第2話

 順治十年の正月が明けると、皇帝フリンは洪承疇(こう じょうちゅう)を呼び出した。


 洪承疇はかつて明の将軍として対清討伐に出撃し、降伏したという経歴の持ち主であった。明から清に降伏した者としては、呉三桂や孔有徳ら大勢いるが、武官あがりの彼らと比べて洪承疇は進士出身である。


 崇禎帝から直々に清から防衛するようにという命令を受けておきながら、相手に降伏したということで、白目を向ける者はより多かった。




 更に、清に降ったのはよいが、洪承疇を信任して使ったのはドルゴンであった。ドルゴンはその没後に謀反の罪をかぶせられてしまい、それに伴いドルゴン派の人材も朝廷内での力を失った。洪承疇もドルゴン派の人物として嫌疑を受けることとなった。幸いにして無罪ということになったものの、しばらく大人しくすることを余儀なくされていたのである。




「陛下、洪承疇参りました」


「おお、よく来てくれた。あと、先年のダライ・ラマの件、よくやってくれた」


「ははっ。有難き幸せに存じます」


 先年のダライ・ラマの件というのは、チベットの指導者ダライ・ラマ5世が北京を訪れていた。これを執り行ったのが洪承疇であった。


「そなたの尽力もあり、チベットは我々清に服従した。西と北の方はうまくいきそうであるが…」


 そこまで説明されると、皇帝が何を言いたいかを洪承疇も理解する。


「南と東でございますか」


「南と南東と言った方がいいかもしれんな。特に南は緊急の状況にあるようだ」


「はい」


「呉三桂や尚可喜はよくやってくれてはいるが、奴らで李定国を抑え込むのは難しい。どうにかしてくれぬか?」


 洪承疇はしばらくうつむいて考え込んでいる。「お任せください」と即答するものと期待していたフリンは、けげんな顔をした。


「どうした? 朕に不満でもあるのか?」


「いえ、そういうわけでは…。ただ、臣は既に61でございます。長い遠征に耐えられるものか」


 政争に巻き込まれていたことや、更には親の服喪期間もあり、洪承疇は長いこと戦場に出ていない。高齢を考えれば、辞退したいという心境はもっともなものではあったが、フリンは首を左右に振った。


「洪承疇、そなたしか頼れる者がおらぬのだ。どうか朕を助けてもらえぬだろうか?」


 そう言って、洪承疇の両手をとる。


 皇帝にここまでされては断るわけにはいかない。洪承疇は頷いた。


「分かりました。南の李定国に対しては何とかいたしましょう。しかし、東の方は…」


 東、というより南東の鄭成功に関しては、水軍経験のない洪承疇にはどうにもならない。


 実際には李定国と鄭成功の連携は難しいのであるが、北京にいる洪承疇にはそれがなされた場合にどう対処するかという良案がなかった。


「それは朕の方で現在手を打っている。二年、いや、三年形勢を維持してくれれば、何とかなるであろう」


「承知いたしました。この老骨にできる最後の奉公をいたしましょう」




 洪承疇は紫禁城を下がると、地図を開いて思案に暮れる。


 そこにジルガランがアルジンを連れて現れた。アルジンは満州八旗の一つを担うイルゲン氏の出身で、清と明が遼東で睨み合っていた時にはまさに洪承疇と対峙していた将軍である。


「これはアルジン殿、いかがなされた?」


「はい。陛下より、状況に応じて洪将軍を助けるようにと指示を受けてきました」


「そうか。それは有難い…。ただ、状況は芳しくない」


 地図を開くと、ジルガランも付き添う。洪承疇が説明する。


「大きな問題は、地元にいる面々は状況に応じて、明につくか清につくか決めかねているところであります。彼らについてはあまり期待をできないでしょう。もちろん、彼らの明への忠誠もたいしたものではありませんので、積極的に敵として構える必要はないのですが」


「うむ。味方としても期待できないが、敵としても恐れすぎるなということだな」


「現在、四川と雲南の境に呉三桂がありまして、尚可喜と耿仲明は広州におります。ただ、広州については李定国・鄭成功両軍が攻撃をしている状況でございまして、現状、ここまで救援に向かうことは現実的ではありません」


「水路も陸路も塞がれているからのう」


「従いまして、呉三桂の四川からまずは救援をしていくことになりますが、ここはチベットの助けも受けることが良策でありましょう」


「チベットか…」


「はい。幸い、前年、私がダライ・ラマとの折衝を行いましたので面識はございます。チベットからの兵の支援はないと思いますが、糧秣の支援があるだけでも全く変わってまいります」


 洪承疇の説明に、二人は頷いた。


 チベットに軍事力がないということはない。しかし、その軍事力はモンゴル系のグーシ・ハーンの武力の下にある。モンゴル系ということは騎馬が中心であり、四川でも江南でも役に立たない。また、青海を本拠としている彼らまで呼び出すとなると清としてもかなりの条件を提示しなければならなくなる。


 そのような無意味な兵力をあてにする必要はない。


「とにかく、四川から状況を好転させることが肝要です。元々は李定国も四川の大西国から出てきたわけですから」


 洪承疇は力強く語った。

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