恋から始まる音大生物語

丹之珠良(ニノジュラ)

恋から始まる音大生物語


   1


 千代は孝と、ほぼ毎週、防音装置が完備した密室で定期的に会っている。

その日はちょっとお洒落をして、自ずと胸がときめいて、頬がバラ色に染

まっているのを、千代は自分でも感じている。孝は千代より年齢が一回り

上で、だから十八歳の千代が孝と出会ったとき、彼は三十歳だった。千代

の人生に出現した初めての大人の男性。若い千代が年上の孝に憧れと恋心

を抱くのに、時間はかからなかった。

 椅子に腰掛けている千代の背後から、両手でその肩を包み込むように、

孝はしなやかな手を乗せて、耳元でささやく。

「君の肩には、ずいぶん、力が入ってるね。もっと楽にして…」

低音の孝の声が、千代の体の隅々にまで、電流のように駆け抜ける。

 千代に対する「君」という呼び方。「肩」という言葉の、冒頭にアクセ

ントを置く軽やかなイントネーション。これが東京の言葉なのだ。生粋の

東京生まれの孝の言葉を聞いたとき、千代はカルチャーショックとともに、

恋に落ちた。ここは、おのぼり娘が夢見ていた「東京」。


 密室で肌を触れ合い、ときに足と足を重ね合わせ、声を出す。エロスに

溢れた濃密な時間。それは四月に入学した音大で、千代が師事することに

なったピアニスト、広川孝のレッスン風景だった。

「君の指先はときどき外側にそるけど、それはタブー。気をつけて」

「指先がそるって、どういうことですか」

千代の質問に、孝は臆面もなく千代の手を取り、自分の胸元に引き寄せて、

熱いまなざしで理想のフォームを説明する。

「こんなふうに指の関節はすべて自然に内側に曲げて、手のひら全体を丸

くして、鍵盤に対していつも指先を立てていなくちゃダメなんだ」

今までそんな色っぽい指導を受けたことはなかった。孝の手が自分の手か

ら離れるとき、千代の心臓は最高潮に高鳴った。

 ペダリングの教授法も肉感的である。レガートペダルを踏んでいる千代

の右足に孝は直接自分の足を乗せて、踏み込みの微妙なタイミングを体で

覚えさせる。「歌って」「そこは歌うんだ」、そんなレッスン用語が頻繁

に飛び交う。表現力、エスプリ奏法の習得は、教師が旋律を大きな声で歌

いながら教え込む。そして生徒にも歌わせる。恥ずかしがらずに声が出せ

る性分でなければ、音楽を志す時点で失格なのだ。

 たまたま自分の師事する教師が異性であり、恋愛対象になり得る条件が

そろっている相手なら、音大の防音装置付き密室のレッスン場は、妖しい

雰囲気が漂うデートスポットと相成るのである。


 入り口の分厚い防音ドアには、ちょうど目の高さに覗き窓がついている。

その小窓の蓋をわずかに持ち上げ、廊下から、次のレッスン生が中の様子

をうかがっているようだ。タイムリミットがきて、後ろ髪を引かれる思い

で、千代は耽美なレッスン室を後にする。

 千代と入れ替わりに入室したその女子学生も、孝に恋しているのだろう。

すれ違いざまに匂ったパフュームの官能的な香りが、それを物語っている。

カルメン・マキのような長い髪をたわわに揺らし、挑発的なミニスカート

の太腿を意識して、彼女は小脇にスコアを抱えている。それを孝に手渡し、

「よろしくお願いします」と一礼してからピアノに向かい、いきなり暗譜

でリストのhモールソナタを弾き始めた。彼女は同期だが、千代より二歳

上の帰国子女と聞いている。東京出身で、名前は美和子。鼻筋の通った彫

りの深い顔立ちの大きな瞳には、強烈な意志を宿している。

 分厚い防音ドアの小窓の蓋を持ち上げ、今度は千代が、孝と美和子の濃

密なレッスン現場を覗き見る。 



 岡部千代は七十年代前半、豊島区南池袋にあるT音楽大学のピアノ科に

入学した。キャンパス近くの欅並木を通り抜けると、雑司ヶ谷の杜があり、

そこには鬼子母神が祀られていた。そんな静かな環境の中、音大生として

四年間を過ごした千代は、厭世観とコンプレックスに満ち満ちていた郷里

札幌での高校時代を払拭すべく、大いに青春を謳歌した。運命の神様が引

き合わせてくれた音楽家、広川孝への恋心によって、澱んだ沼の水辺から

飛び立つ術さえ知らなかった「みにくいアヒルの子」は、思いも寄らない

