君の微笑み

氷村はるか

君の微笑み( 前編 )

人々の喧騒を避け、わざと入館終了間近に足を踏み入れる。

他の絵画に目もくれず、真っ先に目指すのは世界的に有名なモナリザ。

思ったよりも見学者が多く「失礼します。」と、彼らの間を縫うように進み出る。

とうとう目の前に念願の実物を見ることができる。と、胸を高鳴らせていたのだが。

「思ったより小さいな。」

ボソリと小声で自然と漏れた不満は、人が引き始めた館内には大きな声だったらしい。近くにいた学芸員がクスリと笑った。

恥ずかしさで火照る顔を冷まそうと、落ち着くためになりそうなものを探す。結局はモナリザの笑みに戻ってしまう。

メディア等の色々な媒体で目にすることが多いが。永遠に湛えるその笑みはどんな気持ちで、一体誰に向けられているのだろうかと無駄な考えを巡らせてみたりしていた。





「ようこそいらっしゃいました。お持ちしていましたよ。」

出迎えてくれたのは中年の医師。

彼はここ、高野メンタルクリニックの院長であり、父の長年の友人でもある。

「院長に出迎えていただけるとは思っていませんでした。ありがとうございます。」

頭を下げた私を彼はあたたかい眼差しで見ている。

「さあ、こちらへ。ご案内しましょう。」

「はい。よろしくお願いします。」

私は大学病院の医師として勤めを果たしてきた。

学生の時分から周りのみんなが遊んでいる間も、一人勉学に勤しんだ。自身の外科医としての腕を上げることばかりに気を取られ、気が付くと出世街道から外れ大学病院内の派閥にも入ることが出来なかったのだ。

遊ぶことしか考えていなかった同期の奴らはゴマをすり、親の金を使い、派閥の力を借りて次々と上へ行く。

そんな彼らの下にいることが辛くなったと感じ、考え込んでいた時に高野医師から声を掛けていただけた。このまま大学病院に残っても、想像してきた華やかな生活は一生来ないと確信していたのもあって、躊躇うことなくその手を取った。

「大学の方は一ヵ月前に辞めたと聞いたが。その間もやはり勉強をしていたのかい?」

「ええ。半分は。」

「半分? 」

高野医師は珍しいものを見た顔をしている。私のことについて何か、大学もしくは父から聞いていたのだろうか。

「少し、息抜きをしたいと思いまして美術館へ。」

彼はにこりと笑うと私の肩を二、三度軽くたたく。

「そうか。安心したよ。君のお父さんから聞いていたからね。息抜きをするのは今の君に一番良いことだと思うよ。根詰めるとプラスもマイナスになってしまうからね。」

彼の言葉には優しさが詰まっていたと思う。私の上に圧し掛かっていた何かを取り除いてくれた様に感じた。

したこともない小さな旅行に行くことに、どこか罪悪感を得ていたのは否定しない。

私のために用意してくれたという診察室に向かう途中、院内エントランスがざわついていることに気が付いた。

高野医師と目を合わせ頷き合うと、急いで現場のエントランスへ向かう。そこには一人の男に抱かれぐったりしている女性がいた。

両足からは相当量の血液が流れ、気が動転している男の服を汚している。

「早く。早く医者を呼べ! 」

酷くとりみだす彼自身も、すでにパニックに陥っているようだった。このままでは二人とも良くない。

兎に角、二人を引き離さなければと、足早に近寄り柔らかい表情で接する努力をしてみる。

「ここは病院ですよ。安心してください。」

「早く医者を! 」

私自身が目に入っていないようで、目線が忙しなく空を泳いでいる。

彼の頬に手を添え、ぐいっと、強引に目を合わせ幼子に言い聞かせるようにゆっくりと話す。

「私は外科医です。彼女を助けることが出来ます。」

彼は私にされるがままの格好で、目を合わせたまま彼女を抱いていた両腕の力を緩めた。ずり落ちる彼女の体を看護師が受け止め、ストレッチャーへ寝かすと急いで施術室へ向かった。

後を追って私も続けて入り、すぐに手術の手配を整え開始をした。流血のわりには傷は酷くなかったものの、片足を骨折している。

手術と様々な検査を終え、病室へと移せるようになったのは一般外来が終わり窓から満月の光が差し込んでいる時間だった。

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