第15話 fafnir

「哲也!」

 突然、後ろから声が聞こえた。


 ……ねえちゃん?

 俺は意識を取り戻した。と同時に、右足の爪先からアキレス腱まで焼け付くような痛みに襲われる。

 見ると、尻餅をついているすぐそこにぽっかりと穴が開いており、俺は右足を取られていた。

 ぶくぶくと何かが沸き立つ音が聞こえる。

 穴の縁の氷は薄く、太腿の下がミシミシと軋む感触がした。

 うわあ、と叫びそうになったが、声が出ない。這いずりながら後ずさる。

 駆け寄って来た姉のスノーブーツにしがみ付いた。


 見上げると、姉は鋭い目つきで何かを睨み付けていた。

 穴の向こうには少年が立っている。

 黒い靄が巻き付くように全身を覆い、顔はもう見えない。

 瞳だけがぎらぎらと光っている。それから足元の、銀色のエッジ。


「哲也に近寄らないで」

 はっきりとした声で姉は言った。

「私には分かる。あんたは、この世界の住人じゃない」


「君の弟はもう間もなく、滑る場所を失う」

 宣告するように、少年は言った。

 もはや少年の声ではなかった。男なのか女なのか、若いのか年老いているのか。その声の中では全てが混ざり合い、渦を巻いていた。


「……滑る場所?」

「魂は抜け殻に、身体は鉄の塊のようになる。そして気付く。屋根の下で滑るスケートは偽物だったと。……神の鳥には、空が無ければ」


「私の弟は鳥じゃねーよ!」

 ドスのきいた声が、湖上に響き渡った。


 黒い影が揺らぐ。

 タンチョウが消えていた。吹き溜まりにも、少年の周りにも、どこにもいない。


「哲也はフィギュアスケーターなの! 本物か偽物かなんて知るか! そんなこと、私達は興味が無いんだよ! 滑ることで精一杯なんだから! ……こんなこと、あんたには分からないだろうね」

 一息に言うと、姉は勝ち誇ったような、しかしどこか寂しそうな微笑を口元に浮かべた。


 風が吹き抜ける。

 黒い影の揺らぎが止まった。

 俺ははっと気付いた。

 足首が無い。


 パキパキ、と音が聞こえる。

 氷穴から一斉に放射状にヒビが走り出す。


「哲也! 走るよ!」

 姉はぐいっと俺の腕を掴んだ。

「あ、足が……」

 引っ張られながら、やっと声が出せたと思った。

「何!?」

「足が動かない……」


 凍傷か恐怖か、右足の感覚がまるで無かった。

 姉は寸分の迷いも見せず、すっと背を向けてしゃがみ込んだ。

「乗りな。ねえちゃんの背中に」

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