第2話
追撃を続けてきた白文選は、一時孫可望の軍と距離が縮まって勇気をもったが、しばらくするとまた距離が開いていった。
「おのれ、逃げられたか……」
白文選は顔をしかめた。孫可望が逃げていったのは仕方ないとしても、皇帝の身柄が清に連れられていったのは非常に不利である。
どうしたものかと思っていると、前線から伝令がやってきた。
「申し上げます! 永暦帝が僅かな供とこちらの方に」
「何だと!?」
白文選は馬上にありながら、思わず飛び上がらんばかりに喜び、落馬してしまった。
「痛ててて」
治療をしている白文選のところに永暦帝が現れる。
「大丈夫か?」
「これは陛下。みっともないところを見せてしまいまして申し訳ございませぬ」
白文選は永暦帝と数回ほど顔を会わせており、どちらも相手のことを知っていた。
「うむ。これ以上、孫可望のところにいると大変なことになるゆえ逃げて参った」
「ははっ。この白文選を選んでいただきましてありがとうございます」
「早く昆明に戻って立て直しをしてもらいたい。よろしく頼む」
永暦帝が頭を下げる。いかに立場が弱くなっているとはいえ、皇帝に頭を下げられるということは名誉なことであり、白文選も気分が良くなる。
しかし、昆明に戻るべきかと考えると迷うところであった。
「……陛下、昆明に戻るのは危ういことであると考えます」
「どういうことだ?」
「孫可望は昆明に火をつけていきました。この復興に時間がかかるというのがまず一つ。更に孫可望にとって地の利があることから、清軍を連れてこられた場合に逃げづらいということがございます。万一攻められた場合にビルマに逃げる以外なくなってしまいます」
「……ふむ。とすればどうすればよいのだ?」
「まずは衡陽の李定国を頼るしかないでしょう。それ以降、東に向かうかどうかするしかないものと思います」
「そうか……」
永暦帝はしばらく考えた後、頷いた。
「分かった。朕は妻も子も捨ててきた。こうなったら、どこへでもついていこう」
「ありがたき幸せでございます」
白文選はすぐに衡陽へと使いを派遣した。
同じ頃、孫可望は四川省に入っていた。
報告を受けた呉三桂の軍勢が南下してくる。その先頭に長身の呉三桂の姿もあった。
「おまえが孫可望か?」
明らかに敗残の軍に対する言い方であった。横柄な物言いに、怒りを覚える孫可望であるが、事実弱い立場であり、言い返すこともできない。
「はい。この度、清に仕えたいと思いまして参りました」
「……永暦帝には逃げられたらしいな?」
「はい。しかし、皇妃や皇子は連れてきております」
「そいつらをどうするつもりなのだ?」
「は、どうすると申しますと?」
「そんな連中を連れてきて、どうなると言うのだ?」
「いや……。使い方がすぐには思いつきませんが、置いておいて損はないかと思います」
明の皇族がいるとなれば、清の政策にも使いやすいはずである。また、永暦帝に対する威圧にも使えるのではないか。孫可望はそう考えていた。
「……殺せ」
「はっ? い、今、何と?」
「殺せと申したのだ。それとも、その程度のこともできぬのか?」
「い、いや……。もちろん、それは可能ではありますが」
「ならばやれ」
「そ、それは洪将軍の命令なのでありましょうか?」
孫可望の問いかけに、呉三桂の眦が上がった。
「わしは王であるぞ! 何故捕虜の扱いまで一々伺いを立てねばならんのだ!?」
「は、ははっ! 分かりました!」
もはやまともな話が通じる相手ではない。
孫可望は慌てて取って返し、兵士達に指示を出す。出された方も驚いた。殺すのが可哀相というような人道的な話ではない。
「生かしておいた方が色々といいのでは?」
損得の話である。
永暦帝本人ならともかく、その皇妃と子供である。子供などまだ3歳で、何かできるような年齢ではない。そんな相手を殺したとあっては汚名がつくだけではないか。
孫可望は首を左右に振った。
「恐らくだが、あの男(呉三桂)の明憎しはそんなものでは済まないのであろう。我々が生き残るためにはそうするしかないのだ。あの様子だと、我々がやらないともっと酷い方法で殺すかもしれぬ……」
「承知いたしました。とんでもない相手のところに逃げてきましたな」
兵の言葉に、孫可望は溜息をついた。確かにとんでもないところに逃げてきた、と同時に、自分達も少し前までそういうとんでもない環境にあり、とんでもないことをしてきたのだとも考えた。
その日のうちに、永暦帝の皇妃・皇子らは殺害され、四川省の山の中に捨てられた。
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