五、

 世界のすべてを照らし出し、降り注ぐように陽が差す。もうどこにも、夜はない。

 陽光が、総てのものの輪郭を明らかに削り出し、夜の魔力を奪い去る。闇はただの影に収まり、そのあるじのかたちを、忠実に地面に映し描くのみ。

 せむし、せむし、眩しいだろう。あたしはすこしい気分になる。せむし、せむし、おまえいま立ってられるかい、おまえいま息がけるかい、あたしは駆け足をゆるめ、悠然と歩き出す。空を振り仰ぎ、肺に溜まった夜の空気を残さず吐き出す。

 ――しかし、あたしの歩みは直ぐに淀み、立ち止まってしまう。変だ、何か。あたしは感じる。光がおかしい。風がおかしい。その流れがきしんでかすかな悲鳴をあげ、途中で、どこか判らないけれど、或るところで掻き消され、止んで了っている。

 足元から巻き上げるような風が吹く。砂が高く舞い上がり、あたしは顔をしかめる。舞い上がった砂の行方を眼で追う。砂が飛んでいった方、小高い丘が広く長く横たわり、あたしの視界を遮る。あたしをその丘を目指して砂を踏み、歩き出す。

 だんだんと近附き、その起伏や形状を見て取れるようになるにつれ、あたしの中に何か、よみがえってくる感情がある、すごく厭な、何かが心の奥から湧き上がる、

 その地形は丘と云うよりは、何か凄まじい力で大地を貫き、えぐり、大きく弾けたものがあったような――あたしは丘の斜面に足を掛け、登り始める、

 傾いた地面の上を、ゆっくりと登る、ところどころ、鋭く走っているひび割れに爪先を掛けながら、いや、これはひびなんかじゃ、そんな自然に出来たものじゃない、

 それは、そう、傷跡だ。何かがここで荒れ狂い、大地を引き裂いたんだ、そんな生々しさがある。でも、何かって、何ンだ、あたしは更に上を目指す。

 緩くりと頂上が近附いて来る、登るにつれあたしの視線はてっぺんを跨ぎ、だんだんと向こうの風景が見渡せるようになる。向こうの風景、併し、そんな安らいだ響きとは絶対にそぐわない眺めに、あたしの歩みは、すくんで止まる。

 吹き荒れる砂嵐が起こす茶色いもやの向こう、地平線が真っ直ぐ水平に走っている。その下方、空の青を支え、遙かな地平をかたち造る筈の、大地が、

 大地が、黒い。あたしの視界を上下に切り分ける、地平線を境にし、無限の天蓋と云われた大空を嘲笑うように、大地がどこまでも真ッ黒い。

 むらも波もない、ただ一様に暗く染まる大地、そのあまりに深い黒は、じわじわと滲み出して、空をも浸食しているかのよう。どこまでもつづく黒、けれどあたしはそんな光景をその儘に受けれる気にはとてもなれなくて、この黒のかたちを、どうせ書き割りの輪郭を見極めてやろうと、残りの斜面を一気に駆け上がる。頂上に足を掛け、肩で息をしつつ、立つ。巻き上がる風にレインコートをはためかせ、併し、あたしは整えようとした息を、驚きに、否、恐怖につい呑み込んで了う。あたしが見たもの、あたしの視界いっぱいに広がるもの、これって、

 それは、大地が黒く染まっていたのではなかった。否、そもそもそこには色なんてない、それはそう云うものではなかった。。何も無い、吸い込まれるような虚無が広がる、それは、そこにあたしが見たものは、ただひたすらに巨大な――穴、だった。


 穴がある、あたしの眼の前に、あの、穴が、

 あたしはよろけ、後ろに二、三歩、たたらを踏む。なぜここにこんなものが、どうして、あたし一体、どこにいるの――あたしの頭は問い掛けるばかりで、現実を認めようとしない、併し、眼球は縫い附けられたように穴を見つめて離れず、

 穴だ、大きな穴、まるで引きり出された臓物のように、それは脈拍ち、ずるずると蠢いている。ゆるゆると蠕動し、ふるふると震え、ゆっくりかたちを変えている。穴が蠢くごとに、その周囲の風景――否、空間か――までが歪み、波打つ、

 穴を見ていたあたしの眼が、何かに触れて、その何かに、あたしはぞくりと寒気を感じる。そんなばかな、嘘だ。だって、今あたしが感じたもの、それは、視線。勿論あたしのではない、今、あたしは確かに、穴に見られた、穴に見返された、

 あたしは蠢く穴を貫かんばかりに凝視する、そして、今度こそ、はっきりと感じる。こいつ――いる。ここに、いる。穴が空いてるんじゃない、穴がここにいるんだ。あたしは緩くりと後ずさる。逃げなくちゃ。お母様の云っていたことが本当なら、あたしはここにいては不可いけない、お母様の言葉がその通りなら、あたしは、

 お母様が云ってた――世界の中心に空いている穴、私たちのはじめとおわりのすべてがある筈のところに空いている穴、あれだけがほんとうのこと、総てを呑み込み、永遠にふとりつづける、あの穴だけがこの世界で唯一確かなもの、でも知らなくていい、見なくていい、あんなものが真理なら、真理なんてなくたっていい、見ては不可ない、知っては不可ない――

 そこで、ふと、思考を止める。その次に、お母様が云ったこと、次が、思い出せない。おかしい、あたしは記憶を掻き廻してさがす。そして、妙なものを見附ける、

 何ンだ、これ――ぼうっとしたもの、黒いものが、記憶の中に、何かがあたしの中に、おぼろげに存在している。おまえ、なに、まさか、これって、

 穴だ――! あたしの中に、穴が、穴がここに、そんな、嘘だ。あたしは顔を上げ、眼の前に見えていた筈の、あたしの外にあった筈の穴を見ようとする。しかし視界はすでに、どこまでも真ッ黒く、あたしは何も見ることは出来ない。否、見えないんじゃない、見えてるんだ、あたしの視覚はすでに穴に呑み込まれ、あたしは穴だけを見ているんだ。頭から血がさっと退き、頬が冷たくなる、

 あたしの中にいる穴が、悶えるようにその身をうねらせ、ずるり、と大きくなる。どくどくと脈拍ち、膨らみ出す、穴が、育っている、否、這入はいって来ているのか、

 厭だ、厭だ――逃げたいけれど、あたしのからだは凍りついて動かない、もし動いたとしても、どこに逃げればいいのかなんてあたしは知らない、だってここはあたしの、頭の中、そこに、穴がある、あたしの中に、穴が、

 ずるずると肥り、大きくなってゆく穴。既にあたしを百人は呑み込めるくらいに大きくなっている、そしてあたしは、その穴の中、信じられないものを見る、


 原初の生物のように、やわらかくかたちを変え、蠢き続ける穴の中、鋭い硬質の輝きがあるのをあたしは見咎める。真ッ暗な穴の中で、それもやはり真ッ黒いけれど、ゼリーのような穴との異質さを誇るように、はっきりと直線の輪郭をもち、周りの闇を吸い込んでますますその存在を確かにしながら、頭をもたげ始めている。

 機械的な、ごつごつした輪郭が持ち上がり、あたしの頭上に突き出る、胎児が産まれる時のように、虚空をもがき、伸縮を繰り返す、それは、

 嘘だ、こんなの――だって、おまえは、

 あたしは声をあげようとする、けれど、いつのまにか溢れた涙が喉に詰まって、かすれたうめき声が漏れるだけ、

 その間にも穴はさらに広がる、そこから這い出ようとするもののために。這い出ようとするもの、抜け出そうとするものを、あたしは知っていた、そうだ、あれは、

 あれは銃だ、せむしの銃だ――

 あたしはいつのまにか膝を突いている、歯ががちがちと音をてている、涙は変わらず流れ続ける、そしてあたしは、はっきりと自分の感情を意識する、

 怖い、

 たすけて、怖い――

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