第9話
黄浦江を遡上していく鄭芝龍が呼びかける。
「このあたりは水深が浅い。敵が潜んでいる可能性があるから気をつけろ!」
「敵が出たらどうするんですか?」
「構っている暇はない。とにかく逃げるんだ。万一船が座礁しそうなら、岸側に寄せろ!」
そこから半里も進まないうちに、旗のようなものが見えてきた。
「何だ、あの旗は?」
船員の多くから疑問の声があがる。だが、鄭芝龍はそれがどこの旗であるか理解していた。かつて平戸にいた時に散見していたもの。そう、日本が鎖国になる少し前、島原地方で切支丹が反乱を起こした際、鎮圧する大名達の軍隊が使っていたものである。
(日本の軍勢が引導を渡しに来たわけか。奇縁よのう……)
逃げろと指示しながらも、その旗を見た瞬間、鄭芝龍は自分達が逃げられないような錯覚を覚えた。
「前から船が来ます!」
先頭からの伝令を受け、正雪達に緊張が走った。劉国軒が前へと急いだ。湿地帯が多いのでほとんどが馬を使っていない。彼を含めた伝令役のみ、急ぎの時は馬を使っていた。
すぐに戻ってきた劉国軒の顔には確信があった。獲物を見つけた狩人のような表情をしている。
「間違いありません。鄭芝龍率いる清の艦船です」
「よし! 攻撃だ。ただ、相手の方が高所にいるから、無理に仕掛ける必要はない。火矢を起こせるものは火矢を放ってくれ!」
正雪が指示を出し、浪人達が「おう」と声をあげる。
自分達は陸上にいて、相手は船上にいるからそのままの戦いは不利である。しかし、このあたりは水深が浅いから、相手の船を少しでも蛇行させれば座礁させられることができる。それで船の進路をなくしてしまえば勝利できるはずであった。
かくして、黄浦江中流域の岸側から、銃や火矢が放たれた。
「炎が!」
誰かが叫ぶ。
「慌てるな! 火は急がなくても消せる! まずはこの場を逃げることを考えろ!」
火が艦上に立っても、鄭芝龍はつとめて冷静に指示を出していた。それもあって兵士達も比較的落ち着きを保ち、移動を続けている。
「お前達も焦るでない!」
問題は後続の船であった。もちろん、経験は積んできているが、鄭芝龍と比較するとやはり浅い。火矢を受けて船上に火があがることで大パニックに陥っていた。
「艦長、まずいです。敵が後ろ側の船に攻撃を集中しはじめました」
「言われなくても分かっておるわ!」
岸にいた日本兵は先頭にした鄭芝龍の船を補足しきるのは難しいと感じたのであろう。狙いを二隻目以降に切り替えた。二隻目、三隻目が逃げ切れるかどうか。これが倒されてしまってはほとんどの船が移動不可能な事態に追いやられる。
とはいえ、先頭にいる自分達の船が戻るわけにもいかない。今、できることはといえばとにかく速力をあげて場を突破し、後続の船に逃げ方を示すことのみである。
「うおおおおっ!」
そのとき、岸の方で雄叫びがあがった。大柄な男が何と槍の先に松明のようなものをつけていた。煌々と燃える槍を船にめがけて投げつける。
「そんな馬鹿な!?」
何という膂力なのだ、鄭芝龍は呆気にとられた。長さ三町はあろうかという槍が、美しい放物線を描いて二隻目の船体側面に突き刺さる。そこからゴウという音を立てて火が上がった。
「将軍!」
悲鳴のような声があがったので向きを変えた先を見て、鄭芝龍は失敗を悟った。三隻目の船が向きを変えようとしたのか、岸側に帆先を向けており、そのまま停止している。誰の目にもその船が座礁したことが明らかであった。
前の船が動きを止めたので、当然後続の船はその邪魔を受けないように進路を変える必要があるが、そうすることで二隻目、三隻目の座礁船が出てくる。
「終わった……」
鄭芝龍は敗北を悟った。先頭の一隻だけ逃れたとしても、それが何であるか。自分だけが逃げても何もできない。北京に戻っても、南京に赴いても「せっかく作った清軍の艦船と兵隊達を無様に敗北させた」という誹りを受けるのみである。その先にあるのは敗戦の責任をとっての処刑であろう。斬首ならまだいい。下手すれば凌遅刑かもしれない。
その時、岸の方からよく通る声が聞こえた。
「偉大なる海賊・鄭芝龍殿よ! そなたが死ぬはこのような川ではない。広い海で果てるべきではないか? つまらない誇りを捨てて、日ノ本に降るのだ!」
岸に視線を向ける。叫んでいるのは小柄な男であるようだった。他の者達と違い、髪を結っていない。
(何だか変わった男だな……。しかし、日ノ本と来たか……)
鄭芝龍は微笑を浮かべた。男の意図としては、「おまえが降るのは息子の鄭成功ではなく、日本の軍なのだ」ということなのであろう。
だから、受け入れたというほど単純ではないが、鄭芝龍は大きな溜息をつき、部下に命じた。
「白旗を掲げよ……」
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