第5話 nostalgia
リンクを降りても、待機所に戻る気にはならなかった。
電光掲示板を見上げる。気温、-7℃。
数字の上では釧路より寒い。でも、不思議と寒さは感じない。
ウォームアップで筋肉は十分温まっていた。冷たいのは肌だけだ。熱のバランスは今がちょうどいい。
「テツ! わりいな」
リンクサイドの方からカントクが歩いてきた。大股で、でも滑らないように慎重に足元を確かめながら。
「カントク」
ポケットから両手を出し、頭を下げる。
こんにちは、と続けたつもりが、思ったより口が開かなくてもごもごした。
面と向かって話すのは一年半ぶりだった。
去年スピードを辞めてから、俺は何となくカントクを避けていた。スピードから逃げたわけじゃないのだから堂々としていればいいのに、いざカントクの姿を見るとうまく話せなくなる。
「トモアキのヤツ、インフルエンザだとさ」
「あ、はい、母さんから聞きました」
「お前は元気そうだな、背も伸びたしな。フィギュア楽しいかい」
「はい。えっと、この間四級受かりました」
「級? フィギュアって級があるのか?」
「はい、あります。……あの、カントク」
「何だい」
ごくりと唾を飲む。言い出すのには勇気が要った。
「俺、ノーマルなんですけど、いいですか」
「なんもなんも! ノーマルで十分」
カントクは笑顔でうなずき、がしっと俺の肩を抱いた。
「さっきウォームアップ見してもらったけど、お前ちっともなまってねえな。来てもらえて助かったわ」
「はあ」
……助かった? 何が?
半ば拉致されたように抱えられながら、身体ごと建物と反対側のテントを向く。
「あっちさ看板見えるべ? もうわずかしたら呼ばれるから、よろしくな」
カントクは俺を解放すると、手をひらひらと振ってまたリンクサイドの方へと戻って行った。
相変わらず嵐のような大人だ。
ベンチコートのシワを払いながらため息をつくと、
「……カントク、
いつの間にか隣に
「おわ! いるなら言ってよ」
「ずっといたよ。カントクにびびって気付かなかったんでしょ」
鋭い……
「え、柏林って、帯広の?」
柏林の少年団は速くて有名だった。
佳希はうなずく。
「なんか、同じオリンピックの選手でライバルだったって」
「そうなんだ……それで?」
「同じ人数揃えたかったんでしょ」
びゅう、と冷たい風が吹く。
「……俺、大人のケンカに巻き込まれたってこと?」
「んだね。まあ、ぼくはまた同じ大会に出られて嬉しいけど」
佳希はニヤリと笑い、俺の肩をぽんと叩いた。
「もしかしたら、“ノーマルなのに速い”って隠しキャラなのかもよ、哲也」
「俺はキャラじゃない!」
釈然としない。
でも小突き合っていると緊張が和らいだ。
ふと胸に生暖かい痛みが湧き上がり、何だろうと一瞬戸惑う。
痛みはすぐに消えず、じわじわと身体全体に染み渡る。
それが懐かしさだと気付くまでに、少し時間が掛かった。
フィギュアのクラブで、男子は俺だけだ。それを寂しいと思ったことはない。
60×30mの銀盤は、元々一人きりの場所だから。
でも、クラブの女子は他愛ない軽口を叩いてじゃれ合う。それが彼女たちの日常だ。
仲間に入れてほしいとは思わない。俺は女子になりたいわけじゃない。
その様子は、ちょうど今の俺たちに似ている。
俺にも確かにあった。一人じゃないスケートが。
俺は今、過去をなぞっているのだと思った。
チラリと白いものが佳希の肩で光る。
「あ、雪」
俺は空を見上げた。
白い雲が覆い尽くす天から、降るというより生まれるように、雪片は次々と舞い降りた。
「まじかー! レース終わってからにしてほしかったー」
佳希は頭を抱えている。
「リンクコンディション、やっぱり悪くなるかな?」
「当たり前でしょ! 哲也、見に行こう!」
俺たちは走り出した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます