第2話 flashback

 ザンボニーの低音が床を震わせている。

 窓から見えるのは、おなじみの整氷の風景。


 その日俺はいつものようにアイスパレス横浜の休憩室で、冷えた身体を温めていた。

 隣のテーブルでは大樹たいじゅが今日学校であったことを身振り手振り交えて喋り、みやびはホットチョコレートを飲みながらにこやかに相槌を打っていた。

 動と静。

 この二人は見ようによっては仲睦まじい姉と弟にも見える――

 穏やかな気分に浸りながらそんなことを考えていたら、


哲也てつや。これ、君だろ」

 つつみ先生が突然ぺらりと一枚の紙を差し出してきた。


 新聞記事のコピー。

 幼い頃の俺と俺の姉が写っている。

 

 血の気が引いた。

 ……なぜこんなものを、このは持っているんだ。


 瞬時に立ち上がり取り上げようとするも、先生はふふんと笑ってひらりと身をかわした。


「何、何?」

 大樹が小動物のように瞳をきらりと光らせ寄って来る。

 雅が脇から背伸びして紙片を覗き込んだ。

「わ、ほんとだ! てっちゃん、顔全然変わってないね」


 まずい。

 このままだと休憩時間はこの話題で持ち切りになる。


「えーと、冬の阿寒湖に潜む危険、湯……?」

「ゆつぼ」

「声に出して読むな!」

 他の練習生の注目まで集まり出し、俺はいよいよ焦った。


「先生、どうしてこんなもの持ってるんですか」

「いやあ、釧路に帰省した時スクラップブックに貼ってあったのを見つけてさ。面白いからコピーさせてもらっちゃった。うちの母親、何でも取って置くんだよねえ」

 悪びれもせず大げさに首を振って見せる。

 ……おもちゃにするために持ってきたくせに、ぬけぬけと。

 俺はため息をつき、憮然と再び腰を下ろした。

「……何も面白くないですよ」


 面白くないどころか、その記憶は背筋が凍るものだった。

 悪寒が始まる。

 無意識の湖に蓋をした氷。

 今内側からヒビが入り、何かが飛び出そうとしている。

 ずっと忘れていた。いや、忘れたフリをしていた。


 透明な湖面に浮かび上がる無数の氷の泡。

 咲き乱れる氷の花。

 タンチョウの無音の羽ばたき。

 氷平線に覆いかぶさる雲。

 人の形をした黒い影。

 その足元に光るのは、銀色の――


「……阿寒スプリントって、手前のロングトラックでやる大会だろ」

 先生の声で俺は現実に引き戻された。

「哲也。どうしてこの時一人で湖の方まで行ったの?」

 茶化すムードは消え去り、真剣そのものの顔だった。


 その隣で、雅が不安げな表情を浮かべていた。

 大きな瞳の輪郭が潤んでいる。

 あどけなさの残る顔がより一層子供に見え、俺はあの日湖上に置き去りにした昔の自分が目の前にいる気がして、ちくりと胸が痛んだ。

 ……このまま、黙っておくことはできない気がする。

 俺は肺の一番奥から長く息を吐いた。


「……先生は」

 一度ごくりと唾を飲んだ。

「神様って、いると思いますか」

「……また難しいことを聞くねえ」

 ため息まじりのその声には、ほんの少し弾む響きがあった。

 この人はどんな時も好奇心を隠さない。

 その残酷な純粋さに背中を押されるように、俺は一息に言った。


「俺はあの日、神に出会ったんです」

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