第9話
柳生十兵衛は屋敷の中で福建語の本を読んでいた。
「失礼いたします」
という声に視線をあげ、「ほう」と声をあげる。
「珍しい取り合わせだな」
「私が希望したわけではないのですが…」
正雪がことわる。望んだわけではない。庄左衛門が勝手についてきたのである。
「まあ、何もないところだが」
十兵衛の勧めに従い、机を囲む。庄左衛門は「あれ、飲むのではないのか?」というような不思議そうな顔をしている。
「何かあったのか?」
「先ほど甘輝将軍に、こちらにいた皇帝のことについて聞いてきました」
「ほう」
「六年前に生後程なく亡くなった子がいたそうです」
正雪の言葉に十兵衛は庄左衛門を見た。
「お主なら何とする?」
「へっ?」
十兵衛の問いかけに庄左衛門が素っ頓狂な声をあげた。
「明の皇帝は遠くにいるうえに、あまり出来もよくないという。そこに、六年前に亡くなったという皇帝の子供の情報がある。どうする?」
「す、すみません。何のことやらさっぱり…」
庄左衛門の正直すぎる答えに、十兵衛が「はあ」と落胆したような溜息をついた。
「つまり、その子が生きていることにすればよいのじゃ」
「はあ、なるほど…」
間の抜けた答えを返したあと、庄左衛門がギョッと目を見開く。
「えぇっ!? 死んだ皇帝の子を生きていたことにするのですか?」
「そうじゃ。日ノ本でなら、末期養子でも立てることになるのだろうが、ここではそういうわけにはいかんだろうから、生きていることにする」
「し、しかし、そんなことが嘘だとバレたら…」
「バレぬようにすればいいのだ。何を間の抜けたことを言っておる?」
平然と話す十兵衛とは反比例して、庄左衛門はどんどん慌てていく。
「そんなことを鄭成功が認めるのでしょうか?」
「認めるも認めぬもないだろう。君、君たらざれば、臣、臣たる必要なしという言葉くらい知っておろう。それとも、お主が遠い雲南にいる皇帝を我々に協力するようにできるのか?」
「そ、それは不可能です」
「であれば、賛成せい。そして、何かあった時には、武士らしく腹を切ってみせい」
「え、えぇぇ?」
庄左衛門は訳が分からないという顔をしながらも、「ま、まあ、いざという時には」と承諾する。様子を見ていた正雪は堪えきれず笑いだす。
「それでは、国姓爺と話をしてきます」
「うむ。承知した」
「ま、待て、正雪。本当に話をするのか?」
庄左衛門が翻意を促すかのように問いかけてくる。
「当然」
正雪は平然と聞き流し、後は十兵衛に任せて鄭成功の屋敷へと向かった。
鄭成功の屋敷は既に日が変わった後の準備をしているようであったが、正雪が来たということですぐに迎えに来る。
「先ほど、甘輝殿と少し話をしていました」
「ほう」
「先帝には、すぐに亡くなられたお子様がおられたとか」
正雪の言葉に、鄭成功の表情が険しくなる。何をしようとしているのか、おおよその見当がついたらしい。
「先生の意図は分かりますが、さすがにそれは明の臣としてできぬ相談でございます」
「はい。それは理解しております」
「…?」
「国の遺臣として、勝手に皇帝の子の生存をでっちあげることが無理だということは理解しております。しかし、向こうがそう考えるように少しだけ工夫することくらいは認めていただけないでしょうか?」
「向こうが、そう考えるように?」
鄭成功は口元に手をあてて考え、少ししてから微笑を浮かべる。
「…なるほど。向こうが誤解をする分には、仕方ありませんね」
そう答えると、配下を何人か呼び、指示を出す。
「ここ厦門にある先帝の廟をよりしっかりしたものにするように。あと、この街を探して、六歳くらいの子供を親とともに連れて参れ」
「ははっ」
指示を受けた兵士は「晦日なのに」という嫌そうな顔をしたが、鄭成功と正雪もいるうえでの指示となると、厦門にとって重要な指示であるから引き受けるしかない。
出て行った兵士を見て、鄭成功が笑う。
「これでよろしいですかな?」
正雪は一礼した。
「はい。ありがとうございます」
廟を立派にして、そこにしっかりとした礼服を着た少年がいて、一同が恭しく礼をしているという情報が伝われば、誰も彼も、隆武帝の息子を疑うであろう。別に公言などする必要もなく、あとは噂話に任せていればいい。それだけで永暦帝の側が警戒するに違いないし、場合によっては何かしらの譲歩をしてくる可能性もある。
何も、大いに主張をする必要はないのである。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます