃくちゃになってしまうのも。
だけどもう私だって自分の人生を決めてもいいと思うの。
「私は、あなたと生きたい…っ」
ノアが首を横に振る。何度も、何度も。
「元の世界へ帰っても、ノアはいないもの……っ」
半ば叫ぶようにして想いを伝える。
「ノアは他にはいない!」
水際まで行けば、腕の中の子犬が飛び出して陸へと上がる。私の大声に驚いたようだ。
「……ッ」
皇子が少しだけ後ずさった。
額に手を当てて唇を噛みしめる。そんな苦しそうな表情は、血を求めたあの夜と同じ。私が見るのは二度目だった。
「……ごめんね。愛してるの。どうしても」
その言葉に、皇子が弾かれたように脚を進めて泉へ飛び込んだ。縋るように私の体を掴むと勢いよく抱き寄せた。
「サラ……っ」
そして、そのまま皇子の手が私の顔を包み──唇を重ねる。
激しく、夢中で貪るような口付けに頭がくらくらする。もう冷たい水の温度さえ沸騰してしまいそうなくらい体が熱かった。
「……“愛してる”だと?」
唇が離れてほんの少し距離ができる。それでも鼻と鼻がぶつかりそうではあるけれど。
苛立つような声色の皇子。それも怖くはない。威圧感もない。
「……聞きたくなかった」
おでこを合わせてノアが呟く。
「きっと、もうお前を離せなくなる」
ちゅっと軽く口づけをする。何度も何度も、確かめるように。
「……離さないでよ。それが私の望み」
私の体をぴったりとくっつくように引き寄せ、抱きしめる。私の髪に顔を埋めて。
「……サラ。もしもお前が私と生きると決めたのなら。お前の世界を捨ててまで、ここに残ると言うのなら……私は、生涯お前だけを愛すると誓おう」
だから、とノアは続ける。
「約束、してくれ」
どんな約束だってしてみせる。どんな苦労だって、試練だって乗り越えてやる。私は普通の人間で、賢くも強くもないけれど。
「これから先、私以外に血は与えぬと。其の身も心も──私だけのものだと」
ノアにそう望むのなら、私の全てを捧げるよ。きっとそのために、私はここへ来たの。
「約束するよ、私の命が尽きるまで」
そう言って強く彼の体を抱きしめた。
大好きだよ、ノア。
家族も友だちも、平和な世界全てを捨てても構わないくらい私はあなたに恋をした。一世一代の決断をこの先後悔する日が来るかもしれない。それでも大丈夫。ノアがいてくれたら、あなたが愛してくれたら、きっと──。
──月明かりと一緒に、幸福が降りてくる。
きっとそれは、アテナがもたらしてくれる祝福。
月明かりにアテナの祝福を 向日ぽど @crowny
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