第九章 永暦帝

第1話

 孫可望に連れられる形で昆明を出た永暦帝であったが、程なく、彼の目的が清への投降で自分がその手土産にされかねないという事実に気づいた。


「これはまずい」


 とは思ったが、車は孫可望の軍にしっかりと警護……監視されており、抜け出すことは難しそうである。仮に逃げ出す機会が僅かだけあったとしても、共にいる皇妃や子供まで連れて逃げることは難しそうに思えた。


「隊長! 白文選の部隊が昆明を無視して我々を追撃しているようです!」


 と、兵士達の声が聞こえてきた。


「それはまずいな……」


 隊長達は一様に表情を曇らせる。


「勝てませんか?」


「厳しいだろう。そもそも、こうやって北に向かっていること自体、将軍が勝てないと思っているわけだからな」


「ああ、なるほど……」


 兵士達が頷いている。


 永暦帝はその時、閃くものがあった。


「おい、お主達……」


 皇帝たるもの、兵士やその隊長くらいの身分の者に直接声をかけるべきではない、という教えはあるが、今の永暦帝は四の五の言っていられる立場ではない。黙っていれば、清に引き渡されるかもしれないのである。


 声をかけられた兵士はびっくりした。まさか皇帝から直接声をかけられるとは思っていなかったからである。


「取引をせぬか?」


「と、取引……?」


 兵士達が仰天した顔でお互いを見合わせている。


「そうだ。お主達、朕を白文選のところに連れていってほしい。そうすれば、お主達の安全は朕が白文選に掛け合うことにしよう」


「……」


 兵士達は無言で顔を見合わせ、前を見ていた。


「恐れながら、陛下。この車で逃れることは難しいのではないかと」


「うむ……」


 それは永暦帝にも理解はできる。隊列が長く、先頭にいる孫可望までは距離がある。とはいえ、車で移動するとなると速度に限界がある。逃げたことに気づかれて追いかけてきた場合、逃げ切れる可能性は低い。


(白文選がもう少し近づいてこないと難しいか…)


 あるいは、車を捨てて馬で逃げるという選択もあるが、そうなると皇妃や子供が逃げることは難しくなる。


「白文選までの距離はどの程度ある?」


「それは分かりません。遠くに旗が見えるのは確かですが、このあたりは山道もありますので……」


「うむ……」


 確かに、旗が見えたとしても相手が隣の山にいる可能性もある。逃げることも一筋縄で行きそうにない。


(しかし、このまま座していたら全員死あるのみか……)


 永暦帝は悩む。いや、その悩む時間も刻々となくなっている。


 しばらくすると、兵士達に手持ちの銀などを渡した。


「分かった。朕だけを逃してくれ。白文選のところまで連れていってほしい」


「……少々お待ちください」


 兵士達が仲間内で話し合う。やがて一頭の馬を連れてきた。


「こちらにお乗りください」


「うむ……」


 永暦帝は馬に乗ると、すぐに兵士達の案内を受けて南へと向かった。


(許せよ……)


 彼は内心で、残していく皇妃や子供達に詫びる。彼らを連れていては逃げることはできない。しかし、永暦帝に逃げられたとなると、孫可望が皇妃や子供達にどう当たるか知れたものではない。


(わしは彭城ほうじょうの劉邦にならなければならないのだ……)


 漢の高祖劉邦は彭城で項羽に負けた際、逃げる途中に馬車から子供達を投げ落としたことがある。大事を成し遂げるためには、子供達のことに構っていられる余裕はない。


 そう自らを言い聞かせて、彼は逃げに逃げた。



 孫可望が事態に気づいたのはおよそ一刻ほどしてからである。まさか永暦帝が一人で逃げるという事態は考えていなかったこともあり、完全に出遅れてしまった。


 孫可望は怒り心頭で兵士達に命令する。


「まだ遠くには行っていないはずだ! 必ず捕まえろ。生死は問わぬ!」


 そう叫んで追わせるも、追わせるということは止まるということでもある。当然、その間に白文選の部隊が迫ってくる。昆明で迎え撃てば分からなかった優劣も、先に逃げてしまったことにより完全に劣勢に立たされている。


「敵が迫ってきています!」


 という報告に、孫可望は歯噛みした。


「口惜しいが、逃げるしかないのか……。まあ、皇子や皇妃はいるから最低限の手土産にはなるか…」


 そう自らを言い聞かせて、追跡を諦めて逃亡へと転じた。

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