第5話

 十一月十九日に湘譚を出発したニカンの軍は、二日後には馬進忠の軍と合流した。


「何だ、あの貧相な軍は?」


 ニカンが敵部隊を見て、失笑した。


「数も少ないし、装備も貧相ではないか。あの程度の軍に敗れたとは、呉三桂達も焼きが回ったものよのう」


 ニカンは、ヌルハチの曽孫にあたるだけあり、貴公子として育てられており、また率いるのは満州八旗、紛れもない精鋭部隊である。兵士の栄養状態もしっかりしており、体格も立派である。


「どれ、軽くつぶしてくれよう」


 ニカンの指示で清軍は前進を開始した。


 敵軍は少し矢を撃ちあったが、やがて後方に移動しはじめた。


「もう逃げ出したぞ! 追え、追え!」


 清軍はすぐに追撃を始める。


「もう少し慎重でもよろしいのでは?」


 一等伯の程尼が疑念を呈するが。


「兵は神速を貴ぶと言うだろう。勢いを自ら削ぐようなことがあってなるものか!」


 と、取り合わない。


 それでも程尼は自分の部隊を押さえようとしたが、既に多くの者達が勝ち戦と信じてしまっている。逃げ遅れた者達を追いかけているうちに、自分達だけ出遅れるわけにもいかないという心理が働いてきた。



 山の中から眺めている正雪にも北の状況が次第に見えてきた。


 馬進忠はさすがにうまい。適度に軍を縦長にし、脱落者も出して清軍に敗走だと信じ込ませている。


(遅れてしまった者はそれだけで命の危険があるというのに、それを簡単にしてのけるというのは、それだけ兵士達の将帥への信望が高いということだ)


 李定国の軍と鄭成功の軍が戦ったらどうなるか。正雪は思わずそんなことを考える。


 鄭成功は魅力的な人物ではあるが、多分に剛直に過ぎるし、性急なところがある。施琅がぼやいていたように部下が心服しているかどうかも怪しい。


(国姓爺が同じ作戦をした場合、兵士達が命惜しさに本当に敗走するかもしれない)



 清軍の追撃は一日近くにも及び、衡山へと差し掛かってきた。


 そこで山の西側に伏せていた李定国軍が山を回って迂回し、清軍を背後から攻撃した。


 それを確認した李定国が合図を出すと、山の中に潜んでいた兵士達が一斉に銃や矢を放つ。その様子を確認した馬進忠の軍勢が一斉に向きを変え、清軍を正面から攻撃する。


 今や、清の大軍は西を衡山に、東を湘江の流れに遮られ、前後と片翼から包囲攻撃を受けることになった。


戦況図

https://kakuyomu.jp/users/kawanohate/news/16816927861549704492


「な、何が起こったのだ?」


 指揮をしていたニカンは突然の事態の変更に対応できなかった。


 まごついている間に、清軍は瞬く間に横と背後から数を減らしていく。


「親王閣下! 我々は包囲されてしまいました」


「…馬鹿な」


 それしかないと分かっていても、ニカンには目の前の光景が信じられなかった。


「かくなるうえは血路を開きますゆえ、親王閣下だけでも退却を!」


「馬鹿なことを言うな。私は賊軍を撃つためにここまで来たのだ! 帝国の宗室たる私が、何の面目があって、逃げ帰るなどできようか! 逃げも隠れもせぬ!」


 ニカンはそう叫んで退却を拒否し、自ら武器をとって前線へと向かう。


「じ、冗談ではありませんぞ! 誰か総大将を止めるのだ!」


 程尼の叫びもむなしく、ニカンはすぐに最前線へと向かう。


「後ろと横は気にするな! ここを突破すれば、衡陽まで一気ぞ!」


 ニカンは前線の兵士を鼓舞するが、そこは李定国も承知済のことであり、馬進忠も腹をくくっている。清軍の激しい攻撃にも一歩も引かないばかりか、次第に攻勢をかけていく。


「何故だ! 何故あんな貧相な軍に?」


 ニカンは絶望的な叫び声をあげた。


 江南の地形では自慢の八旗もその機動力を封じられるばかりか、気候に慣れないこともあり目に見えない消耗を強いられていた。それでいて、無理な追走を一日近く強いられていたのであるから、体力的に限界に到達している。


 一方の李定国軍は元々の計画通りであるため、もちろん、疲労はあるがそれも計算されたものであり、予想外のものではない。しかも、衡陽へとつながる街道はそれほど広くないので一度に相手をしなければならない人数も多くない。


 規則通りに交代することで消耗を最小限に抑えていた。



 とはいえ、李定国軍八万をもってしても、二十万の清軍を撃滅するには一日では足りなかった。二日、三日と攻勢をかけて次第に数が減っていき、耐えきれなくなった清軍は無我夢中で湘江へと飛び込む。


 総大将のニカンも重傷を負って、ようやく担ぎ出された。


 何とか用意した船で北へと向かうが、傷は重く十二月二十三日に死亡した。




 かくして、衡陽の戦いは李定国の圧勝に終わった。


 清は帝国宗室の一人を失うという大敗を喫し、江南地方における清の威信は大いに揺らいだ。


 明を復興させようとする者にとっては最大の好機であった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る