第10話

 先頭の船が岸に横づけした様子を見て、正雪は勝利したことを理解した。間もなく白旗も上がり、それを見た後続船も続々と停止する。


 程なく、一隻目の船から一人の男が降りてきた。


「総大将はいるか?」


 流ちょうな日本語であった。正雪は、鄭芝龍が日本に滞在していたことを思い出した。


 十兵衛の方を向いたが、その十兵衛は「おまえが行ってこい」と顎で指示を出す。


「この軍の軍監をしている由井正雪と申します」


「由井正雪……、ふむ」


「お見事な日本語ですな。感服いたしました」


「ハハハ。大分忘れてしまったが、今でもこのくらいは話せる。何なら、オランダ人、ポルトガル人、スペイン王とも話ができますぞ」


 鄭芝龍は愉快そうに笑う。


(親子でありながら大分異なる性格なのだな)


 と思った。仮に鄭成功であれば、このような状況であれば自害せんばかりに憤慨しているであろう。


「ところで先ほど、日ノ本に降るがいいと申していたな?」


「はい。申しました」


「私の知るところ、日本は鎖国制度を敷いていて徳川がそれを解くことはほぼないと見ている。貴殿らはおそらく、不平浪人達が中核なのではないかと見ているが、その貴殿らが『日ノ本』というからには貴殿たちはいずれ徳川を倒すつもりなのか?」


「ほう。さすがによくご存じですな」


「10年くらい前までは、私も日本の援軍を求めたい立場にあったからな。今は逆側にいるが、逆側も理想郷というわけではない」


「質問の答えになりますが、日本というのもまた帝を戴く国でありまして、その下で徳川幕府が国の管理をしております。広く、日本に降伏せよというのであって、徳川幕府に降伏せよと言ったのではありませんから、矛盾はしておりません」


 正雪の答えに、鄭芝龍は「何やら詭弁のような」と苦笑いを浮かべる。


「ま、いいだろう。さすがに息子に負けて降伏したとあっては恰好がつかぬ。浪人でも帝でも何でもよいわ」


「はい。国姓爺も今更父親を従えられるとは思っておりません。ですので、台湾から琉球を中心に活動していただければと思います」


「琉球?」


「はい。現在、国姓爺の息子である鄭経様が補佐役とともに交渉をされております」


「おお、錦(鄭経の幼名)か」


 鄭芝龍の表情が和らいだ。息子に対しては複雑な思いがあれども、孫に対しては変わるものらしい。


「大きくなったのだろうなぁ」


「はい。間もなく成人なさります」


「孫がそうなるということは、私もそれだけ歳を取ったということか……」


 鄭芝龍は大きな溜息をついて、後ろを振り返った。それぞれの艦船で兵士達が次々と降りてきて、投降している。


「あの中に満州族の者はいるのですか?」


 全員が辮髪姿であるが、清の支配地では辮髪していなければ命を取られる危険性もあるから、満州人であるとは限らない。


「まさか。満州族の連中がおるなら、そいつが総大将になるに決まっている」


「そうですね」


「連中もひょっとしたらホッとしているところもあるかもしれない。これで髪にこだわる必要もなくなるわけだからな」


「それは良かったですな」


「髪で思い出したが、そなたは他の者と比べて不思議な髪をしておるのう」


「ああ、私は浪人で武士ではございませんでしたからな」


「しかし、他の者も浪人であるが髪を結っておるぞ。そなただけが何もしておらず、ひと際目立つのであるが」


 正雪は思わず声をあげた。


 確かに他の者はほとんど武士の髪型をしている。日本では問題になったかもしれないが、外に出ている以上、髷をきちんと結っていることに文句を言う者はいない。そして、正雪は今まで他人がそうしていることに無頓着であった。すぐ隣にいる柳生十兵衛と丸橋忠弥がそのままだったことも大きいのかもしれないが。


「まあ、すっかり慣れてしまいましたし、このままでいいでしょう」


「……変わった奴だな」


 鄭芝龍は呆れたように笑った。


「私には官職は向かなかったようだ。また、海賊からやり直すとするか。あいつらも一から鍛えてやらないといけないし、な」


 五月二十七日、鄭芝龍の率いる一万四千の部隊は柳生十兵衛、劉国軒の率いる軍に降伏した。この動向が南京攻防戦に与えた影響は少ないが、後々の鄭成功軍団の交易活動に与えた影響は途方もない。そういう意味では、大きな転機となる出来事であった。

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