第4話 whitenoise
氷は空と同じ色をしていた。今にも雪が舞い降りてきそうな、重い乳白色。
400mトラックのリンクは確かに広い。でも、果てしなさは感じない。
むしろ俺は閉じ込められていると感じる。ぐるぐると何周も同じところを回り続ける輪の中に。
60×30mのリンクで感じる、あの宇宙のような広大さはここには無い。
銀盤とはフィギュアスケートだけに与えられた、氷上世界の別宇宙の名前なのかもしれない。
久々のスピードの靴の履き心地は固い。
とはいえ、冬休み前に体育の授業で履いているから、せいぜい一ヶ月ぶりのことだ。
久々というのはフィギュアと比べての話。フィギュアの靴はほぼ毎日履いているから、一日履かないだけで落ち着かない。
それでも、こうしてスピードの靴を履いて氷に足を乗せても、俺は転んだりはしない。
ブレードを通して身体のモードが決まる。一度氷に足を乗せてしまえば、それはもう覆らない。
……誰にも信じてもらえないから、いつしか俺はそんなことは口にしなくなった。
フィギュアスケーターもスピードスケーターも、互いを別の生き物だと思っている。
俺のように境界線を踏み越えるスケーターはコウモリのように不気味がられる。
そういうのは面倒くさいし、結構傷付く。
だから今、スピードスケートの靴を履いて400mのロングトラックにいる以上、俺はスピードスケーターとして振舞う。
そう決めていたのだけど……
「ダイスケー! けっぱれー!」
「行ける行ける行ける! 前出れ、前!」
「お兄ちゃーん! 負けるなー!」
「一回目通過、先頭、赤、井上、38秒12……」
外側のコースでは小四男子の1000m予選が行われていた。
沸き立つ歓声、飛び交う怒号。音割れしたスピーカーのアナウンス。
思わず耳を塞ぎたくなる。
そうだった。スピードのレースは、こうだった。
絶えず人の声が溢れる氷上。
それがスピードスケートのリンクだ。
まるで閉ざされた空間で、氷が音を反射して増幅しているように感じてしまう。
今日のように、空と氷が同じ色の日は尚更。
内側のウォームアップレーンを流していた足が、今にも止まりそうになっていたその時。
カチャ、カチャ……
金属が噛み合う独特の音が背後に迫ってきた。スラップの音。
外側のレーンではない。同じウォームアップレーン。
明確に俺に向かってきている。このリズムは……
「哲也」
声を掛けてきたのは、やっぱり
「どこにいたの、ずっと探してたのに」
俺は振り向き、速度を緩めた。
佳希の頬はいつもに増して赤かった。ずっと外にいたんだろうか。
「あー、車の中にいたよ」
上体を起こしたまま、並ぶようにゆっくり滑る。
「哲也の姉ちゃん、なまらすごかったね」
「まあ、ぶっちぎってたな」
「ぼく今のうちにサインもらっておこうかな」
「え、何で?」
「オリンピックとか出るかもしんないっしょや」
「それはやばい」
笑いながらも、ありえない話ではないと思った。
今日姉はリンクレコードを更新したし、道内レコードにも迫る勢いだ。全国大会も見えている。
このままスピードを続けて、高校は北体大付属か
姉が滑ると風が吹く。
ゴオッと轟く大地の音。自然の音。
それは頬が切れるほど鋭く冷たい。
いつも俺が一番近くで感じてきた風。
うわっと歓声が上がった。
カンカンカン! とブレードが氷を叩く音が一斉に加速する。
ラストスパートは大混戦だ。
しかし、佳希はレースの方ではなく俺を凝視し、腕と足を上げたり下げたりしていた。
「……何してんの?」
「うーん……ちがう。こうかな?」
佳希は真剣な面持ちでゆっくりと腕を振り、足に体重を預ける。
「だから何?」
俺が苛立ち紛れに言うと、
「さっき後ろで見てたの思い出してた。哲也、腕の振りがブレないから、やっぱりすごいなーって」
佳希は純真な尊敬の念と共に微笑む。
俺はどう言葉を返せばいいか分からなかった。
よく言われることだ。スピードに専念していた頃も、体育の授業でも。
「
……でも、俺はフォームが綺麗であることに何の感情も抱けない。
スピードスケートは速さを競う競技だから、無駄を省けば自然とフォームは定まる。空を切る弾丸のように。
確かにそれも美しい。
けど、そこにバリエーションは無い。
60×30mの氷上で、音と動きが絡み合い解けるような、
「……佳希はさ、右が遅いよ」
腕と足を流れに乗せたまま、ぽつりと言った。
「え、なして分かるの」
「音。スラップの」
正確に言えばリズム。
特に直線で右のブレードが氷に乗る時、いつもほんの少し間延びする。それがむず痒い。
「音、かあ……」
途端に佳希の速度が落ちる。
「……どうしたの」
振り向くと、うつむいた顔に影が差して見えた。
「哲也ってさ、やっぱりもうフィギュアスケーターなんだね」
影を持ち上げるように、佳希は視線を上げた。俺は息を呑んだ。
「見えてる世界がちがうんだなーって。や、聞こえる世界?」
混じり気の無い声が鼓膜を透過し、そのまま胸を走る。一筋の痛み。
「でもぼく、哲也がスラップで滑るの見てみたいって今でも思うよ。絶対速いっしょ」
そして佳希は俺を追い越すと再び上体を倒し、一気に加速した。
ゴオ、とつむじ風が巻き起こる。
俺を置き去りにする音。
全ては一瞬のことで、鼓動が一鳴りすればもう喧噪の世界が戻っていた。
400mロングトラックの氷上。
それは、戻ってきてくれというメッセージではないのだろう。
思わず
――スピードに未練なんか無い。
信じて疑っていなかったはずの気持ちに
やっぱり、今日は来なければよかったのかもしれない。
駆り立てられるように、俺は足の動きを速めた。
重心を身体の中で転がす。やがてそれは俺自身を転がすようになる。
逆転。その勢いで上体を倒す。
ぐっと強く足を踏み出す。
目線は下。
――スラップでは滑れない。
俺もまたむき出しの気持ちで思った。
スピードスケーターなら誰もが身に着けるスラップシューズを、俺の身体は受け付けない。
こうしてカーブに交互にエッジを置く音も、ノーマルだから耐えられる。
スラップの金属音は刺さる。鼓膜に、皮膚に、心臓に。身体ごと金属になって叩かれるみたいだ。
氷上の閉塞感はどこよりも息が苦しい。
せめてこの輪を
カーブが終わる。加速。空気抵抗をゼロへ。
どこまでも行ける直線が欲しい。
架空の氷平線を俺は見据える。
身を溶かすのは無音の世界だ。
どんなに速く滑っても、俺の身体からあの音は生まれない。
風の音。大地の音。
ここは、俺の居場所じゃない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます