あとがき(中)「60×30」とはどういう小説なのか
※前回の「敬意を持った蹂躙」「自分の唾液を塗りたくって咀嚼し、吐き出す」というのは芥川賞選考委員の山田詠美の表現を拝借しました。私のオリジナルではありません、念のため。
ここからは「氷平線のストレンジャー」という物語がどのようにしてできたのかというお話です。
まず、私の「60×30」という小説に対する私見です。
初めて読んだ時に思ったことは、この人は本当にフィギュアスケートが好きなんだなあ、ということでした。
プログラム描写が緻密かつ濃厚で、非常に本格的。
一つ一つの技を繰り出す際にも、その前後をきちんと書いている。
結構世にあるフィギュアスケート小説を読むと、このへんを簡略化して書いているものが多いのですが(もちろんそれはそれでいい)、「60×30」は全然ズルをしていない、逃げていない、というのが第一印象でした。
フィギュアスケートをフィギュアスケートとして、真正面から書いている。
まっとうなフィギュアスケート小説。
今もバリバリそうなんですが、実は私の「60×30」という小説への感情はちょっと複雑です。
もちろん、大好きです。
今回書くにあたってすごく読み込んだということもあり、私ほどこの作品を愛している読者はいない、と胸を張って言いたい気持ちがあります。
しかし、それと同じくらい感じることは、とにもかくにも嫉妬です。
どうしてこんなに逃げずに書けるのか。
どうしてこんなにフィギュアスケートへの愛を真っ直ぐに表現できるのか。
「60×30」という小説は、全然ひねくれていないのです。
ただ好きだから好き。だから書いている。
一節一文から、黒崎さんのストレートな愛情が伝わってきます。
ここに私は、初めて読んだ時猛烈に――そして今も――嫉妬しています。
なぜなら、私は真っ直ぐに書くことができない書き手だからです。
私はフィギュアスケート小説を書いていながら、フィギュアスケートと向き合っていない。
フィギュアスケートを書いていると、逃げたくなります。
いつもどこかで近道を、逃げ道を探している。
私は自分の世界観を体現するため、疑問をぶつけるため、納得のいかないことは絶対に納得がいかないんだぞと絶叫するために、小説を書いています。
フィギュアスケートというのはその題材にすぎないのです。
もちろん私もフィギュアスケートという競技は好きですが、なぜか私の表現したいことにフィギュアスケートがぴったりハマるから書いている。要は、利用しているのです。
スタンスそのものが捻くれているために、表現も変化球にならざるをえない。
私の小説は幻想的だとか言われることがありますが、あれは観念に逃げているだけなんですね。
リアリズムと向き合えないから、マジックリアリズムに逃げ込んでいる。
「60×30」はまさにリアリズムの小説です。
そこには競技への透明な視線がある。
不純物が無い。
清冽な文体、真っ直ぐな愛情、屈託のなさ。
読むたびに、猛烈に嫉妬します。
どうしてこんな風に書けるんだろう、と。
その嫉妬はすぐさま自分への刃となる。
「なぜ私は、このように書けないのだ?」と。
……すみません、また長くなりそうです。
次回に続きます。
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