第5話
曹振彦は二年前に急死した睿親王ドルゴンの側近であり、ドルゴンの一番の相談相手とも言える男であった。ドルゴンの政策や展望に関して、彼ほど理解していた者はいないといっていい。
その曹振彦を派遣してきたということは、皇帝フリンが少なくとも政策についてはドルゴン流をそのまま踏襲しても構わないということを意味している。もちろん、亡きドルゴンが何を考え、どうしようとしていたのかを完璧に知ることはできないが。
「陛下からは、洪将軍の側近として働いてほしいと言われています」
「うむ。睿親王ほどとはいかないだろうが、よろしく頼む」
「…中々、返事に窮する言葉ですね」
曹振彦の言葉に洪承疇も苦笑した。確かに、睿親王は謀反人という扱いであるから、睿親王についての評価を口にしてしまうと場合によっては犯罪者ということになってしまう。
「現状であるが、江南の大半を支配され、広州も陥落確実という状況である。攻めるべきか、諦めるべきか」
諦めるべきか、というのは江南以南の支配を諦めるという意味である。かつて何度かあった南北朝時代の再来ということに他ならない。
「無論、攻めるべきです」
曹振彦の言葉に洪承疇は満足げに笑う。
「その場合、あの人であればどうしたものかのう」
「あの人や太宗であれば、現在もっとも脅威となる者の排斥にかかると思います」
「もっとも脅威となると、李定国と鄭成功だ。李定国は永暦帝の武将であるから離間作戦も友好であろう。ただ、鄭成功に関しては奴自身が指導者であるゆえ簡単には手を出せぬ」
「その場合は、逆に鄭成功とその副将を切り離すのが上策でございましょう」
「なるほど…。さすがだ。鄭成功の副将となると、施琅だろうな。ふむふむ、そうだな。面白い考えが浮かんだぞ」
洪承疇の目がにんまりと細く垂れた。
「全く。そう何度も連続で呼ばないでほしいものだ」
翌日、紫禁城に毒づきながら鄭芝龍が現れた。
「鄭芝龍、何度も呼びつけてすまぬな」
しかし、現れたフリンが頭を下げると、一変する。
「とんでもございません。陛下のお呼びとあれば、例え火の中水の中。しかし、本日はいかなるご用向きでしょう? 船団の方はまだ製造の端緒についたばかりで、船団として天津に浮かばせるためにはあと半年は必要ではないかと。もちろん、追加資金如何によってはもう少し早くすることも可能だろうとは思いますが」
揉み手をしながら回答した。追加資金如何によっては、という部分を特に強調している。
「船団についてはその日程で構わぬ。もう一つ頼みたいことがある。詳しいことは兵部尚書(洪承疇の役職の一つ)から聞いてくれ」
フリンはそう言って下がっていき、代わりに洪承疇が進み出る。
「鄭将軍、そなたは施琅という者を知っているだろう?」
「は? 施琅ですか? 元は私の子分でありましたが…」
「今でも連絡は取れるか?」
「それはまあ、取ろうと思えば取れるかと思いますが、何をするんですか? 施琅も今になって清に降るということはないと思いますが」
「そんなことを書く必要はない。久々に旧交を温め、できればもう一度くらい会いたいというような話で構わない」
「…左様でございますか。そのくらいなら、まあ」
鄭芝龍はけげんな顔をしながらも了承し、その日のうちに紫禁城で書状をしたためて、遥か厦門へと送り出した。
洪承疇は下がって、フリンと向かい合う。
「…そんな手紙で戦況が変わるものなのかな?」
不思議そうなフリンに、洪承疇は穏やかに笑う。
「一度や二度では無理でしょう。しかし、続けていれば必ず効果はございます」
「なるほど」
「時に陛下、こちらが李定国に送ろうと思っている書状の草案でございます」
洪承疇はフリンに手紙を渡した。フリンは豪快に広げて、目を通す。
「呉王にするのか?」
「…問題がありましょうか?」
「いや、どうせ受けない王位であろう。どこであろうと構わぬ。呉三桂達はどうする?」
「はい。よそ者の李定国を王位にして、彼らを王にしないのなら、不満を抱くと思います。この際、彼らにも王位を渡すべきだとは思いますが、それで彼らが有頂天になる可能性も否定できず、考えているところでございます」
「…いずれはくれてやるものだろう。今、渡してしまえ」
「承知いたしました。陛下のご英断に感謝いたします」
「三年、いや二年だ。耐えてさえくれれば、朕は勝てる」
「はい」
洪承疇は素直に頷いた。
永暦帝も決して無能ではないが、停滞している。それと比較するとフリンはまだ若く、一日一日成長を見せている。二年もすれば、皇帝の器の差は覆しようのないものになるはずであった。
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