四、

 せむしが足を踏み締める、焚き火の燃えさしが悲鳴のように、じくじくと音をてる。せむしは、ぐい、と足をひねり、真ッ黒く炭化した焚き木の表面、わずかに滲む赤い輝きまでも踏み殺す。あたしは肉の焦げる悪臭をまともに吸い込んでしまう、

 肺が焼け附いて痙攣し、胃袋が身をよじらせて悶える。喉の入り口まで昇って来

嘔吐えずきを、あたしは奥歯で噛み締めて殺す。甘い酸味が舌を包んで覆う、

 あたしも、せむしも、喋らない。縛られた無言が沈黙を呼び、世界に見捨てられたように、この空間の時間だけが凍り附く。動かない時間を計るかのように、せむしの呼吸が、ふいごのようにしゅうしゅうと荒く響く。でもそれよりも、あたしの胸の奥、あたしの心臓はもっと激しく鳴り響いている、肋骨の牢獄を突き破り逃げ出そうとしているかのように、めちゃくちゃに喚き立て、暴れて止まない。

 その時、あたしの後ろから、どう、と風が走る。駆け抜ける風が、凍結した空気に流れを与える、立ちめていた緊張を巻き込み連れ去りながら、あたしの背中を押し、せむしの顔に、砂塵を浴びせ掛ける。せむしの影が揺らいだ、

 あたしの足がひらめいて砂を蹴り、くるりと身をひるがえす、一挙動で立ち上がり、せむしに背を向け、あたしは駆け出す――

 しかし、その途端に足首を強く蹴り附けられ、前のめりに突ッ伏す、頭とおなかをつよく地面に打ち附ける、眼の奥でぱっと火花が弾け、一瞬だけ視覚が途切れる、

「逃げるな――逃げるなよお嬢ちゃん、なあ、何ンでもないだろう、そう怖がられると、まるで、俺が醜いみたいじゃないか」

 砂に額をこすり附け、這いつくばってうめくあたしの耳に、せむしの声が近附いて来る。あたしは髪に纏い附く砂も払わずに、無理遣り顔を起こし、重い頭を振り向ける、

 頭がぐるぐる廻る、吐き気がする、それでもあたしはせむしを見上げ、睨み附ける。レインコートのフードがばさりと背に落ちて、あたしの眼にじかに夜が飛び込んで来る。頬を夜がでていく、首筋に夜が吹き附けて、髪に夜が絡み附く、厭だ、

「動くなよ、大丈夫、何ンでもない、だが動くなよ、逃げるな、この銃に弾丸はないが、だが俺はこの銃でおまえをなぐり殺すことだって出来る、だから」

 暗い、暗い、夜の中、せむしが何か云っている。暗くて表情が見えない、何を云っているのかも聞き取れない。あたしの頭の中、血が、漿が、ぐらぐらと煮え立ち、狂ったように駆け巡っている。吐き気が消えない、視界がぐにゃりと歪み、がんがんと耳鳴りがする。感覚がぐちゃぐちゃにもつれて絡み、何も判らなくなる、いいんだ、構わない、どうせあたしは何も見たくないし、何も聞きたくない。

「なあ、これが怖いんだ、そうだろう、この銃、でも、これをなくしたいと思っても、駄目なんだ、取れないんだよ」

 もろくも崩れ、壊れ出した世界の中、影法師が一本、ゆらゆらと揺れて立っている。その輪郭はどくどくと脈拍ち、ぞろぞろと闇を引きりながら歩み寄って来る。あたしはただうつろな意識で眺める、不気味な形をした黒いかたまり、その一部がすうと赤く切り裂けて、腐肉臭い息を漏らしている。厭だ、来るな――

「これを取ろうと云うなら、この手首からずっぱりと切り落とすしかないんだ、でもそんなこと出来やしない、そうだろう、それに、これは俺に許されたたったひとつのちからなんだ、それを捨てるなんて、出来ない――」

