第3話 alternate
ショパンが鳴っている。バラード第一番。有名な曲。
でも、俺にとっては
去年、フィギュアに専念する覚悟を決めさせてくれたあの演技。
60×30mの銀盤で、たった一人舞い踊る。
まるで音を奏でるように。音そのものになるように。
心が音の粒に吸い付く。
滑らかなスケーティングが、加速するスピンが、細かく踏み分けるステップが、そして何よりジャンプ――トリプルアクセルが、助走、踏み切り、回転、着氷、何一つ零れ落ちることなく氷上の楽譜へと変わる。
激情的な残像が、最後は儚く消える。
コンポがカチリとCDを止めた。
無音。
いつも思うことがある。
終わった後、音楽はどこへ消えるのだろう?
そっと目を開けた。
窓の外、白の世界に目が眩む。
地面も、山も、空も。見渡す一面、雪と雲で真っ白だ。
そして、氷。
400mロングトラックの、阿寒湖畔スケートリンク。
雪が少ない釧路に育った俺は、ここまで雪深い白銀の世界にはあまり馴染みが無い。
でも、住所の上ではここだって釧路なのだった。
平成の大合併で阿寒町は五年前に廃止され、釧路市の一部となった。
いまだにピンとこない、と首を傾げる両親に俺も同意する。
こんなに真っ白な別世界が釧路だなんて。
コンコン、と窓を叩く音がした。
ニット帽をかぶった姉が車の外に立っていた。
「……哲也。やっぱりここだったね」
ドアを開けると、姉と一緒に冷たい空気が入ってきた。
「ねえちゃん。何で分かったの」
「待機所うるさいからさ、いるんなら車だろうなと思って」
バタリとドアが閉まる。
姉の言う通りだった。待機所は暖かいけどうるさすぎる。
大人も子供もずっと喋っているし、常に誰かが何かを食べたり飲んだりしている。その音が耳障りでたまらないのだった。
「お母さんは?」
「おばさんたちと話してくるって。すぐ戻るって。でももう三十分経ってる」
あははと姉は笑い、ビニール袋を差し出す。
「これ食べな。あんたもうすぐ本番でしょ」
「ありがとう」
袋の中身は肉まんだった。まだ湯気が出ていて温かい。早速袋から出してパクつく。
「美味しい?」
「うん」
「セコマのとどっちが美味しい?」
「セコマ」
「あはは、だよね」
「そういえば一年の時さ、練習行く時にバス待ってたら先生に肉まん盗られたって話、ねえちゃんにしたっけ?」
「何それ。知らない。先生って、堤先生?」
「そう」
姉は声を失ったように絶句していた。
「なんかさ、俺バス停で昆布のおやつ食ってたの。そしたらまずそれちょーだいって先生が言ってきて。初対面で。怪しいじゃん?」
「うん。怪しすぎる」
「だから無視してたらさ、俺がこれから食べようと思ってた肉まんを横取りしてきたの」
「……そっ、それドロボーじゃん! 大人として、いや人としてありえないんだけど!」
俺は肉まんを食べきり、お茶を一口飲んだ。
そう、その人としてありえない大人にフィギュアスケートを師事しているのが俺。
あのだめな大人はフィギュアスケートに関しては、一流中の一流なのだ。
「でもその後バスおごってくれたからさ、チャラ」
「……あんたって本当に堤先生好きだよね」
「いや好きではない」
わざと乱暴に言い放って、小さく畳んだ肉まんの紙を袋に入れる。
姉は先生を恨んでいるのかもしれない、と思った。
弟をスピードの世界からフィギュアの世界へ
でも、俺は前からフィギュアが好きだったのだ。先生との出会いはきっかけにすぎない。
ずっと、氷の上をただ速く滑るだけではつまらないと思っていた。スピードに未練なんか無かった。
ホッケーかスピードか――道東の少年が皆迫られる冬の二択で、片方を選んだだけだから。
「で、先生知ってるの? 今日出ること」
「知らないと思う。言ってないし」
「え、大丈夫なのそれ。怒られるんじゃない?」
「そういうので怒る人じゃないと思う。それに今先生忙しいんだ。アイスショーのツアーで」
へえ、と要領を得ない声で姉は言い、曇った窓を擦った。
母はまだ戻ってこない。
「それにしてもあんたもお人好しだよねえ。補欠に名前貸すまでは分かるけど、本当に出てあげるなんて」
ニヤニヤとこっちを見る。俺は思わず顔をしかめた。
「本当は出たくないよ、俺だって。でもみんなねえちゃんが出ること知ってるからさ。お前も現地にいるんだろって言われたら断れないよ」
「あら。じゃあ私のせいかしら。悪いことしたね」
あっけらかんと言う。
午前中の中一女子500mで一位になった人間は、悪びれの欠片も見せない。
俺はため息をついた。
「いーよ。どうせ見に来てたし」
「いいやつ~」
「ぐわー、放せ。もう行く!」
時計はレース開始三十分前を示していた。
母が戻ってこないので、俺は先にリンクに向かうことにした。
シューズバッグを背負う。フィギュアではなく、スピードの靴が入っている。
これで最後だ、と思う。
スピードの試合に出るのは、これで最後。
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