第八章 洪承疇

第1話

 順治九年の年の瀬。


 衡陽での敗戦の報告が北京へともたらされた。


「ニカンが戦死しただと?」


 報告を受けた皇帝フリンも愕然となった。二十万の軍勢が大敗北を喫し、しかも、皇帝の親族が戦死したのである。


「我が朝廷に軍はないのか!」


 順治帝がそう叫んだとも言われるほど、衝撃的な敗戦であった。




 順治帝はジルガランを呼び出した。


 ジルガランは、ドルゴンの死去後、一門の中で最有力となったが、ドルゴン時代完全に風下に立たされていたように、ずば抜けて有能というわけではない。従って、順治帝も全幅の信頼を寄せることはできなかったが、一方でまだ15歳の皇帝が全てを行うことは不可能である。


「江南の方は危機的な状況にあると聞いております」


 現れたジルガランが危機感を露わに進言する。


「うむ。どうすればよい?」


「…やはり辮髪令がまずかったのでは…」


 ジルガランが主張したのは辮髪令の撤回である。これがある以上、漢人は満州族に心服はしない。これを撤回すれば漢人がより働くのではないかということであった。


 しかし、過去何度かの提案が取り下げられているように、フリンは今回もこれを退ける。


「いや、これを取り下げてしまうと、かえって漢人が満州人に勢いなしとより反発する可能性がある。ドルゴンは謀反人であったが、満州至上主義者ではなかった。そのドルゴンが取り入れた方策を退けると、朕の皇帝としての評価に疵がつく恐れがある」


「……」


「まずは現状についての状況をしっかり弁えねばならん。誰でもいい。詳しい者を呼んで参れ」


 ジルガランが下がると、フリンは思わず愚痴をこぼす。


「全く…。あのような愚鈍な対応をしておるから、ドルゴンにしてやられたのであろうに」


 と同時にドルゴンのことを思う。母を我が物にしようとした憎き叔父である、恨みは大きいが、一方で優れた政治家であったことも事実である。


(あのようになるには、何が足りない?)


 と考えた時、叔父の残したもののうちで、自分が我が物にできうるものを思い出した。




 翌日。紫禁城に現れたのは鄭芝龍であった。


「陛下、お呼びと伺い、はせ参じましたが」


「おう。そなたは福建の鄭成功の父親だそうだな」


「はい。まあ…」


 鄭芝龍は嫌そうな顔をした。


「正直申しますが、息子のことにかけてはどうする自信もありません。あれはつま先から髪の毛の先まで明の血が流れております。私と顔を会わせたら、真っ先に切り殺そうとすることでしょう」


「分かっている。お主に関して調べさせてもらった」


「そのうえで、この老いぼれに何用で?」


「お主は海で長らく暴れておったようだな?」


「ええ、まあ。しかし、お調べになったのならお分かりかと思いますが、海軍も全て息子に奪われておりますので、どうすることもできません」


「作れ」


 フリンの言葉に、鄭芝龍が目を見張る。


「は? 今、作れとおっしゃいましたか?」


「そうだ。今ないのなら、これから作れ」


「どちらに?」


「天津に、だ」


 北京の南東にある天津には、天津左衛、天津右衛、天津衛があったが、これを統合して天津という一つの基地となったところであった。


「しかし、船があっても乗る者がおりませんが…」


「そんなことまで貴様が気にする必要はない」


 フリンが苛立った様子で答え、鄭芝龍は慌てて平伏した。


「朕も、一日や二日で水軍の兵士が集まるなどとは思っておらぬわ。しかし、船がないことには何一つできぬのも事実ではないか。まさか水軍の訓練は泳ぐところから始めよとでも言うつもりか?」


「そ、そのようなことはございません」


「ならば、ともかく鄭成功に勝てるだけの水軍概要だけでも考えよ。それができたのなら、改めて朕に提出せよ」


「し、承知いたしました」


 鄭芝龍は気圧されたように承諾し、慌てて引き下がっていった。



 その頃にはジルガランからの地図も届いていた。


「これは…予想以上に深刻だな」


 長江の南の幅広い範囲で、明軍の方に寝返るという予想が立てられていた。そのため、色分けをされている地図の南部はほとんどが明の色に染められていた。


「これで呉三桂達が寝返れば、清は長江以南の全ての地域を失うことになります」


「そうだな。ただ、奴らは寝返るに寝返れぬだろう」


 フリンの言葉に、ジルガランも頷く。


「まあ…、明としても奴らを再度許すというわけにはいかないでしょうしね」

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