 厭なにおいを遮ろうと、あたしはフードを掻き上げ、しっかりと冠り直す。あごひもを蝶々にきつく結ぶ、呼気が自分の色に染まり、呼吸がすこし楽になる、

 近寄って来る影法師が、あたしの眼の前で足を止める。ぐそこにある影の表面が歪み、たわんで、ずるり、蛇のようにあたしの顔に向かって伸びて来る、そして結んだばかりのあごひもをほどこうとする、やめろ、触るな、

 あたしは、こう云うの、キライだ、

「寄るな――」

 あたしは途切れる息を無理遣りしぼり出し、声を出す、

「寄るな、おまえは――臭い」


 せむしが怒りの咆哮をあげ、砂を撒き散らしてあたしに掴み掛かる。

 がつんと真ッ向からせむしのからだがぶつかって来、あたしは突き倒される、その衝撃を受けて、あたしの意識に掛かっていたもやが、乾いた音とともに砕けて落ちる。

 あたしの躰の中、淀み滞まっていた血流が再び走り始め、ひゅう、と喉が細い笛の音を鳴らす、それを合図にしたかのように、あたしの世界に重力が戻って来る。

 はっとして顔を上げると、眼の前、せむしのあぎとが大きく迫っている、

 肩にがしりと掛かった掌を、あたしは躰をひねって払い除ける。そのまま大きく腰を廻し、せむしの顔面に突き出た鼻を、下から思い切り蹴り上げる。

 せむしが悲鳴をあげる、あたしは、素早く掌を突いて躰を起こし、かかとで砂を掻き立てるようにして、地面を強く蹴り附ける。そして今度こそ、あたしはせむしを振り切り、果て知れぬ夜に向け、駆け出した――


 真ッ暗い世界、何も無い世界。その真ン中でひとり、走り続けるあたし、

 どこまでも、どこまでも、続く砂漠、走っても、走っても、終わらない夜、

 瓦礫、汚物、腐敗、無意味、そんなものがうず高く積もるがらくたの山は、あたしの背丈の数倍に達する、何ンのために創られたのか、何故捨てられたのか、そもそもそれらはかつて本当に何かであったのか、それすら判らない儘に連なり続く、

 閉じたレインコートの中、熱気が籠もり、火照るはだ、汗ばんだ髪が、レインコートにがさがさこすれる。吐く息も、熱い、頭はまだがんがんと響いて痛み続ける、

 蹴り出すように次の足を繰る。でこぼこの地面を何度か蹴りつけてしまい、爪先がじんじんと痛む、痛みに気を取られ、足がもつれそうになる。

 不確かな足元、足首に、何かがかすめるように当たり、鋭い痛みがはしる。痛い、皮膚が切れたらしい、足を突くたびに、痛みが増し、足がしびれる、

 走る、走る、また何かを蹴飛ばす、闇を裂き、走る、夜を掻き分け掻き分け、


 せむしの声、はるか後ろで吠えているのがかすかに聞こえる。どうせ追い附いたって、あたしをどうすることも出来ない癖に、あたしを捕まえたって、あたしを引き裂いたって、あたしを喰ったって、おまえは何も変わらない。変わらず飢え続け、彷徨さまよい、嫌われ続ける。それはきっと、せむしがせむしである限り、

 ううん、きっとあいつはそんなことどうだっていいんだ。世界の中心に空いている、大きな穴、黒い穴、あいつはあそこから来た、あいつはあそこから産まれた。だからあいつは知っているんだ、いや、あいつは忘れられないんだ、死を迎えるその時まで落ちる筈のない、あの穴が恐ろしくてたまらないんだ。


 知らない内に伸び切った、手足の長さが邪魔で仕方がない、あたし、ただ眠っていただけなのに、あたし、まだ何ンにもしていないのに、いつの間にこんなに成長してしまったのだろう、あたし、あたし、ああ、お母様――


 走り続けるあたしの向こう、遙か向こうに光が生まれ、大きく膨らむ――

 太陽、太陽だ、

 どこにあるかもわからない果てから、曙光しょこうが束となり夜を吹き散らす、断末魔の叫びが遠くから響き、夜が引き裂ける。終わった――朝だ、朝が来たんだ、やっと、

 あたしは光に向けて脚を速める、もう疲れも感じない。あっちに往けば朝がある、もう大丈夫、もう大丈夫――

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