エピローグ
終話
永暦十三年(1656)、正月。
この日、南京の紫禁城にはじめて、永暦帝が姿を現した。集まった庶民のほぼ全員が期待半分、不安半分という顔をしている。
「皆の不安は分かっている。この南京が、また清のものになってしまうのではないか、と考えたとしても不思議はない」
永暦帝にもそれは分かるのだろう、上からの呼びかけは穏やかである。
「しかし、朕は多くの地域を逃げ回り、理解した。国を保つのは城や街ではなく、そこにいる人であるということを。朕はここにいる人を重んじる国にしていきたい。そのために、皆も朕に力を貸してほしい」
永暦帝の呼びかけはそれからしばらく続く。
その少し後方の建物の中で、鄭成功と李定国が正面きって座っていた。
永暦帝の演説に先立ち、李定国は秦王、鄭成功は斉王の称号を得ていた。その他白文選が蜀王の地位を得るなど、主力となった部将はそれぞれ論功行賞を得て、新しい地位を得ていた。
「さすがに北に攻め込むのは時期尚早であろうから、当面は四川の洪承疇と呉三桂を叩きだすことが主となるだろう」
李定国が当面の戦略を披露する。四川から北に向かい、陝西を取るという、かつて諸葛孔明が向かった道筋である。
「異論はない。私は、長江沿岸と北部の沿岸部を攻撃するつもりである」
一方の鄭成功は引き続き水軍の優勢を利した方針に立っていた。最終目標は大連から天津まで押さえてしまい、海岸線を全て押さえることである。そうなれば、朝鮮・日本・琉球もこちらに傾いてくる。
「父親はどうするのだ?」
鄭成功の父・鄭芝龍も南京奪還の果報によって今までの罪を許され、永暦帝からは公の地位を打診された。しかし、鄭芝龍はその受領を拒絶し、現在、福建で新しい船団を作っているという。
「……施琅が言うには、呂宋(ルソン)をイスパニアから奪い取り、そこを根拠地に新しい勢力を作るつもりらしい」
「できるのか?」
「オランダが協力をするらしいから、不可能ではないだろう。もう歳なのだし、南東の瘴気に当てられてしまうのではないかと心配だが、まあ、万一の時には施琅が後を引き継ぐから問題ないだろう」
施琅は南京奪還を機に、元々の海商の地位に戻ることを希望した。本人が言うには、「進士共と話をしていると、堅苦しくて仕方がない」ということである。そのため、鄭成功の船団は甘輝と劉国軒を中心に再編されている。
「断ったというと、あの者はどうしたのだ? 由井殿は」
「由井先生は、一旦日本に戻っている」
「戻れるのか?」
李定国が驚いた。日本の海禁政策が解除されたという話はない。
「いや、戻ったといっても開放が許されている長崎までだと聞いているが……」
「戻ってこないということはないだろうな?」
「それはないはずだ。確かに丸橋殿らも戻っているが、加藤殿や生駒殿は残っているわけだし、オランダに行った金井殿やご子息のこともあるわけだから……」
鄭成功は東の方を見た。小さく溜息をつく。
「ただ、由井先生も若いという歳ではない。我々だけでもできるということは見せなければならない」
「うむ、そうだな」
李定国も頷いた。
その頃、由井正雪は丸橋忠弥とともに江戸にいた。
長崎まで来たところ、長崎奉行の黒川正直から「老中が直々に聞き立てたいことがあるので」と言われ、そのまま江戸行の船に乗ることになったのである。
七年ぶりの江戸の街は、ほとんど変わるところがない。
「太平というものはいいものだのう」
「確かにそうだな」
浙江や中国各地でめまぐるしく所属を変え、その度に攻撃を受けた街を多く見ていた二人は、ほとんど変わらぬ江戸の街並みに言いようのない安心感を覚える。
「とはいえ、ここは緊張するが、な」
正雪が苦笑した。二人は江戸の街から、江戸城の中へと入っていく。
案内されたところに、松平信綱の姿があった。
「おお、正雪、随分と老けたのう」
「ご老中様も……」
まずはお互いに辛辣な言葉を掛け合う。とはいっても、老中松平信綱の姿はさほど変わるところはない。確かに歳を重ねた分、皺や髪には変化があるが、強い印象を与えるほどではない。
そういう点では正雪と忠弥の方が中年から老年の域に差し掛かっていることもあり、変化は大きい。もっとも、表情が精悍さを増しているのは年齢以上に、激しい戦乱の地で数年生きてきたことの方が大きいだろう。
「南京まで攻略したということは、聞いた。送った時には正直半信半疑であったが見事なものだった」
「はっ。とは申せど、全ては明のために生きる多くの者が頑張ったからでございます」
「左様であるな」
信綱は満足そうにうなずいて、表情を正す。
「この機に、日本の海禁政策に変化を、という話もなかったわけではないが、幕閣全員で諮った結果、現状は変えないということになった」
「その方が正しいかと思います」
「ほう……。てっきり、落胆するかと思っていたが」
正雪の承認に、信綱が意外そうな顔をした。
「日ノ本は幕府の下で安定しております。そのことを先ほど江戸の街を歩いて痛感いたしました。これだけ安定しているのにわざわざ不安定な外と繋ぐ必要もないかと思います」
「まあ、総じていうと、皆もそういう意見だった。ただ、永遠に不変ということもなかろう。いつかは変化が必要な時代も来る」
「とは申せど、それはその時に判断すればよいのでございます。もちろん、その時に適切な判断ができないと徳川家も危ういということになるわけですが」
「言ってくれるのう」
信綱は苦笑した。
「さて、お主らはどうする?」
「どうする、と申しますと?」
「お主ら二人に関しては、希望するならば特例で江戸に戻ることを許可するつもりでいる。もちろん、妻子を連れ戻すことも含めて」
「何と……」
想像していない申し出であった。正雪は思わず忠弥と顔を見合わす。
しかし、その時間は短かった。どちらからともなく。
「しかし、申し出は有難いですが、また戻りたいと思います」
「江戸の安定はいらぬ、と申すか?」
「はい。私共は海を知ってしまいました。多くの人・世界と繋がるものを。江戸の安寧は心地よいものでございますが、そこに安心してしまうには多くのことを知ってしまいました。私共の世界は海と繋がる世界でなくてはなりません」
二人の回答に、信綱は満足そうに頷いた。
「よく分かった。お互い、もう会うこともないだろうが、今後も達者で、な」
そう言って、信綱は右手を差し出してきた。正雪、忠弥と握手を交わして、二人は広間を後にした。
城を出た二人は、思わず目を細めた。いつしか、雪が舞い散っていたのである。
「雪を見ることは久しくなかったのう」
「全くだ。雪についても見納めということになるだろうな」
正雪は手を開いた。そこに落ちた雪が染み入るように溶け、水へと変わっていく。
「まだまだやらなければならぬことがある。この雪の一粒、一粒のように」
「そうだな……」
二人の目は江戸湾から、その外の方に向けられる。
中国へ、東南アジアへ。
そして、世界へと。
(完)
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