第4話

 西の方。四川・成都では洪承疇が矢のような催促に苛立ちを隠せずにいた。


「西から李定国を無視して、鄭成功に圧力をかけるなど無理に決まっておろうが、陛下やジルガランは何を考えているのだ」


 女真民族の重鎮に対しても洪承疇は手厳しい。もっとも、彼は皇帝フリンの父親であるホンタイジに直接降伏している。立場としてはそれほど変わらないという自負があった。


 そんな洪承疇を取り巻く状況であるが、まず、昨年の冬に赴任してきて以来、貴州・湖南方面で少しずつ押してはいる。呉三桂ともども李定国の勢力圏に圧力をかけ続けており、中小の城や町に関してはかなりの数を奪還していた。


 もっとも、李定国側が、その撤退をある程度許容しているというのも事実であった。広州に永暦帝を擁しており、大敗を喫すれば広州までの維持が危うくなる。また、鄭成功が東で大掛かりな遠征を行っているので、無理して戦う必要もない。


 鄭成功の様子を見つつ、遅滞戦術を採用しているというのが洪承疇の見立てであった。そして、それに対して、効果的な手を打てていないというのも事実である。



 年が明けても状況は全く変わらない。北京からの「何とかしてくれ」という要請が増えるだけである。


 洪承疇も南京が陥落すれば江南支配が危機的状況を迎えることは分かっている。しかし、状況が予想以上に早く進んでいることは想定外であった。


 初夏の頃には、鄭芝龍が降伏したという情報も伝わってきた。決して信用していたわけではないが、息子の鄭成功に降ることはないだろうと予想していたこともあり、衝撃を与える。事実、これを伝えてきた皇帝フリンの手紙には『秋までには南京が陥落してしまう』という危機感に溢れていた。


 洪承疇はやむなく呉三桂らを呼び出した。


「陛下から、何とか鄭成功の進撃を食い止めるようにという指示を貰っている」


 呉三桂達の表情も芳しくない。


「それは無理でしょう。我が軍が空を飛べるとでもお思いなのでしょうか?」


「あるいは長江を下っていけとでも申すのでしょうか?」


 三国時代の頃から四川を先に制圧した場合に、四川で船団を造り、長江下流へと攻めていくという作戦は存在していた。もっとも、それはあくまで上流の四川に水軍がいるという前提である。洪承疇も呉三桂も水軍勢力は引き連れていない。連携しようとしているのもチベットの騎兵が中心である。


 下流まで行くという方法は現実的ではなかった。やはり李定国を倒して、直接的に鄭成功の勢力圏に圧力をかける以外ないのである。


「しかし、向こうが出てこないからな……」


「だが、このまま南京まで取られてしまうと、我々が清についた意味がなくなってしまう」


 尚可喜の言葉に一同の表情が険しくなる。


 洪承疇も含めて、全員、明から清に降伏した者達である。それは同時に自分の名前が後々まで「裏切り者」として残ることを意味していた。そこまでして、負けたとあっては最悪である。子々孫々まで馬鹿にされることは間違いない。清が勝たなければ、彼らの人生は失敗の人生ということになってしまうのである。


「揚州や広州のように、徹底的に殺戮して恐れをなさせるというのはどうであろう?」


 呉三桂が提案する。


「いや、この期に及んでそのようなことをしてもこちらが苦しいということを知らしめてしまうことになるし、徹底抗戦をされるだけだ」


 洪承疇が難色を示した。


 恐怖戦術というのは、仕掛ける側が優勢、少なくとも五分五分の状況で行わない限り効果が半減する。不利な側が行ったとしても、かえって相手の退路を奪って一致団結させるだけであるし、しかも、憎悪を買うという側面がある。


 現在の清は江南では不利な立場にいる。ここで恐怖戦術を採用することは逆効果となる可能性の方が高かった。


「永暦帝のいる広州を再度攻撃するしかないのではないか」


 耿継茂が提案した。それは洪承疇も考えていた策の一つではある。


「危険は大きいが、皇帝の身に危険が及ぶとあっては李定国も動くしかないだろうし、ひょっとしたら鄭成功も一部を援軍に回してくるかもしれぬ」


「……鄭成功まで動くのは期待しづらいが、実際、戦局を変えるとするとそれしかないな」


 各自が頷いた。


 かくして、七月、夏の暑さに苦しめられながらも広州を目指す作戦を立てて、呉三桂・尚可喜を総大将に精鋭五万を選抜して成都を発った。


 この作戦の成否が、南京にいる清軍の士気に大きく響くこととなる。

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