第8話

 呉三桂と尚可喜が退却してきたことで、広州の安全は確保され、この方面の清軍が鄭成功に影響力を行使することは不可能となった。


 広州では、永暦帝がオランダの艦船を迎え入れて、船長に感謝の念を伝える。皇帝に面会するとなると、三跪九叩の礼が本来は必要であるが、そうしたものも無用である。


「その方らが来てくれたおかげで、朕の安全は確保された。礼を言うぞ」


 船長はさしたる感動もない様子で、ぶっきらぼうに答える。


「あくまで国姓爺の要請があったから動いたまでである」


 永暦帝は宴会などへの参加を求めるが、それに対してもそっけない。


「我々が長居していると、マカオのポルトガル軍が無用な警戒をする恐れもある。広州を守るという目的は達成されたので一度台湾へと撤退する」


 そう言うと、その日のうちにオランダ船は東の洋上へと去っていった。


 浮かれムードの永暦帝にとっては多少の冷や水を浴びせる結果となったが、それでも快勝には違いない。その日から数日間、広州城はお祭り騒ぎの様相を呈していた。



 衡陽の李定国にも話が伝わる。


「陛下には困ったものだ……」


 李定国は不満そうにつぶやいた。


 今こそ、東の鄭成功に続いて攻撃の機会を探るか、あるいは明として明確な姿勢を打ち出す時であるというのに、数日間宴会しとおしであるというから無理はない。


「これまで散々逃げ回っていたもので、目の前で清の軍勢を倒したというのは初めてのことでございますから」


 馬進忠が擁護する意見を出したが。


「それも我々と国姓爺が頑張ったことによるものであろう。オランダ船の船長には黄金を授けたというが、それを連れていった国姓爺や、防波堤となって奮闘していた我々には何もなしというのは腑に落ちないと思わんか?」


「それは、まあ……」


「もちろん、私は別に帝のためだけに今の状況を作ったわけではないからな。この一事をもってどうこうということはないが、もう少し落ち着いて全体を見渡してほしいものよ」


 李定国はつまらなさそうに語った。



 オランダ船は広州から二日かけて台湾に戻り、その日のうちに厦門に向けて成功した旨の連絡をする。


 鄭成功ら主要な者達が出て行っているため、これを受けたのは鄭成功の正室董氏とうしであった。琉球から戻ってきた鄭経と陳永華も立ち会っている。


「ご苦労様でした。夫に代わりまして感謝いたします」


 董氏は鄭成功に代わって、オランダの代表に頭を下げる。


「しかし、あの皇帝という若者、たいした者ではありませんでしたね。正直、鄭成功将軍があのような人の下にいるということに驚きました」


 オランダの代表が軽口を叩き、董氏が眉を顰める。


「貴国では国王に対してそのような軽口を叩けるのですか?」


 通訳を通して伝えられ、オランダの代表が頭を下げる。


「失礼いたしました。何分、ここにいる方々が優れておりますことから、今回、広州で会った人達の程度の低さに落胆したということがございまして」


 これもまた結構な放言である。鄭成功がこの場にいれば「陛下を馬鹿にするのか!」と本気で怒った可能性も大きい。


 しかし、オランダ側もそうした事実を把握したうえで言っているということもあった。


 鄭成功の妻董氏は、鄭成功ほど明王朝再興に熱意があるわけではなく、冷ややかな視線で現状を見ており、オランダ人もそうしたことは知っている。わざわざ永暦帝に対する不満を董氏に対して口にしたということは、「今すぐ問題にするつもりはないが、後々何か別の問題になるかもしれない。その前に国姓爺に含めておいてほしい」という意図が内在されている。


「……分かりました。うまく伝えておきましょう」


「ありがとうございます。今度、ゼーランディアに鄭経様を連れてこられてはいかがでしょうか? 歓迎いたしますぞ」


「……それについては、鄭成功が事をなした後、相談した後回答させてください」


「分かりました」


 董氏とオランダ側の交流は終始和やかな雰囲気のまま進む。鄭経や陳永華とも和気藹々とした会話が進む。


「一度台湾に戻りまして、再度上海の方に出て行きます。国姓爺の進軍が順調であれば無駄足となるかもしれませんが、我々としても売れる恩は売りたいですので」


 正直な物言いに董氏も微笑み、「お願いいたします」と頭を下げた。



 夕方、董氏、鄭経らの見送りを受けてオランダ船は台湾へと戻っていった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る