エキサイティングな日々を送ることになったのだ。

 何十年ぶりかで母校の音大を訪れたとき、千代は思わず感傷的にならざ

るを得なかった。


 七十年代は遙か遠く、今や二十一世紀。新しい千年が始まり、その最初

の百年が時を刻み始めてからも、すでに久しい。

 大学の正門を入ると、まず入り口の右側には、守衛が常駐する警備室が

あった。昔は誰もが自由に出入りでき、音大のキャンパス内を近所の子供

や住人が散歩している姿も見かけられたものだが、現在はガードが固いら

しい。外からの侵入者を厳重にチェックし、部外者は中に入れない。学生

の安全や、構内の施設を守るためなのだろう。

 もし尋ねられたら、自分はかつての卒業生であることを告げよう。学籍

番号もちゃんと記憶しているし…と思いながら、千代は警備室を覗き込ん

で、「こんにちは」と声をかけた。中から顔を出した守衛のおじさんは、

あろうことか千代に向かって深々と頭を下げ、「こんにちは、桜も満開に

なりましたね」と、警戒感の全くない笑顔で話しかけてきた。きっと千代

のことを、講師陣の誰かと勘違いしているのだろう。

 ことのほかあっさり通過できてしまった懐かしの母校。旧館から続いて

いるアプローチをしばらく進むと、新館に行き着く。だが、かつての旧館

はすでに建て変えられ真新しい新館になり、かつての新館は年季が入った

旧館と化していた。

 千代は迷うことなくエレベーターに乗って、かつての新館五階のレッス

ン室に向かった。五〇三号室。思い出深い分厚い防音扉は、昔と変わらぬ

佇まいである。ちょうど目の高さに覗き窓がついている。その小窓の蓋を

わずかに持ち上げ、恐る恐る中をうかがってみた。


 ショパンのバラード第二番が聞こえてくる。それは千代が大学三年生の

ときの前期試験課題曲だった。静かに始まる冒頭のテーマ。ショパンらし

からぬ平易な旋律が続いて、いきなり嵐が訪れる難曲。

「始まりの穏やかなメロディーの中にこそ、深い悲しみが隠れているんだ。

君は失恋をしたことがないのか!」

と、情熱的に指導しているのは、若くてハンサムな、ロングヘアーの教師

だった。紛れもなく広川孝。そしてそんな孝を憧れのまなざしで見上げな

がら、彼の魅惑的な講釈にうっとり頷いているレッスン生は、岡部千代。

次なるパートの激しい展開に恋の告白を託して、孝のハートを捉えようと、

千代は野心にぎらついている。


 小窓の中には、熱い七十年代が流れていた。時はすでに新しい時代が始

まり、年号も平成に変わっている。世の中の仕組みも世界情勢も、大きく

変化を遂げた。でもそこには、千代の青春が厳然と息づいていた。

 思い出の五〇三号室には、年月がもたらす移ろいなんて、微塵も存在し

ていない。



 入学式の日、学生課の掲示板には、新入生がこれから実技の個人レッス

ンを受けることになる指導教官の名前が、張り出されていた。それを見て

初めて、岡部千代は自分が「広川孝」という教師に付くことになっている

のを知った。男の先生なんだ…。郷里で受験指導を受けていたのも年輩の

男性教師だったので、千代に違和感はなかった。

 それぞれの先生達の新しい門下生による初顔合わせの日程が、いっせい

に告示されている。千代は、未知の出会いに緊張を覚えた。私はこれから

ピアノ科の学生として、ちゃんとやっていけるのだろうか。もうここまで

きてしまったからには、後戻りなんて出来ない。でも、不安と逃げ出した

い気持ちが押し寄せてくる。東京に憧れ札幌から上京してきたのに、掲示

板を前に夢や希望は消失して、弱気な心が頭をもたげた。


 数日後、顔合わせの日がやってきた。新館五階の五〇三号室には、もう

何名かの新入生が集まっていた。男子学生も混じっている。あたりを観察

しながら全員がそろうのを待つ。待っている間に、段々心がざわついてき

た。学生とおぼしきその男子は、どうやらそうではないらしい。程よくお

洒落な長髪、ジャケットにジーンズのカジュアルなコーデュネイト、切れ

長の目がクールな印象を与えるルックス。それが「広川孝」だった。

 教師らしからぬ外見とは裏腹の落ち着いた物腰で、孝は語り出した。

「初めまして。今度、みなさんのピアノの個人レッスンを受け持つことに

なった広川孝です。どうぞよろしく。みんなピアノを学ぶために郷里から

出てきたと思うので、実技指導はもちろんですが、僕はみんなの良き相談

相手にもなりたいと思ってます。何か悩みや困ったことがあったら、いつ

でも相談してください。ボーイフレンドのことでもいいよ」

 そこでみんなが、どっと笑った。一気に緊張が解けて和んだ雰囲気の中、

今度は新入生達による自己紹介が始まる。全国から入学してきた女生徒の

誰もかれもが、孝との出会いに胸をときめかせているようだった。

 東京出身者は二人。帰国子女でみんなより二歳年上というエキゾチック

な顔立ちの美和子。裕福な家庭のお嬢様ふうで洋服のセンスが光っている

真知子。おきゃんで軽い感じだけど小柄で可愛い名古屋の純子、楚々とし

た和風美人の山口の小枝子、男っぽく不良っぽい言動で自分を演出してい

るような静岡の恵、か細く伏し目がちな倉敷の美津江。黒縁メガネで長身

の仙台の明美。千代も入れて、全部で八名だった。

 上級生も含めると、この大学の中だけでも孝のレッスン生はかなりの人

数と思われる。ライバルは多い。これから始まる恋のレース。何を武器に

戦えばいいのだろう。華も色気も持ち合わせていないおのぼり娘は、ひた

すらピアノの腕を上げ、自分の存在をアピールするほか道はない。


 旭川出身の和子と室蘭出身の英理子とは、入学式の日に友達になった。

大都会の空の下では、同郷というだけで、十年来の知己のように打ち解け

てしまう。そんな二人と、旧館と新館をつなぐアプローチを歩いていると、

向こうから孝がやってきた。レッスン生だから当然、あいさつをする。

「こんにちは」。孝も親しげに「こんにちは」と、柔らかな声で微笑んだ。

孝が通り過ぎると、和子と英理子は思わぬ反応をした。「千代、もう彼が

できたの?」「今の人、誰?」「ここの学生?」「何科の人?」と騒いで

いる。「えっ、何言ってんの? あの男性が、ピアノの広川孝先生だよ。

学生じゃないよ。若く見えるけど、もう三十歳の大人だもん」。

 孝を千代の彼氏と思ったという友達の言葉に、千代の内部でくすぶって

いた恋の炎が、いっきに炸裂した。やっぱりね。先生はカッコいいんだ。

誰が見ても歳より若く、師弟関係には見えない。

 新進作曲家としてマスコミにも登場し話題になっているS先生、心理学

者で著書も多く、ラジオのパーソナリティで人気をはくしている外来講師

のK先生など、有名人と言われる顔ぶれを学内で時々見かけることもある

が、千代にとっての憧れの存在は、これから四年間ピアノを師事すること

になった、広川孝ただ一人なのである。



 かくして、広川孝と新入生達による、ピアノの日々が始まった。

 学校でのレッスンの他に、個人的に教師の家で教えを受けるホームレッ

スンというシステムがある。ピアノは本来習い事の世界なので、先生の自

宅で習うという形式に、何ら不思議はない。美和子と真知子は、すでに孝

の学外指導を受けていたし、学生寮に入った地方出身者の面々も、さっそ

くつるんで孝の家にレッスンに通い出した。二~三人でレッスンに行った

帰りは、寮まで孝の車で送ってもらったり、ときに喫茶店でお茶をご馳走

になったり、楽しそうな師弟関係がスタートしていた。

 部屋を借り一人暮らしをしている千代は、寮から通っている友達が羨ま

しかった。六本木のキャンティというカフェにいた外国人は、フランスの

人気俳優ルノー・ベルレーだったとか、銀座の山野楽器のスコア売り場に

突然入ってきた男性が小澤征爾だったとか、孝に連れて行かれた先々で遭

遇したハプニングを、名古屋の純子や山口の小枝子から聞かされる度に、

千代は「すごーい」と、ため息を漏らすしかなかった。


 そんな千代にもホームレッスンの機会が訪れた。休講になったレッスン

の補講を孝の自宅で受けることになり、千代はいそいそ、最寄りの駅まで

出かけていった。「今度ね、九時に孝先生のお家にレッスンに行くことに

なったの」と、和子と英理子に言ったとき、「千代、それは危険だよ」と、

非難された。二人は夜の九時と勘違いしていたのだ。「朝の九時に決まっ

てるでしょ」といくら弁明しても、いつまでも冷やかされた。

