第13話 flowering

 あるはずのないフィギュアスケートの靴が、足を覆っている。

 俺は狐につままれたのだろうか。

 それとも、夢を見ているのか――

 気泡が弾け、白く小さなクレーターのように凹んだアイスバブルの跡を見て、我に返った。


「……こんなでこぼこな氷で、フィギュアスケートをやる方がどうかしてる」

 顔を上げ、俺は言った。

 しかし、彼はニヤニヤと笑ったままこう答えた。

「試してみたら?」

 

 そしてふっと顔を背けたかと思うと、ぎゅんと一蹴りでさらに湖の奥へと滑り出した。

 すぐに蛇行する。吹き溜まりを避けているのかと思いきや、バックスネークで大きくエッジを使っているのだった。一歩、二歩と慎重に。

 しかしその歩幅は次第に大きくなる。ターンし、足を替える。


 再び最初から俺なんかいなかったかのように自在な緩急で氷の感触を楽しむ彼の滑りを見ていると、足がうずいた。

 この突然生えたブレードがどんなものか、信用できたもんじゃない――とは、この時考えなかった。

 靴を履いているから滑る。限りなく自然に、足は滑り出していた。


 彼を追う――わけではなく、吹き溜まりを避けると、自然に彼の滑る方へと導かれていくのだった。

 それは、今思えばこうとも考えられる。彼が滑る場所を切りひらいてくれた、と。

 雲間から細くオレンジ色の陽光が幾筋も差す。この季節には珍しいほど柔らかな光だった。


 やがて俺は彼に追いつく。待っていたのかもしれない。

 でもその顔はのっぺりと平らで、どんな感情も読み取れなかった。まるで能面のように、さっきまで見せていた勝手気ままな表情は消え失せていた。

 両腕を力強く開き、フォアクロスで進む。

 その所作は一本の細い糸を渡るような、日本舞踊のすり足を彷彿ほうふつとさせた。幅広く長い袖に自らの指先を隠す、袖がはためくイメージがぎる。


 俺もまた同じように滑っていた。サイドバイサイド。

 真似というより自然に身体が動いてしまう。意識が介入する隙が無い。

 だからそれはトレースではなく、シンクロだった。


 いつの間にか足元に花が咲いていた。白い氷の花。

 小さな霜の結晶が寄り添い、花びらのように放射状に開く。

 それは蓮の花に似ていた。氷の下に根を張り、互いに手を伸ばし、絡み合っているのかもしれないと思った。

 凍結した湖という、氷の楽園。


 もし場所そのものに命が宿るのだとしたら、それは神と呼べるだろう。

 だが、神は決して人の前に姿を現さない。

 現れるとしたら、人の形を借りて――


 バックエントランスから、キャメルスピン。湖面の冷気をたっぷり吸い込むように回る。雄大に広げた両腕が羽根に見える。

 手首を返し、右腕を体軸へと仕舞い込む。ゆるやかに半円を描いて。

 まるで竜が渦を描くように。


 気付けば俺は滑るのをやめていた。

 透明な氷の鏡に、俺自身が映っている。

 自分なのに、他人を見ているみたいだった。

 凍結した気泡の先、水底をべる存在を、信じて疑うことのない瞳。


 美しい。

 しかし、何かが欠けている。



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