第18話
翌日、朝から郎廷佐が南京城外に出現した。
「包囲が解かれることはない! 速やかに降伏せよ!」
いたるところで叫ぶ。
当然、南京城兵から大きなどよめきが起こる。と、同時に誰の目にもはっきり分かるほど動揺していた。唯一、救援に来てくれるだろうと期待していた郎廷佐が相手側にいたのであるから、無理もない。
「この裏切者め!」
満州族の将軍を始めとし、怒りを露わにする者も多かったが、士気の低下は避けられない事態となっていた。
「大変でございます!」
司令官のハハムの下にも、郎廷佐が敵軍にいる旨の情報はすぐに伝わった。
ハハムも司令官を任されるほどであるから事態の深刻さをすぐに理解した。
とはいっても、手の打ちようがない。彼らの側にある手札としては神策門からの奇襲であるが、これは切り札とも言えるものである。奇襲したが失敗したとなれば今度こそ何もなくなると全員が理解していることから、いきなり打つということは難しい。
「この南京が落ちることがどれだけの痛手であるかは、北京も理解しているはずだ。とにかく援軍を待つしかない」
苦虫をかみつぶした顔でそう指示を出した。
北京はどうであったか。
皇帝フリンをはじめ、全員南京方面からの情報に気を揉んでいたが、具体的にこうという動きはできなかった。もちろん、この時点では郎廷佐が降伏したという状況は伝わっていないが、事態の深刻さについては理解していた。
「広州を攻めていた呉三桂も敗退したという。だが……」
南京付近の戦いについてはほとんどの満州族は慣れていない。しばらく経験していた者達ですら、いかだの砦のような失敗を行っているのであるから、それ以外の者についてはまるで役に立たないことが明らかであった。
(ここまで来たら、南を諦めるしかないか……)
フリンもその状況を受け入れるしかないという諦めに似た感情を抱く。
(その場合に備えて、何をするべきか)
南を失ったとしても、それだけなら鄭成功や李定国がすぐに北に向かうことは難しい。南では満州兵は全く戦うことができないが、鉄騎兵の生きる華北では全く話が変わるからである。
問題は領民の意識である。南京が失陥することによって「これは清の負けだ」という認識が広がってしまう恐れがあった。そうなってしまうと一気に北京まで追い立てられ、また満州の地に逃げ帰らなければならなくなる。
(それだけは絶対に避けなければ……)
そうなってしまえば、フリンは史上稀に見る暗愚な帝王として記されることになる。中国の大半を手中に収めた功労者の叔父ドルゴンを死後とはいえ粛清同然の扱いにしておいて、自身は国を失ったとなれば。
「淮安、廬州、漢口に八旗を送り込め」
フリンの言葉に群臣がけげんな顔をした。
「長江以南を取られた場合に備えて、華北の要衝を今から押さえておかなければならない。南京を落とされても、長江の北では清の騎兵に勝てるものはなしという示威活動をせねばならんし……」
そこから先は言葉を伏せた。
だが、その場に居合わせた者全員は了解した様子である。もし、市民が明の側に立つようであれば、それを鎮圧しなければならない、ということは自明の理だからである。
「南京は駄目ですか……」
ジルガランが泣きそうな顔をして言う。
「水戦が出来る者がおらぬ以上、どうにもならん。奇跡を信じたいが、どうすることもできないだろう」
フリンが重々しく呟いた。群臣も妙案がないからうつむくだけである。
「一度下がってしまうと、再度手を出せるようになるまでは長い月日がかかるであろうな。だが、諦めることはない。臥薪嘗胆という漢族の言葉がある。南京にいる明軍を追い払う日まで、朕は薪の上で眠ることとしよう」
それがいつの日になるかは明らかではない。
とはいえ、これから近い未来に起こることを想像できる者は誰もいなかった。
北京の政府は、南京を見捨てたのであるが、当然その決断をまだハハムらが知ることはなかった。
「援軍は来ぬのか……」
毎日、北の城壁から、送られることのない援軍を待つのみである。
そうしている間にも、士気は着実に下がっていく。
ハハムは後悔していた。郎廷佐が城外に現れた時点でイチかバチか打ってでるべきだったと。
士気は日を追うごとに下がっている。
最初の時点ではイチかバチか神策門から撃って出て成功する見込みもあったが、数日を経た今となっては、その見込みもないほど士気は下がっていた。
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