 駅前で待っていると、路地の向こうから孝が迎えに現れた。学校で会う

ときと少し感じが違う。照れくさそうな目をして、行く方角を無言で指さ

す。千代はドキドキしている。「こんなんでピアノなんて弾けるの?」と

自問しながら、孝と並んで彼の家まで歩いた。


 レッスン生達は次第に気心も知れ、月日の流れの中で、仲良くなった。

みんな孝に恋している、という暗黙の了解。お互いに共通項を持つことで、

女の子達は盛り上がる。

「私たちは広川孝先生の生徒」。そんな意識で結ばれたレッスン生同志は、

また良きライバルとしても、互いに競争心を燃やし合った。今度の実技試

験で、誰が一番いい成績を取るか。トップはダントツに美和子に決まって

いるが、その後に続くのは誰か。負けたくない。ピアノで孝の心をつかみ

たい。そしていつの日か、孝の花嫁の座を射止めたい。


 教え子達の仲がいいのは、教師にとっても嬉しいことに違いない。孝は

レッスン以外のときにも、生徒をいろいろな場所に連れていってくれた。

白いセドリックでやってきて、女生徒達を乗せ、映画やボーリング、レス

トランと、大人の世界にいざなってくれる。費用はすべて、孝のおごり。

「君たちは、親ごさんから仕送りをしてもらってる学生なんだから、全部

僕に任せて」と、割り勘を受け付けてくれない。みんな孝の好意に甘えて、

「ありがとうございます」と礼を言いながら、「やっぱり先生は大人なん

だ」と、また憧れをつのらせる。



 こんな年月が続いて、卒業年度の四年生の夏がやってきた。

 池袋の喫茶店の一角で、いつものメンバーが孝を囲んで談笑している。

彼のプライベートに興味津々ながらも、誰も突っ込んだ話題には触れず、

今日まで時間が流れてきた。入学した頃は、独身で三十歳だった孝だから、

三年経った今は、三十三歳である。そしてこうやって教え子達と、相変わ

らずフランクに付き合ってくれる孝だから、まだ独身のはずである…。

 そんな期待は、見事に裏切られた。何気ない話題の展開から、純子が、

「先生は、子供が好き?」と尋ねると、孝はこともなげに、「僕には子供

がいるよ」と言った。店内は蒸し暑かったが、空気は凍りついた。小枝子

は泣き出しそうで、美和子は憮然とし、真知子の目は泳いでいた。千代も

自分のハートに、ぎざぎざマークの亀裂が走る映像が浮かんだ。

 タバコに火をつけ、ひと息深く吸い込んで、孝はゆっくり話し出した。

「君たちより三期上の卒業生と、去年、結婚したんだよ。バイオリニスト

の親友と飲んでたバーで、今すぐ電話で呼び出して、ここまできてくれる

女性を妻にしようと冗談みたいな賭けをして、彼女に電話したら、本当に

きてくれた。それで運命を感じて、彼女と結婚したんだ。子供は三ヶ月前

に産まれた男の児。可愛いよ。僕は子供が好きだよ」と、孝は純子の方を

見て、さっきの質問に答えた。

 みんな呆気に取られ、言葉を失っている。孝は、さらに続けた。

「君たちに僕の妻を紹介したい。近いうちに、みんなで遊びにお出でよ。

彼女も喜ぶと思うから」。どこまでも驚かせてくれる孝は、やはり今まで

会ったこともない、魅力的な大人の男性なのである。


 夏休みに入ったある日、みんなで孝の家にいくことになった。世田谷区

駒沢に佇む瀟洒な一軒家。そこがホームレッスンで通い慣れた孝の家で、

両親や、まだ独身の画家のお姉さんも同居する、彼の実家なのである。

 玄関のブザーを鳴らすと、「はい」という声がして、中からドアが開け

られた。控えめな感じのする可愛い女性が現れ、微笑んでいる。

「いらっしゃいませ。孝さんは草野球の試合に出かけ、まだ戻っていませ

んが、どうぞお入りください」と言う彼女は、肩まで垂らした緑の黒髪と、

大きな二重瞼の目が印象的で、清純派女優のようだった。この女性こそ、

並み居るライバルの中から孝に選ばれた、シンデレラなのである。

 千代たちは、いつものグランドピアノが二台並んだレッスン室ではなく、

奥の居間に通された。彼女はキッチンで入れた紅茶を大きなお盆にのせ、

テーブルに運んでくる。やや緊張気味に、ティーカップを並べ終えると、

「初めまして。孝さんの妻の映子と申します」と、丁寧におじぎをした。

五人の教え子達は、互いに目と目を見合わせ、無言の言葉を交わし合う。

