六、

 それは、確かに、せむしの右腕だった。その掌に握られているのは、脂でべとべとに汚れ、掻き傷が縦横に走る、間違いない、あの銃で、しかしそれは、かつて見たときより遙かに巨大になっていて、

 それが、穴から這い出てくる。あたしに向かって伸び、迫って来る。けれどあたしは只々、はっきりと自覚してしまった恐怖にさらに怯えて、眼を見開くばかりで、

 厭だ、厭だ、あたしはついに、頭を抱えて、坐り込む。厭だ、来るな、あたしの心は萎縮し、縮み込んで了っていて、もう何ンの役にも立たない。手足も震えるばかりで、動かない、どうしようもなく無力なあたし、そのそばに、血のにおい、違う、金属のにおいだ、錆びた鉄のにおいが近寄って来る。

 あたしは歯をがちがちと鳴らし、涙で顔をぐちゃぐちゃに濡らしながら、ゆっくり顔を上げる。視界をいっぱいに埋めて、鼻先にあるもの、真ン円の穴、銃口だ、あたしの顔より大きいのではないかと云う程の銃口が、突き附けられて、いや、それはまだあたしに向かって迫って来ていて、するり、とあたしのフードを引ッ掛けて落とし、あたしのあごを持ち上げて、首筋にその冷たい銃頭を押し附ける。

 あたしはもう真ッ白な抜け殻のように、茫然とその光景を見守る、

 併し、もう一度、銃身に沿って視線を這わせ、見上げたとき、あたしの全身は総毛立つ。血管に電撃が走り、目覚めたあたしの意識が見附けたもの、それは、銃の、廻転弾倉の中、金色に光る弾丸。弾倉のひとつひとつに、手落ち無く詰められている、ある筈のない弾丸。そんな、だって、

 その銃には弾丸がないって、おまえはそう云ったじゃないかッ――

 色の悪い、ごつごつと節立ったせむしの親指が、銃の撃鉄をがちりと起こす。弾倉がくるりと廻る。気のせいか、あたしの首に当たっている、銃口から風を感じた。


 厭だ、厭だ、厭だ――

 あたしはこんなもの知らなかった、あたしが欲しかった世界はこんなじゃなかった、あたしの心が啜り泣きながら声を漏らす、こんな筈じゃなかった、こんなことを知りたくてあたしは逃げたんじゃなかったのに、ああ、お母様、あたし、

 ゆるして―――たすけて、お母様、あたし眠ります、お母様の云い附けどおり眠ります、あたし何ンにも知らなかった、あたしが悪いの、だからもういちどお母様の中に帰して、忘れさせて、ずっとずっとそこで眠らせて――

 お母様の口には歯がある、ほかの女には無い歯がある、でもそれはあたしを傷つけない、それは厭らしいせむしの銃だって噛みちぎってくれる、お母様の中ならきっとせむしだって這入はいって来れないわ、お母様、

「お母様――」


 総ての記憶が穴に喰われ、何も無くなっていた筈のあたしの中に、何か、恐ろしいほどの存在感をもつ何かが、あらわれる。でも、どこに、

 見えない、確かに、いる、そう感じられるのに、

 へたり込むあたしの下、地面が、いや、広がった黒い穴がぶるぶると震え、痙攣を起こしているかのように、その時、あたしの後ろから、風が、

 みしみしという音が、振り向くと、真ッ黒い空間が波打ち――苦しんでいる、そうだ、苦しんでいる。そして、あたしがそう気くのを待っていたかのように、穴が、黒い空間が、雷鳴のような、轟音のような、併しあきらかに断末魔である絶望の声をあげ、のたうつ、ぐにゃりと、歪み、あたしの中で、暴れる、

 あたしの後ろ、波打っていた空間に、深くひだが寄り、引き裂ける。ぱっくりと開いた新たな空間は、あたしも初めて見るような、赤い赤い、真っ赤な色――

 お母様――!

 お母様だ、お母様の口だ、お母様、来てくれた――ううん、違う、お母様はずっとあたしのそばにいてくれたんだ。そうだ、お母様はずっとあたしを見ててくれたんだ、あたしは嬉しくなる。

 そして、真っ赤なお母様の口は、ますます大きく、穴を打ち破り、広がってゆく、

お母様が猛々しく吠える、穴がその震動を受けて分解し、砕け散り始める。おうおうと悲しげな声をあげて、穴が消えてゆく。ぼろぼろと壊れ出した穴に背を向け、あたしは立ち上がり、駆け出す、脚に絡みつく邪魔なレインコートを脱ぎ捨て、あたしはお母様の口の中へ飛び込んだ――!


