第8話

 由井正雪らの一行が厦門に戻ったのは、永暦六年の晦日であった。


 その間、鄭成功は福建周辺の支配を更に強めており、沿岸部から内陸部にかけても広い領土を確保していた。


「李定国の勝利のおかげで福建全体を確保することもできるかもしれませんが…」


 正雪の報告を受けて腕組みをする。


「陛下の近くにいる者をどうにかしないことには、難しいということですか」


「はい。左様でございます」


「…福建に皇帝を抱えていた時も同じような問題が起きていました。このままでは佞臣達にすり寄られてしまう可能性がありますか」


「はい」


「それは参りましたね。李定国にどうすることもできないのであれば、福建にいる我々にはもう一つ厳しいことになりますし」


 鄭成功も頭を抱えた。


「…当面、陛下とのことは保留しておいて、李定国と共同して広州を攻めるしかないでしょう」


 正雪の言葉に、鄭成功は頷いたが。


「李定国は信用に値するものでしょうか?」


「信用に値するかそうでないかと申すより、信用するしかない状況です。李定国を信用しないというのであれば、明ではなく、鄭氏政権として進むくらいの覚悟が必要ではないかと」


「むむっ…」


 明ではなく、鄭氏政権とまで言われてしまうと鄭成功にはどうすることもできない。それは父・鄭芝龍の目指した道であり、鄭成功が否定した路線である。そこに舞い戻るというのは彼にとって絶対にできない道である。


「…分かりました。先生の勧めに従うことにいたしましょう」


「はい。他に良策がございましたら、参ります」


 正雪は一礼をして、鄭成功の屋敷を出た。



 その足で、正雪は通訳を伴って甘輝の屋敷へと向かった。


 通訳を伴ってはいるが、既に一年以上いることもあり、正雪もある程度の福建語は分かるようになってきている。しかし、万一の誤解などがあっては大変なので、遊びの時以外は常に通訳を伴っていた。もちろん、日本語を解している鄭成功相手の場合には、一人で話をすることもあるが。


 甘輝の屋敷も新年の準備を進めていたようであり、慌てて玄関に出てきた。


「これは由井先生、まさか本日来られるとは思っておりませんでした」


「はい。甘将軍に一つお伺いしたいことがありまして」


「何でございましょう? 私の知ることであれば何でも答えますぞ」


「それでは…。数年前に亡くなった隆武帝についてお伺いしたいのですが」


「ああ、あれは何とも困った御仁でありましたな。元々、鄭芝龍が持ち上げたのでございますが、次第に持ち上げられていることに不満をもつようになって、勝手に軍を編成してしまったのでございます」


「…勝手に軍を?」


「はい。鄭氏にしても海以外では余程の準備が必要なのに、彼は側近の言葉に耳を傾けて皇帝たる自分が出撃すれば勝てると思ったようですね」


「それで負けたというわけですか」


「はい。一応、虜囚の辱めを拒否して絶食して死んだということにしておりますが、福州で斬られたという話も実しやかにささやかれております。実際に居合わせたわけではないのでどうとも言えませんが」


「なるほど」


「隆武帝が何か?」


 正雪が聞くので、知る限りのことは答えたという様子であったが、何故今になってこんなことを聞いてきたのか、その意図はつかみかねているようである。


「隆武帝には男子はおりませんでしたか?」


「ああ、一人だけいたのですけれど、生後すぐに亡くなってしまいました。そのあたりも無謀な出兵に影響したのですかねぇ」


「…生後すぐに亡くなっていましたか」


「そうですね」


「…分かりました。ありがとうございます」


 正雪はその場で少し思案した後、甘輝に礼を言って別れた。



 甘輝の屋敷を出ると、今度は柳生十兵衛の屋敷を目指そうとした。


 途中で、正雪は顔をしかめる。正面から戸次庄左衛門が歩いてきている様子が見えたのである。


「おお、正雪ではないか。どこに行くのだ?」


 庄左衛門から声をかけられ、正雪は誤魔化すように笑う。


「うむ。特に予定はないが、ちょっと散歩をしておってな」


「そうだったか。それでは、わしも一緒するとしよう」


 庄左衛門の言葉に、正雪は「おいおい」と声をあげる。


「そなたはそなたの用があるだろう。俺についてくることもない」


「はっはっは。大晦日だぞ、男どもと飲み交わすか、女のいるところで飲むかくらいしかやることはないわ。となると、お主と飲み交わすのも悪くないと思った」


(いらない時にだけついてくる…)


 諦めた正雪は、仕方なく庄左衛門を連れて十兵衛の屋敷に向かうこととした。

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