「やっぱり綺麗な人だったね」。孝の妻という栄光の座を射止めた彼女は、

誰にも文句のつけようがない、可憐で愛らしい女性だった。

 スポーツ好きの孝が草野球からもどると、シャワーを浴びて、まだ濡れ

ている髪をタオルで拭きながら、リビングに現れた。清潔な白いシャツに

カーキ色の綿パン。「いやあ、みんな。お待たせしちゃって、ごめんね」。

ちょっと照れながら言う孝は、いつものようにさわやかだった。

 新妻の映子も加わりティータイムは楽しく盛り上がり、午後の団らんも

佳境に入っていた。そこへ、赤ん坊を抱いた孝の姉が現れる。

「みなさん、こんにちは。ボクがパパとママの息子のアツシくんです」と、

姉は赤ん坊に成り代わって、弟夫婦の子供を披露する。純子が感嘆の声を

上げ、「うわー、可愛い赤ちゃん! 抱っこさせてえ」と、赤ん坊を受け

取り、おどけた顔であやしている。「私にも貸して」と、小枝子が横から

孝の子供を奪い取る。


 そうこうするうち、空模様が妖しくなってきた。一天にわかにかき曇り、

瞬く間に夏の嵐になる。雷鳴がとどろき、轟音と稲光が交互に猛威をふる

う。「きゃー、私、雷、大嫌い。怖ーい」と、真知子が叫ぶ。雨が激しく

なり、風も強くなり、とても帰れる状況ではなくなった。

「みんな、泊まっていけよ」と、孝が言う。その孝のひと声で、彼の家に

泊まることになった。客間に敷かれた布団の上で、おしゃべりが始まる。

優等生の美和子の発言に、みんな爆笑した。「ついに脱いだ、孝の家で」。

そう言いながらランジェリーだけになり、彼女はシーツにくるまった。

「先生の家に泊まるなんて夢みたい」と、千代もこの現実が信じられない。

 嵐は、一晩中止まなかった。

 


 四月初めの東京は、桜が満開だった。あちらこちらの小学校では入学式

が行われているようで、真新しいランドセルを背負った一年生が母親と手

をつないで歩いている光景を、何度か見かけた。桜前線が北海道まで到達

するのは、まだ先のこと。一足早く咲き誇る桜を堪能することが出来て、

今回の東京の旅は正解だった。母校の音大の敷地内にも、見事なしだれ桜

が風になびいている。

 再び警備室のそばを通りかかると、守衛のおじさんが散った桜の花びら

を、箒(ほうき)でかき集めていた。千代に気づくと、また先ほどのよう

に深々と頭を下げて、「どうもご苦労様でございます」と言った。千代も

「ありがとうございます」と、あいさつをして正門を出る。きっと私に似

た講師が、教えにきているのだろう、と千代は嬉しい気持ちがした。

 札幌へ帰る飛行機の便までには、まだ時間がある。晴れ上がった暖かな

午後、千代は、近くの鬼子母神をお参りしていこうと思い立った。欅並木

は、昔と少し趣を変えてはいるが、健在である。

 境内に着くと、樹齢七〇〇年という「おおいちょう」が、今なお勢いの

ある勇姿で佇んでいる。本殿をお参りしてから、おみくじを引いてみる。

大吉と出た。「冬の枯れ木に春がきて花さき、黒雲晴れて月てり輝き…」

と文言が綴られている。


あの頃、T音楽大学で共に学び同じ先生に恋をした門下生達とは、卒業

以来、一度も会っていない。みんな郷里がばらばらで、集まる機会もない

ままだった。その後は、それぞれがそれぞれの道を、歩んだのだと思う。

でも、広川孝のことを忘れた人は、いないだろう。

 千代は、つくづく思う。東京にいってよかった。孝からピアノを学んだ

四年の歳月。そのとき蓄えられたエネルギーが、今もずっと、燃え続けて

いる。謝恩会の夜、いつもの五人はドレスのフレアーをひらひらさせて、

孝のセドリックに乗り込み、横浜の山下公園までドライブした。燃え盛っ

た炎の残像がある限り、人の心は朽ちて干涸らびることはない。

 

 千代は、おみくじを小枝に結びつけながら、沸々と生きる喜びが湧いて

くるのを感じた。


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恋から始まる音大生物語 丹之珠良(ニノジュラ) @juragarden1618

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