第6話 mutilation

 氷の状態は悪くなかった。

 日本で唯一の天然公式リンクは、整氷も丁寧にされている(屋外でザンボニーを初めて見た)。


 それでも俺はやっぱり外で滑るのが好きじゃない。

 屋外のリンクは風に吹きさらされていて、感覚がむき出しになる。

 全ての音が氷に跳ね返り、耳に飛び込んでくる。

 毛羽立つ氷面を凝視する。

 トレースを縁取るように積もっては気まぐれな風に吹き崩される氷の屑。

 空を見上げる。同じ色。

 吸い込まれそうだ。どこまでも白い。

 雪は止まない。


 リンクサイドの姉にコートを預けに行った。下に着ているミズノのレーシングスーツは姉のお下がり。


「哲也、あんた大丈夫」

「え、何が」

「顔色悪いよ」

 姉はやけに深刻な顔をしていた。

「……そうかな?」

「うん、すごい白い」

 そう言われるとなんだか寒気がしてきてぶるっと肩が震えた。


「美咲! あんたレース前にそういうこと言うのやめなさい」

 母が強い語気で割って入った。

「元々哲也は色が白いの! いつも屋根の下で練習してるんだから」

「そうかなあ、なんか氷と同化しそう」

 たしなめられても首を傾げながらずっと見つめてくるので、鬱陶しくてきびすを返した。

 母の言う通りだ。姉はずけずけしすぎだと思う。

 レース前に集中力を削ぐようなことを言うなんて。


「……佳希よしき、俺の顔どう?」

「え、急に何?」

「顔、白い?」

「ええ……なんも。いつも通りだよ、たぶん」


 小三男子、500m。

 五人の選手が一列に並ぶ。

 内側から赤、青、緑、白、黒の五色の帽子をそれぞれかぶっている。

 俺たちは中地の待機列からそれを見ている。


『Go to the Start』(位置について)

 選手たちの動きがすっと止む。


「哲也、あのおじさん」

 こそっと佳希が耳に唇を寄せた。

 見ると、レーンの向こう側にニット帽をかぶったすらりとした人が腕組みをして立っている。

 人だかりから頭一つ抜けて背が高い。引率の札を提げている。

 おじさんと言うには少し若めの気がした。


『Ready』(よーい)


「あれが柏林はくりんの監督?」

「うん、シバ……」

 パン、とピストルが鳴り意識を奪われた。

 一斉に走り出す。スラップの大合奏。

 ヒステリックに鳴り響いたのもつかの間、すぐに遠ざかる。


『一組、レースがスタートしました』

 意気揚々とした女の人の声が流れる。

 相変わらずスピーカーの音は割れていた。


「じゃあ、行ってくるね」

 俺は二組目だった。佳希は三組目。

「うん、頑張って」

 そう言って佳希は自然に手を挙げた。

 ハイタッチを求めているということに気付くまで少し時間が掛かった。慣れてないので照れる。

 ぽん、と柔らかな音が鳴る。手袋越しでも温かく感じた。


 中地からウォームアップレーンへ。

 同組の選手は足をぶらぶらしたり肩を上げ下げしたりして、誰も喋らなかった。

 どいつが柏林の選手? 

 ……分からない。ゼッケンを付けていないから。体格も皆似たような感じだった。

 カントクに聞いておけばよかった。


 前組のトップ走者がコーナーを曲がる。

 直線のわずか前で上体を戻す。うまい。

 そのまま最後のストレートへ一気に加速。


“風になれ! 柏林スピードスケート少年団”

 リンクサイドの横断幕が目に入った。

 その隣に張り合うように、うちの横断幕も掲げられていた。

“風の音を聞け 鶴見原SSC”

 ああいう標語は誰がいつ考えるんだろう。ずっと前から受け継がれているんだろうか?

 同じ風でも「なれ」と「聞け」ではだいぶちがう。

「なれ」は速そうだけど、「聞け」の方が一歩引いて冷静な感じがする。少なくとも俺には合っている。

 音楽の鳴らないこの氷上で、風の音を聞くということ。

 深呼吸し、一度目を閉じた。


 ゴオ。

 一瞬で迫り、一瞬で遠ざかる疾風。

 それに巻かれている時、俺はとてつもなく長く感じた。

 暗いトンネルをくぐっているように、自分が今どこにいるのか分からない。

 目が開けられない。

 透明な空気の塊が通り過ぎる。

 凍り付かせ、奪う。肉体の水分も、空気中の水蒸気も。

 水と名前の付くものは全て、氷に変えて。

 マントのようにはためく波動は、全てを舐め取る。

 その中心は、人の形をした――


 キィン、と強烈な高音が照射するように響き渡った。

 身体が強張る。意識が遠のく。

 いつか図書室で借りた「学校の怪談」のキャトルミューティレーションのページがフラッシュバックした。


『――失礼しました』


 目蓋が開いた。

 視界を埋める白い光の明度が上がっている。

 雪が強くなっていた。


『一位、緑、加藤。58秒76。二位、黒……』

 ぶつりぶつりと砂嵐のようなノイズに時折阻まれながら、一組目のタイムが読み上げられていた。

 ……マイクのハウリング。

 不気味な高音の正体が分かり、俺は胸をなで下ろした。


「ダイアモンドダストみたいだね」

 ふいに隣で声がした。

「え?」

 それが明確に俺に向けて発せられていたので、俺はそいつの顔を見た。

「この雪。降ってきてるんじゃなくて、今生まれてるみたい。そう思わない?」

 知らない子供だった。



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