第9話 phantasm

 音ではなく、光を追いかけている。

 目測ではおそらく一秒の距離。

 これ以上差が広がらないように。


 コーナーが終わる。

 その時、相手の軌道がほんの少し膨れた。

 ゆらりと氷に置かれたブレードが妖しく光る。

 今だ。

 俺はすぐ後ろについた。

 バックストレート。

 今はシングルトラックだから交差区間は無い。

 そもそもあらかじめアウトから俺を抜いた彼に、進路を譲る義務は無い。

 俺が抜き返すとしたら、同じようにやり返すしかなかった。

 すなわち、最後のコーナーの直前で前に出て、そのまま振り切るという風に。


 あたかもパシュートで隊列を組むかのように、俺は彼の後ろにつけていた。

 自然と足が揃う。腕の振りまでも。

 真似をしているわけじゃないのに、シンクロしていく。

 気付けば身体が軽かった。風の抵抗を感じない。

 ……どうして?

 横断幕が目に入る。

 

“風になれ! 柏林スピードスケート少年団”


 ……風に、なっているのか? 俺は。

 ちがう。風は彼だ。

 空気抵抗をものともせず、走り抜けていく。

 俺は今、彼が作り出した風の中にいる。

 風が生まれる、一番近い場所。


“風の音を聞け 鶴見原SSC”


 ……音。聞こえない、何も。

 風の音も。自分のブレード音も。


 リンクの回りを、興奮した人々が取り囲んでいる。

 その中に、姉がいた。

 姉は目を見開き、口を大きく開け、何か叫んでいた。


 ……聞こえないよ、ねえちゃん。

 ここは、何も聞こえない。


 目の前の黒い影に視線を戻す。

 追っているのか、引き付けられているのか分からなかった。

 身体は軽く、神経は波打たない。

 空を飛んでいるみたいに自由だ。

 音の無い空間が、こんなに気持ちいいなんて。


 ストレートが終わる。コーナーの入り口。

 抜け出すならここしかないと分かっていた。

 なのに、飛び出せない。

 無音の空間に揺蕩たゆたい、俺は身体の輪郭を忘れていた。


 その瞬間、強烈な重力が俺を襲った。

 脚が乱れ、腰が浮く。ペースを失う。

 転びそうになるのを必死でこらえた。


 離れていく。

 俺をあざ笑うかのように、黒い影が遠ざかっていく。

 呆れるほどに、甘く外側に膨れながら。

 追いつく術が無いことは分かっていた。

 本当に甘いのは、俺だった。


 そうだ。スピードスケーターならば、自分の前を走る者を許してはいけない。

 たとえ、それが神様であっても――


 最後の直線。

 なりふり構わず加速した。

 それでも届かない。

 前からも後ろからも音は聞こえない。

 ひたすら走った。


 ゴールを切る。

 揺らめく残像が一足も二足も先に、駆け抜けていくのを見届けながら。


 歓声と拍手が爆発した。

 同時に、心臓が破れるほど激しい自分の呼吸に気付く。

 全身の力が抜ける。

 膝に手を当てて崩れ落ちる身体を支えた。

 ブレードに残るスピードの名残に身を任せながら、舞い戻ってきた音の世界に戸惑う。

 しかし、その戸惑いは次の瞬間恐怖へと変わった。


『ただいまのレース、一位、白、鮎川、56秒31……』


 空に響き渡る滑らかなアナウンスに血の気が引いた。

 がばりと上体を起こし、前を見つめる。


 乳白色の氷上。

 視線の先には、誰の姿も無かった。

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