第5話

 四川にいる洪承疇の一軍が広州を目指しているという情報は、衡陽にいる李定国の下にも入ってきた。


「……やはりそう動いてきたか」


 湖南方面に突撃してくることは自殺行為であるだろうから、自分達を動揺させるには永暦帝が捕まる恐れのある選択肢を取ることが無難なことは言うまでもない。


「……援軍を出しますか?」


 馬進忠の問いかけに、李定国は首を横に振った。


「国姓爺からの書状で、広州については任せてほしいと書いてある。むしろ、相手が動いたら西に向かえと」


「西?」


 馬進忠も意図は分かったのであろう。


 洪承疇が軍を一部割いたとなると、当然、清は四川から貴州、湖南西部の守りが手薄になる。李定国は無理をせずに後退していただけであるから、反撃で取り返すことが可能となる。あわよくば一気の快進撃も期待できる。


 しかし、まさかということもある。永暦帝が捕まってしまえば形勢がかなり変わる危険性もあった。もちろん、鄭成功の水軍があるのであれば、海からの支援もあるので負ける可能性は低いが、その水軍はほとんどが長江へと出張っている。清軍の脅威となるほどの水軍は厦門には残っていないであろう。


「正直、無理をする必要はないのではとも思いますが」


 馬進忠は乗り気ではない。広州を堅実に守り続けて、鄭成功の南京攻めの結果が出るまで待機した方がいいのではないか。そういう思いがあるようだ。


「私もそうは思うが、国姓爺の要請がそうである以上は、な。後々、あの時どうこうなどと言われたくはない。清軍を追い出すほどの水軍はなくとも、いざという時、帝を逃がすくらいの水軍はあるということだろう」


 李定国は肩をすくめて、西に進むための準備を始めていた。



 こうした衡陽の状況は、広州にいる永暦帝にも伝わる。


 これまで薄氷を踏む思いで逃げ回ってきただけに、李定国が来ないということは不安でならない。


「な、何とか少しだけでも援軍を派遣してもらえないだろうか?」


 広州にいる軍勢は四万。これでも李定国は大分割いたのであるが、清軍の精鋭五万という数字の前では不安の残る人数である。もちろん、五万のみで来るのであれば、籠城側が有利であるが、清軍は向かってくる途中で間違いなく兵力を増強させてくる。明と清の戦いが続いているため、一帯の生産力は回復しておらず、戦闘があるとなると一山当てることを夢見て参加してくる者が多数いるからである。


 かつて孫可望を倒すために昆明に向かった白文選の軍勢は当初数千だったのが十二万まで膨れ上がった。似たようなことが起これば、清軍が広州に着くころには二十万を超える軍勢になる可能性がある。


「そんな軍勢を相手にしたら、朕では無理だぞ……」


 と弱気なことを公然と口にする。


 ということで、李定国へしきりに援軍要請を送るのであるが、これは逆に城兵からすると不安を募らせる結果にしかならない。恐らく李定国や鄭成功であれば一度送った後は覚悟を決めるだろうが、そこまでの気概が永暦帝にはなかったのである。


 もっとも、皇帝である永暦帝にそこまでの戦才をもとめるのも酷な話とも言えるが。



 広州城内がそのような不安にさいなまれている状況の中、七月七日に鄭成功からの船団が広州に到着した。


 永暦帝は喜んで迎えに行くが、その状況を見て失望の色を隠さない。


「これで清軍を……、呉三桂を迎え撃てるのか?」


 永暦帝がそう思うのも無理からぬところではあった。広州の港にたどりついたのは小型の船が十隻くらいである。兵士の数も数百人しかいない。武器もそれほど多くなく、いかに清軍が水戦を苦手としているとはいえ、これで勝てると思うことは無理である。


 もっとも、派遣されてきた洪旭は自信満々である。


「陛下、全く不安に思うことはございませぬ。この洪旭、清軍を地獄へと案内する水先案内人として参りました。小さい船ばかりで情けないと思われたかもしれませんが、あまり立派な船に清の兵を乗せたくはありませんのでご寛恕いただければと思います」


 洪旭の軽口に同乗の兵達は笑うが、永暦帝はとても笑う気分にはなれなかった。

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