第11話
八月。
鄭芝龍はこの頃までに三百隻の船を造りあげ、天津の衛に浮かべていた。
意気揚々と北京に戻ったところ、官吏達の表情が一様に暗い。
(何かあったのだろうか?)
と思うが、北京の官吏との関係はあまり良くない。聞いても嫌味を言われるだけの可能性が高いため、何も聞かずにいることにした。
(陛下に奏上に上がった時に聞けばいいだろう)
という思いである。
その時はすぐに来た。戻ったと同時に紫禁城に来るよう指示が出される。
「鄭芝龍、参りました」
「おお、良く来た」
迎えに出たのは皇帝フリンではなく、ジルガランであった。
鄭芝龍はなるべく平静を装おうとしたが、どうしても当てが外れたという表情が顔に出た。皇帝フリンはある程度中立的に見てくれるが、ジルガランは清の名門意識が強いため、降伏した者に対してあからさまに一段下の者を見るような態度をとる。
この時のジルガランもそうした態度であった。しかし、話をすると、理由は異なっていた。
「貴様の息子は偉いことをしてくれたのう…」
「はて…?」
鄭芝龍がけげんな顔をした。
そんなことを今更言われても知ったことではない。事実、清に降った時に要人達に対して「この王朝はこの先息子に苦しめられるかもしれない」と言っていたのであるから。
「まあ良い。先日、台湾から冊封の使節が厦門に送られたらしい」
「台湾から?」
鄭芝龍は一瞬目を丸くしたが、すぐに冷静になり考えてみる。
(奴がそうするとは意外だな。ありえないことではないが)
福建から台湾の距離を考えれば通商を確保する過程で協力関係を築き上げること自体は不思議ではない。オランダ人との間で交渉を成立させたというのは意外ではあるが、オランダ人がもっとも重視しているのは日本との交易であるから、それを平穏に確保できるような条件を出せば妥協が生まれる余地はある。
「オランダ人は厦門で三跪九叩をして帰っていったという話だ。どういうことだ?」
「どういうことだと言われても…」
「とぼけるな。隆武帝を立てていたのはおまえだろう。その一族が残っているということではないのか?」
(あ、そういうことか)
鄭芝龍はようやくジルガランの苛立ちの理由を理解した。鄭成功のことについて怒っているのではなく、鄭成功の下に明の宗室関係者がいるらしいことを怒っているのである。
(これはいかんな…)
鄭芝龍は清に降った時に、知っていることを全て話していた。もちろん、その中に隆武帝の関係者について語っていない。語るも何もそんな存在はいないのであるから。
ところが、鄭成功はそうした存在をでっちあげたらしい。
(まさかそんなことをするとは思わなかったが…)
息子の明への忠誠心を知っているので、いない皇帝を崇めるようなことはしないと思っていた。しかし、厦門に宗室がいるかもしれないと思わせるのは、かなり有効な手であることは確かである。
「鄭献親王(ジルガランのこと)様、私は清に対して何一つ隠すことなくお話をいたしました」
「では、厦門の鄭成功が明の宗室を立てているのはどういうことだ?」
「そのような存在はおりませぬ」
「いない?」
「はい。確かに隆武帝には息子が生まれましたが、二か月ほどでなくなっております。隆武帝の親族は厦門にはおりません」
「では、台湾の面々は誰に対して三跪九叩したというのだ」
「強いていうのなら、息子に対してでありましょう」
「何だと!?」
ジルガランの視線が険しくなった。
「それはつまり、おまえの息子が新しい国を建てるということか?」
「いいえ、そうではありません。息子は、親王閣下が今お思いのことを考えるようにわざと自分のところに来させたのです。オランダの面々がどこで誰に対して三跪九叩しようと、それは彼らの勝手ですからな」
「そうかもしれんな」
不意に違う方向から声が聞こえてきた。
反対の入り口から、皇帝フリンと洪承疇が入ってきた。洪承疇が言う。
「確かにおまえの言う通り、厦門には誰もいないのかもしれぬ。おまえの息子が台湾の面々をうまく抱え込んだのかもしれぬ。しかし、南京の人間たちがそれを信じると思うか?」
「……」
「それが答えだ。つまり、我々は非常に面倒な事態に直面しているのである。鄭成功の下に明の宗室がいる。それを台湾が認めていると」
洪承疇は大きな溜息をついた。
「これは非常にまずい。本来なら、我々は永暦帝を叩かなければならなかった。しかし、奴は誰からも認められていない。一方、鄭成功の抱える皇帝は台湾から認められている。仮にその皇帝がいないとしても、だ。これは非常にまずいのだ。我々は厦門を無視することができなくなってしまったのだから、な」
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