第20話

 十月十二日、南京城内でハハムが呼びかけていた。


「我々が鄭成功めに包囲されて既に二月近く。北京からの援軍もなければ援軍を送るという報告もない。忠実にこの南京を守ろうと奮闘している諸君たちに報いることができない状況を、司令官として非常に申し訳なく思う」


 居並ぶ者からはさざなみ一つ起こらない。完全に無音である。


「城外からは北京は、我々を見捨てたという風に叫んでおる。口惜しいが、ここしばらくの様子を見るに奴らの言い分は本当であろうと思う」


 明の言い分を認めるような言葉に、少なからず動揺が生まれるが、その可能性について考慮していない者はこの場にはいない。多かれ少なかれ、淮安付近で八旗が待機しているという情報は籠城側の心に影を落としていたのである。


 近くの者と話し合うひそひそ声が、広がっていく。そうした声を微かに耳にしながらもハハムは話を続ける。


「とはいえ、満州族にも誇りがある。負けるからといって、おめおめと降伏するわけにはいかない。我々は明日、神策門から撃って出て、出来る限り多くの明兵を斬り捨てて戦死し、ヌルハチ様、ホンタイジ様、ドルゴン様にお詫びする次第である。皆についてこいと言うつもりはない。明の奴らには従えないというものだけ、ついてくるがいい。以上である」


 そう言って、ハハムは壇上を降りていった。


 ハハムの姿が裏に完全に消えると、残された者が一斉に周りの者と話を始める。にわかに広場は騒々しくなった。


「どうする?」


「いや、どうすると言われても…」


「満州族はほとんど総司令官についていくことになるのではないか?」


「うーむ、しかし、我々も……」


 決死隊に参加するか、あるいは降伏して明を迎え入れるか。何人かの者が決断を決めて早々に城を後にしていく。


 しかし、ほとんどの者はその場で半日以上、評定を続けるのであった。



 翌朝早く、南京城の神策門付近にはハハムの率いる五百人ほどの兵士が集まっていた。


 陽が昇るにつれて、次第、次第に人が集まってくる気配がしてくる。


 辰の刻になろうとした頃、ハハムは後ろを振り返った。


「おぉ……」


 彼は驚いた。最悪、数百人だろうと思っていた最後の抵抗部隊は数千を超え、一万近い数が揃っている。


 更に意外だったのは、満州族よりもむしろ漢民族の者が多いことであった。


「今更、明に戻っても、恥を残すのみでございます。それならば」


 多くの者の意見であった。明から一度、清に降って、更にもう一度明に降るとなれば、どれだけのことを書かれるか分かったことではない。自分だけのものではない。家族や家全体の名誉にかかわってくる話である。


 また、もちろん、南京でかつて明政権が行ったことを忘れていないものも多い。鄭成功が別物という保証もないのであるから。


 逆に満州族の面々には、そうした恥という概念は薄い。むしろ、「この後、明が北に向かうとすれば、自分達が重用されるのではないか」という目論見もあった。


 そのため、ハハムと同郷の満州人の中には従わない者が多く、むしろ裏切りそうな漢人の方が多くつき従ってきたのであった。


 もちろん、ハハムにもそうした諸事情は読める。


(民族の誇りもない情けない者達だ)


 という思いもあるが、一方で自分が司令官でなければどちらの選択をとったか、本人にもはっきりと言えるところではない。


 ともあれ、一万二千程度の軍が最後の決戦に挑むべく、神策門の漆喰をはがしていた。



 城外はどうか。


 ずっと包囲を続けていると段々と惰性が働いてくるが、それでもその日、南京城内の雰囲気が一変したことはほとんどの者が察するところとなる。城内で何らかの変化があったことは間違いないという認識に至る。


「最後の足掻きで撃って出てくるのではないか?」


 多くの者はそう予想した。


 その場合、相手が出てくるのは南京城にあるどれかの門である。必然、門の前の部隊が集中を高めて、その間にいる部隊は目の前の壁よりは、門に近い部隊の後詰を意識する。


 戦意の間隙が生まれていた。


 辰の刻過ぎ、ハハムの合図と共に城壁の一角が崩れ、一万二千の城内の部隊が一斉に城外へと躍り出た。

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