第10話 vertigo

 放心状態で外に出る。

 足が重い。スピードの靴ってこんなに重かったか。

 ふらついたところを横からがしっと支えられた。

 カントクだった。


「テツ! すげえな、ノーマルでこのタイムは破格だ」

 破顔も一瞬、真顔で囁く。

「……お前、スピード戻ってこないか。その足、やっぱりフィギュアに使うのはもったいねえべ」

 もったいない?

 抱かれている肩、薄いレーシングスーツに熱い体温がこもる。

「テツ。氷上は広いぞ。屋根の下でちまちまやるより、空の下で……」

 カントクは語尾を放棄し、力強い目をリンクへと向けた。


 その時俺の心に蘇ったのは、つつみ先生のスケートだった。

 暗闇の中ぼうっと光の玉が浮くように、先生は滑っていた。

 バラード第一番。

 氷上をつづれ織るように、先生のトレースは楽譜を描いていく。

 そして、ふわりと飛ぶ。まるで鳥が羽ばたくように。

 広さ。高さ。立体感。無限。

 そこに在るのは、一つの宇宙だった。

 俺の身体は急速に冷めていった。


「……次、佳希よしき走ります」

 俺はするりとカントクの腕をすり抜けた。

「おお、そうだな」

 向けられた目の冷たさで、俺の気持ちもまた伝わっていると分かった。

 俺がスピードに戻ることはないということ。

 屋根も空も関係ない。

 ここの方がずっと狭くて息苦しい。

 ここで生きてきたカントクにそれは分からないし、伝える術も無いだろう。


「哲也! あんた大丈夫なの?」

 ざくざくと固い雪の音を立てて、カントクの後ろから姉が走ってきた。

 姉はいつになく深刻な表情を浮かべていた。

「大丈夫って何が」

 苛立ち紛れに答えると、

「何って……あ、足、ふらついてるでしょ」

 妙に目を泳がせる。何か他のことを言いたいけどうまく言い表せない、そんな風に。

「……久しぶりに全力で走ったから、疲れただけだよ」

 ため息をつきながら、氷上に目を遣る。

 佳希がスタートラインにつくところだ。雪がひどくなってきたからか、サングラスを着けている。

「でも……なんか、レース中も、別人みたいで」

「いや、滑ったのは俺だし」

「そうじゃなくて、なんか、顔色も最初からヘンで……」

「うるさいな!」

 気付けば俺は声を張り上げていた。

 姉はびくっと肩を震わせ、目を見開いた。

 間もなくレースが始まるというのに小競り合いを起こした俺たちに、迷惑そうな視線がにわかに集まる。

「……ごめん、ちょっと、あっちで見るから」

 吐き気がする。身体はどんどん重くなっていた。


 俺はエッジガードを着けると、人がまばらなスペースを見つけ、ふらりと身体を滑り込ませた。

 フェンスに顎を乗せ、体重を預ける。


『Go to the Start』

『Ready』

 パン、とピストルが鳴り、スケーター達は一斉に走り出した。

 氷面には何も映らなかった。

 あの時確かに捉えたはずの光は、気配すら見えない。


 佳希はダッシュで躓き、出遅れた。500mでは致命的なミスだ。

 しかし、それを差し引いてもなお遅く感じる。

 ……いや、佳希だけじゃない。全てのスケーターの動きが、スローモーションに見える。

 それでも網を張っているかのように、俺の耳は佳希のスラップ音を執拗に拾った。

 やっぱり右だ。右が遅い。

 鼓膜に響くアンバランスなリズム。

 ダッシュ区間を終え、続々とスケーター達の身体が左に横倒れていく。


『ゴールライン、先頭通過は――』

「腰高い! もっと落とせ落とせ!」

「こっからこっから!」

「コウジー! がんばってえー!」


 溢れる音にかき混ぜられ、俺の三半規管はぐちゃぐちゃになっていた。

 視界が霞む。雪なのか、目眩なのか。

 白く紗の掛かった世界で、スケーター達の黒い影が滲んでいく。

 ぐにゃりと膝が折れた。全身の力が抜ける。

 しかしフェンスに頭を打つ間際で、揺れが止まった。

 冷たい腕に、俺は抱きとめられていた。


「大丈夫?」

 遠のいた意識が瞬時に戻る。

 その澄んだ声には聞き覚えがあった。


「……っ、お前!」

「顔色悪いよ、貧血?」

「触んな!」

 めいっぱいの力で振り払う。

 後ずさるとまた膝ががくっと折れそうになり、フェンスを掴んで堪えた。


「きみが倒れてきたんでしょ、ぼくは横にいただけだよ」

 呆れたようにふっと笑うと、目線を氷上へと戻した。

 ぐわんぐわんという音が脳内でこだましている。

 まだ頭が揺れている。

 バババババ! とどこかの保護者の一団が膨らませたバルーンのようなものを叩き合わせ始めた。

 レースは今走者達がまさに目の前のコーナーを抜けるところだった。

 最後の直線。歓声が飛び交う。

「いけるぞ! 逃げきれ!」

「だから腰落とせって!」

「最後まで最後までー!」

 カンカンカンカン! スラップの音が幾重にも重なり響く。

 リズムもなく調和もない。

 ただ前だけ目指して猛進するブレードの音。


「ここうるさいね」

 彼の声は驚くほどクリアに届いた。

 そして再び真っ直ぐ俺の目を見る。

「ねえ、もっと静かな場所へ行かない?」


 続々とゴールラインを切るスケーター達は降りしきる雪の向こうへ消え、残像も見えない。

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