第4話
正確な情報として届くのは後のこととなるが、順治十年の二月には、北京にも広州陥落が現実的な状況にあるという報告が届いていた。
当然、皇帝フリンをはじめとして政府一同に動揺が走る。
(睿親王が健在ならば…)
と思う者も少なくない。元気な時には目障りな存在であったが、亡くなった後、これだけ劣勢に立たされるとなると、話は別となってくる。
「陛下、恐れることはありませぬ」
そんな中、力強く主張するのは洪承疇だ。
「我々が江南を取るのに時間をかけるように、連中も華北に攻め込む準備は全くできていません。西のチベット、東の朝鮮、北のモンゴルからの信任は揺るぐところがなく、清の土台が揺らぐことなどありえませぬ」
「そ、そうだな…。すまない。敗戦が続くとつい弱気になってしまう」
フリンも苦笑した。若いとはいえ、このあたりの切り替えの速さは特筆すべきものがあった。
「とはいえ、我々でさえこうなのだから、民衆はより動揺するかもしれぬ。順撫させなければならないな」
「素晴らしいお考えにございます」
洪承疇が賞賛する。その間、宗室内の最高権力者ジルガランは黙って聞いているだけであった。端的に言うと、状況が飲み込めていない。
「江南にも何かしら反撃の糸口は掴みたいものだが、そなたが向かうまでは諦めるべきだろうか?」
フリンの問いかけに洪承疇は不敵な笑みを浮かべる。
「確かに大きな手を打つことはできません。しかし、小さな手を辛抱強く打つことは大切でございましょう」
「何かあるのか?」
洪承疇に策あり、と見たフリンとジルガランが身を乗り出してくる。
「現在、李定国の名声は天を衝かんほどでございます。こういう時は、あえて正面に立ち向かうのではなく、後ろに回って押してやることも一つの手でございます」
「押す…ということは、李定国に更に名声をなさしめるということか?」
腑に落ちないという様子でフリンが問いかける。洪承疇は頷いた。
「はい。勢いを増し過ぎると人は方向転換が効かなくなりますし、更にはそれを妬む者も出てまいります。既に安竜の永暦帝は李定国に猜疑心を抱いているとのこと」
フリンが「そうか!」と声をあげた。
「袁崇煥と同じようにすれば良いというわけじゃな」
「はい。左様でございます」
「よし。ならば李定国に大きな官職でも用意しようではないか」
フリンが提案した。
袁崇煥を陰謀で抹殺した時には、当時の明皇帝への偽の情報提供だけで足りていた。しかし、今回はそれだけではなく実際に清から李定国へ官職を授与しようというのである。
李定国が受ける、受けないは別として、永暦帝の李定国に対する警戒心が更に増すことは疑いようがなかった。
朝議が終わった後、洪承疇は自宅に戻り溜息をついた。
「どうかなさいましたか?」
家人が不思議そうな顔を向けた。
「いや、わしが死んだら、何と言われるだろうと思って、な」
「もちろん、清の英雄ではないですか?」
家人の素朴な答えに、洪承疇は苦笑した。
「清も今でこそわしを頼っているが、死ねばそうはいかないだろう。まして、清が安定した後ともなれば、安定が必要となる。恐らくわしのことは弐臣として軽蔑の対象になるだろうよ。仮に鄭成功が最後まで明のために戦ったとすれば、あちらがあるべき忠臣の姿として北京で記憶されることになるだろうな。百年もすれば、誰もわしのことなど語らないようになる」
「そのようなことは…」
「そういうものなのだ。国というものは、な」
「……」
「もちろん、だからといってわしが諦めていいわけではない。何も残らないとしても、今のために頑張らなければならん。それに鄭成功にも簡単に名前を残させないようにしてやらねばならぬだろうし」
そこまで話をした時、使用人が走ってきた。
「旦那様、陛下からのお客様が参られています」
「陛下からの?」
洪承疇は首を傾げた。そんな話は聞いていない。
(もしかしたら、陛下の名前を借りた刺客だろうか?)
そうも思ったが、最終的には『陛下からの』という言葉に負けて玄関まで迎えに行く。
玄関にいたのは背の低い細身の男であった。どこかで見覚えがあるが、誰であるかは思い出せない。
「どなたかな?」
「はい。
「おおっ!」
洪承疇は思わず大声をあげた。
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