第18話 sequer
この話には後日談がある。
あれから五年後の三月。
俺は姉の引退試合を見届けに、北海道へ帰っていた。
姉は高校でスピードスケート競技を引退し、四月からは札幌の栄養系の大学へ進学することが決まっていた。
最後の大会は冬季国体。場所は帯広、十勝オーバル。
俺が横浜へ渡った翌年にできた、日本で(当時)二つ目の屋内スピードスケートリンクだ。
スピードは外、フィギュアは内。そんな感覚が根強かった道民にも、すぐにその存在は受け入れられた。
十勝オーバルができたことにより、道内で行われるレース記録は飛躍的に上昇した。屋内の方が整氷が行き届き、良質な氷が保てるからだ。
そんな氷の上を恐るべきスピードで走るスピードスケーター達を、俺は懐かしい目で見ていた。
「哲也、フィギュアで挫折したらいつでもスピード戻ってきていいよ」
観客席のベンチで、俺は
「……もう俺はあんな風には滑れないよ」
謙遜ではなかった。
いつの間にか、俺はスピードスケートの靴で氷上に立てなくなっていた。
それが具体的にいつからなのかは分からない。
スピードのブレードはフィギュアよりずっと細い。
あんな不安定なものの上で、平然と立っていた昔の自分が信じられない。
気付けば俺は、スピードスケーターではなくなっていた。
「冗談だよ」
佳希は少し気まずそうに笑った。
「世界ジュニアの代表にそんなこと本気で言えないって。ここがスピードの会場だからいいけどさ、隣のフィギュアの会場だったら、みんなびっくりするんじゃないかな。哲也がいることに」
「いや、案外俺気付かれないんだよな」
自虐気味に首をすくめて見せる。
自分が出場した試合の観客席に座っていても、あまり声を掛けられない。
周りが気を遣ってくれているだけかもしれないが。
「そういえば哲也ってさ、昔スラップの音なまら嫌がってたよね」
「えっ……あれバレてたのか」
「バレバレ。みんな知ってたと思うよ。もちろんカントクも」
佳希はニヤニヤ笑う。俺は耳が熱くなった。
「……何であんなにイヤだったんだろう。今じゃ全然平気なのに」
好んで聞きたいとは思わないけど、特別不快とも思わない。
佳希はうーんと唸って腕組みをした。
「子供って、そういうとこあるよね。感覚が過敏っていうか」
「そうだったのかな……」
「そうだったんじゃない?」
俺は黙って白い氷を見つめた。
じゃあ、14歳の俺はもう子供ではないのだろうか。
しかし、こうして久々に会う佳希を見て「成長した」とは思っても、「大人になった」とまでは思わない。
……俺は、大人になったんだろうか?
これもまたさっぱり分からないのだった。
「こっちこっち! 早く!」
突然、小学生の集団がバタバタと観客席の階段を降りてくる。
十人くらい。皆五、六年生だろうか。俺たちより少し年下に見える。
そして空席をきょろきょろと探し、あそこにするべ、と言って俺たちの隣にがやがや陣取った。
その時、隣に座ってきた一人の少年の横顔に、俺は目を奪われた。
「哲也、どうしたの?」
固まった俺の脇を、佳希が小突く。
声が出ない。呼吸が止まっていた。
「……何ですか?」
少年は、まずただならぬ俺の顔をまじまじと見て、それから首をくるりと向けて列を一通り確認した後、再び俺を見た。
「……君、あの時の……」
ようやくそれだけを口にした。
「もしかしてどこかで会ったことありますか?」
怪訝な目で俺の顔を覗き込む。
「あっ、
隣に座っていた子がひょいと顔を出した。
「何だ、オギちゃんの知り合い?」
「ううん。鮎川美咲選手の弟だよ。そうですよね?」
「……うん、まあ」
俺が勢いに圧されながら頷くと、マジー? なまらすげー! にわかに一角は盛り上がった。
「鮎川くんって今フィギュアの選手ですよね。でも、昔阿寒スプリント出てませんでしたか?」
「……出てたけど……」
阿寒スプリント、という単語にも隣の彼は特別反応せず、代わりにため息をついた。
「オギちゃん、それいつの話してんの?」
「いつだっけ……たぶん、僕たちが一年生の冬休み? で、鮎川くんは三年生?」
「げー、そんな昔の覚えてんの」
「いや、あの時シバちゃんもいたでしょ」
「いねーよ。俺高崎にいたし」
「たっ、高崎? 群馬の? 何で?」
オギちゃんと呼ばれた子は異常に動揺していた。
「うん。冬休みいっつもばあちゃん家帰ってるから」
少年は階下のリンクへと視線を向けた。
そのそっくり氷を映し出すような瞳に、やはりアイツに似ている、と思った。
しかし、こうしてアリバイが成立している以上、別人なのだろう。
足元を見る。足首があり、ちゃんと座っている。
……あの黒い霧は、もう忘れよう。
「あっ、美咲さん出てきた」
佳希が呟く。
少年女子の部、決勝。姉の最後のレース。
動作は落ち着いている。
玉虫色のサングラスの向こうの目は、真っ直ぐ氷を捉えていると分かる。
もうすぐ“Go to the Start”(位置について)の合図が聞こえるだろう。
俺は、静かに深く息を吸った。
「……名前、何て言うの」
「え?」
「鮎川、下の名前。お姉さんじゃなくて」
「……哲也。鮎川哲也」
「俺は、トーマ。
生霊?
ドッペルゲンガー?
……どちらにしても、これ以上は本当に
ここから先俺たちが交わした会話については誰にも話さない。
俺たちだけの秘密。
一つだけ確かなことを伝えておく。
刀麻は今もどこかで滑っている。
世界に氷がある限り。
(了)
※最後までお読みいただきありがとうございました。小説はこれで完結です。あと一話、後書きがございます。
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