君の微笑み ( 後編 )
誰もいないはずの待合室には彼女をここまで連れてきた彼が、青ざめた顔でソファに深く座り込んでいた。
私に気が付くと、はっとして立ち上がり不安が宿る目を向けてくる。
「無事終わりました。大分流血していましたが、心配するような大きな傷はありませんでした。が、頭部を強打している可能性も否定できませんので手放しで安心できるとは言い難い状況です。」
「そうですか。」
複雑そうな表情をしてストンと、体の力を一気に抜いてソファにドスンと腰を下ろした。
「それと、片足を骨折しています。経過と治療を兼ねて少し入院することになります。」
落ち着いた様に見えるが、まだ気が動転したままなのだろうか。
「分かりました。よろしくお願いします。」
そう声になるまでに少し時間が掛かった。
施術終了までバタバタしていて話す時間がなかったせいなのだろうか。突然、彼と彼女の関係性が気になり始めた。
目の前にいる彼は世間からズレている生活を送っているように見えた。染めむらのできている髪や派手な服装のせいではなく、彼自身が持つ雰囲気がそう告げているように思える。
「あの、失礼ですがご家族の方ですか? 」
すべての付添人に尋ねていることなのに緊張してしまう。
「はい。私は兄になります。両親は離れて暮らしていますので、私の方から連絡をします。」
彼はそう言うと頭を下げて去って行った。
彼の姿が見えなくなると、深い深呼吸と共に大きな溜息が出る。施術が成功したことへの安堵感からなのか、それとも二人の関係を聞いて安心したからなのか自分でも理解できなかった。
その答えが出たのは彼女の骨折が治り、精神科への追加入院が決まったのと同じ頃だった。
担当医になった私は一日に数度、彼女の様子を見に行くようにしている。それが医者としての仕事の為なのか、それとももっと別の感情からくるものなのか。そんなところも気になるのだが、もっと気になるのは彼女の精神面だった。
施術後に初めて顔を合わせた時は、とてつもなく恐ろしいものを目にしたような表情を向けられ、どう対応していいのかためらってしまった。
こんな精神状態では、怪我が善くなり退院できるようになったとしても不安が残るものになってしまう。
何とかできないものかと、自分の仕事のルーティンを変え、更衣室で白衣を身に纏ったらすぐに仕事場には行かず彼女の病室に直行する。
「おはようございます。」
他人から見ると何をしているのかと思われるが、患者を第一に考えると、ドアからちょこっとだけ顔を覗かせる方が負担が掛からないと思ったのだ。
「っ! 」
目が合うと口を動かすのだが声が出ない。きっと挨拶を返したいのだろう、が、諦めて会釈で済ませる。申し訳なさそうな顔をするが私は気にしなかった。病室の窓に目をやると外で体を動かすには良い天気だった。
「今日は良い天気ですね。気分がよければ散歩へ行きませんか?」
私の提案に一瞬戸惑ったものの、ゆっくりと頷く。
彼女のお兄さんの話によると、幼少の頃から話すことが苦手で人とのコミュニケーションが不得手だったという。
一時期は明るくなったのだがここ一、二年再び塞ぎ込み始めたそう。
「どこか行きたいところはありますか? 」
問いかけるとベッドの下から一冊の本を取り出した。それは見覚えのある表紙の分厚い展示カタログだった。
「美術館へ行きたいんですね。お好きなんですか? 」
私の問いに短く首を縦に振る。
それからの行動は早い。すぐに医院長の元へ行き外出許可を貰っている間に看護師に彼女の外出の準備をしてもらった。
待ち合わせたのはクリニックの玄関口。
彼女の足は治っているとはいえ、リハビリの途中でもあるので長時間歩いてもらうわけにもいかず、車いすでの移動となった。
「忘れ物はなさそうですか? 」
彼女の後ろにいる看護師に確認をとる。
「はい。万が一何かありましたらすぐに連絡をください。楽しんできてくださいね。」
看護師は私たちに笑顔で言うと自分のすべき仕事をするために戻っていった。
「では、出発しましょう。」
クリニックの自動ドアが開くと、むせかえるような若い緑の香りが迫ってくる。彼女がこのクリニックに連れてこられた時期を考えると、意外と長く入院していることを改めて実感する。
玄関口のわずかな凸凹でさえ、車いすのタイヤは拾ってしまう。経験のない者は楽をしていると見ているものが多い。私も研修で体験するまではそう思っている一人だった。実際に乗ってみると、なんとも座り心地の悪い、体に良くない乗り物であると瞬時に判断ができる。
クリニックから最寄りの駅に着くまで無言で道を歩いた。バスでの移動も考えたのだが、交わす言葉がなくとも彼女とゆったりとしたひと時を共有したかったのもある。
最寄りの駅から電車に揺られることおよそ一時間。
目の前に聳えるのは、初めてこの土地へ来た時に足を向けた美術館だ。
まだ、あの当時と同じで海外の美術館の来日展が開かれていた。ここに到着してから、心なしか彼女の表情が明るくなった様に感じる。
入館すると、彼女は一枚一枚の絵画を丁寧に見ることを望んだ。持ってきた小さなノートに何かを書き込んでいる。
順路に沿って中程まで行くと、一際人が集まる場所に出る。覚えのあるこの込み具合。ここにはあのモナリザが展示されているのだ。
「やはり、日本でも人気ですね。」
ここで初めて彼女の声を聴いた。
「大分前に弟がフランス旅行へ連れて行ってくれたんです。その時に見たのですが、やはり人が多くてゆっくり見れる時間は閉館間際になってしまったんです。」
彼女は絵を見たいあまりに車いすから立ち上がろうとする。まだ一人で歩くのは無理だ。車いすのロックを掛けると彼女の肩を抱き支える。
人が少なくなるのを待とうと思ったがその気配は全くない。
「歩いて行くのは無理みたいですね。車いすで近づいてみましょう。」
「はい。」
彼女の顔は無表情に見えるが、私にはがっかりしたように見えて分かりやすい人だなと、なぜか嬉しさが込み上げてきて顔が緩んでしまう。
「すみません。」と人の塊に声を掛けながら車いすをゆっくりと押し進め、場所を譲ってもらう。
こういう時に人の心は自然と顔に出るもので、嫌な表情を隠さず出す人。にこやかな表情で譲ってくれる人がいて職業上観察をしてしまうことがしばしばあったりする。
彼女は嫌な言葉を掛けられても笑顔で感謝を述べていた。
そんな状況を目にしたとき、何か生涯の宝物を見つけた気がした。
この絵が描かれた理由の一つだったりするのかな。
そんな自分勝手な解釈を楽しんでいた。
ふと、漠然と脳裏に浮かぶ。
この遅めの恋は無事に実るだろうか。
「戻ったら個人的にお話したいことがあるんです。」
今、気持ちを伝えるのは良くないことだろうか。
それよりも、彼女を追い詰めてしまう?
「はい。」
彼女は今までで一番明るい表情で返事をしてくれた。
これから先、このあたたかな笑顔を見続けることが出来るだろうかと、淡い期待をする。
「失礼。」
突然鳴ったスマホの画面は、彼女の退院予定日が明後日であることを告げるのだった。
君の微笑み 氷村はるか @h-haruka
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