 赤い赤い、お母様の中、あたしは真ッ直ぐに落ちてゆく、落下しているという感覚はない、けれど、どんどんお母様の奥深いところへ向かっている、あたしはそれを知っている。お母様の中、やわらかい、お母様の中、あたたかい、

 遙か上、黒いものが、あの穴に残った最後の力が、手を伸ばし、あたしを追って来ようとしている、けれど、お母様のあぎとに噛み裂かれ、すり潰されて、はかなく霧散する、次に、見えたもの、入ってきたもの、それはせむしの銃、

 ばかなせむし、頭のわるいせむし、敵う筈はないのに。

 おかしいことに、せむしの銃は、その腕までも、表面がぐじゃぐじゃに崩れていて、動くたびに、自分の破片をばらばらと落としながら、それでも気丈にあたしを追おうとしている。愚かなせむし、やめておけばいいのに。

 お母様のあごがばちんと閉まり、せむしの腕は肘から断たれて落ちる。落ちた腕が、みるみるうちにお母様に噛み砕かれて、舌に丸め取られ、吐き出されてゆく。

 あたしは落ちてきながら、小指の先くらいの大きさでその様子を眺める。ばいばい、せむし。あたしは穏やかに眼を閉じ、さらに深く、もっとお母様の奥へ

 周りの壁、赤い肉の壁は、どくどくと脈拍ち、あたしを奥へ奥へと導く、ああ、あたし知ってた、ここを知ってた、あたしは昔ここにいた、お母様のからだの中、ほんとうはもっともっと奥深いところなのだろうけれど、でもおんなじお母様の中、

 もうおぼろではっきりしない、それほど昔の記憶だけれど、お母様のここにいた、

ほんとうの姿、そう、あたしのほんとうの姿で、そうだ、あれは――

 お母様とおんなじ、蛇の姿――! 蛇の躰、あたしのほんとうの躰、こんな醜い躰じゃない、ああ、思い出した、お母様、あたし、

 何故か涙がぽろぽろとこぼれ、散って往く。お母様、あたし戻りたい、あたしのほんとうの姿に、いいでしょう、お母様、あたしもう一度、蛇になる――

 そうしたらずっとお母様と一緒にいられるわ、お母様も嬉しいでしょう、あたし戻る、いいでしょう、待ってて、すぐ、すぐよ、

 ――そして、あたしは、人間の皮を脱ぎ捨てた。


 赤い壁が、びくんと震え、あたしを巻き込んで、ごう、と風が吹き抜ける。

 お母様、どうしたの、今の、何、

 あたしが眼を開くのとほとんど同時、肉の壁にびしりと血管が走り、お母様が、長い長い、悲鳴をあげた――

 どうしたの、今のなに、お母様、お母様、

 あたしは手を伸ばし、壁に触れる。しかし、手を当てただけの筈が、指が表皮を突き破った、めくれた皮の奥けずれた肉から血が噴き出す、

 あたしは悲鳴をあげ、手を引ッ込める、併し、その傷口の周り、震える肉が大きくねじれ、小さかった裂け目が一気にあたしの丈の数倍の長さに切り裂ける。噴き出す血をあたしはまともに浴びる、あたしは反対の壁に叩き附けられる、

 お母様、お母様、お母様、

 あたしは叫びを喉に詰まらせたまま、身をすくませる、噴き出す血が止まらない、あたしの後ろ、そこの壁までが、どろり、腐ったように崩れ、壊れてゆく、

 弾けるように血と肉が飛び散り、渦を巻き、あたしを押し流す。ごうごうと廻転する世界の中、お母様の咆哮が止むことなく続く、あたしは何かを掴もうと手を振り上げる、ずぶりと何かに喰い込む、何かを踏もうと脚を蹴上げる、膝まで何かに埋まってしまう、その間にもどんどん荒れ狂い、滅びてゆく世界、駄目、駄目、これじゃお母様が死んで了う――!

 あるのは只、視界を埋める、赤、赤、赤――からだを動かすたびに、どろどろにこなれたお母様があたしの毛穴から入って来る、お母様があたしの中に逃げ込んで来る、

 お母様苦しいの、お母様まだ生きてるの、いいわ、お母様、今度はあたしがお母様を抱いててあげる、いいわ、お母様が叫びながらあたしの中に入って来る、あたしはお母様のすべてを受け止め、あたしはまるで風船のように膨らみ、

 けれど、あたしの中で膨れ上がった屍肉のかたまりは、悶えるようにずるりと渦巻くと、一度にあたしの陰所ほとから流れ出す――

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