第8話
鄭芝龍率いる艦船は淀山湖に待機していた。
もちろん、ただ、待機しているだけではない。こちらも多数の諜報員を派遣して付近の様子を探っている。
五月末、しばらく崇明島を攻囲していた鄭成功が長江を遡上していったという情報が入った。鄭芝龍にとっては待ちに待った情報である。
「成功め、崇明島を攻撃するのかと思ったが、やはり奴はそんな気長なことはできまいのう」
長江を入った常州付近にいる諜報網に連絡を取り、鄭成功軍の経過を待つ。
六月に入り、
「諸君、我々はこれから敵の背後……上海から杭州を狙うこととする」
意気揚々と旗を掲げて、淀山湖を発ち、黄浦江から長江を目指した。水深の浅い地点もあるため、その移動は決して早いとは言えないが、二日後には長江に出た。そのまま東に、海の方へ移動を開始した時に急使が走ってきた。
「大変でございます! 鄭成功の艦隊が戻ってきております」
艦上にいた鄭芝龍の顔が凍り付いた。
「何、だと……」
「明日にはここまで到達しそうな勢いです!」
上流側から下流側に向かってきているのであるから、速力も上がる。
しかし、鄭芝龍は報告を受けても信じられなかった。
(直情で、動き出したら止まることのない成功が、先に進んだと見せかけて戻ってきた、だと……?)
ありえない。そう叫びたかった。
「一旦、淀山湖方面へ戻りますか?」
まともに戦っても勝ち目が無いことは皆が知っている。相手がおびき出してきたのに引っ掛かったとなると猶更だ。
「今更戻っても追いつかれるだろうし、急いで戻るとなると、艦隊の被害も少なくない。だが、戻るしかないか……」
鄭芝龍は作戦失敗を認めて、すぐに撤退の指示を出した。
「こちらの作戦が発覚した以上、淀山湖に待機していても仕方がない。太湖まで逃げて成功の艦隊を引き付けるしかないだろう」
作戦を修正したのと、ほぼ時を同じくして、南からの伝令が新しい情報をもたらしてくる。
「大変です! 黄浦江方面からこちらの方に向かってくる一団がいます!」
劉国軒は鄭成功と作戦を修正した後、西に急ぎ正雪と合流していた。
そのまま、浪人部隊に淀山湖方面へ向かうように要請する。
「鄭芝龍もさすがにどこかの段階で我々の作戦に気づくことでしょう。その場合には、国姓爺とそのまま戦うということはありません。必ず淀山湖の方に逃げ帰るでしょう。奥の湖まで逃げられてしまうと、捕捉するのが大変になります。その前段階、黄浦江を遡上しようとしているところを襲いましょう。あの川なら幅も狭いので、陸から船への攻撃も可能でございます」
「確かに……」
上海の付近で長江の広さを見て、一同で仰天したことを思い出す。昔、日本の各地を渡り歩いたが、あんなに幅が広い河口を見たことがない。海が別の海に繋がっているのでないかと思ったし、あのような環境ではとても浪人軍のいつもの戦いはできない。
しかし、さすがに長江の支流ともなると幅が狭い。それでも船を相手にするのは簡単ではないが、陸から船を攻撃することができるということは全く違う。
かくして、浪人軍は西に向かった後、南下し、劉国軒の案内の下で黄浦江を長江の方に向かっていたのである。その途上を鄭芝龍の斥候に把握されたが、特に気にすることはなかった。
鄭芝龍はしばらく船の上で茫然としていた。
鄭成功が南京を攻撃するのであれば、挟撃するつもりであった自分達が逆に挟撃されかねない状況に置かれていたという事実を認めるのは容易ではない。この場で時間を無駄遣いしていることは自分達をますます不利にするだけであることは理解しているが、それでもどうしていいかすぐに判断がつかなかった。
ただし、自分達が逃げ延びる可能性となると……。
(成功の艦隊に勝つのは不可能だ。後ろから攻撃されているとはいえ、勝ち目があるとすれば後ろ側の部隊であろう)
いくら鄭成功でもこの短い時間に長江から淀山湖の背後側まで回ることはないであろう。となると、後ろから来ている部隊は陸戦部隊のはずである。川を直行すれば何とか逃げることができるのではないかという計算が立った。もちろん、相手も地形のことをある程度は理解しているであろうから、水深の浅い地点で待ち受けていて、こちらの損害を増そうとはするであろう。
それでも、可能性があるのは後退しかない。だから鄭芝龍は後退を命じた。
それしか打てる手がないのであるから。
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