第8話

 清の中央政府は、未だドルゴン死後の混乱から完全に抜け出せてはいなかった。


 前年二月に始まったドルゴン弾劾の動きから、清の中央政府での主導権争いが始まり、順治帝が親政を敷き、ジルガラン派がドルゴン派を一掃し権力を取り返すという形で落ち着いてはいたが、未だ漢人官僚の間で抗争や弾劾が続いていた。


 そのため、この時期、清の政府は南方の情勢について積極的な指揮をなすことができず、それぞれの軍閥に任せきりの状況であった。そういう中で、孔有徳の戦死という事態が発生したのである。



 もちろん、呉三桂、尚可喜、耿継茂の三人にとって、同僚の孔有徳の戦死は大いに動揺するところであったが、それ以上に北京の動向が気になるところであった。彼らは明にいた頃に権力の交代により、それまでの権勢家が一夜で落日する様子も見てきている。自分達がそうならないという保証もない。


 しばらく積極的な戦闘を控えて、北京の宮廷の状況の見極めに力を入れるしかないのはやむをえないところであった。



「これは好機かもしれませんな」


 途中、中継地点として寄った南澳で情報を整理していた正雪がつぶやく。


「好機というとどういうことであろう?」


 通訳から聞いた施琅がけげんな顔で尋ねる。


「呉三桂らは我々を倒さなければならないと考えていますが、それ以上に自己の勢力を失うことも恐れております」


「それはそうであろう。軍のない呉三桂らは何の意味もない」


「しかも、彼らは率先して清に走っておりまして、あまり人気がありません。当人達もそのことはよく知っているでしょう」


「一か八かの戦いはしたくないということか」


 呉三桂らは清が北京を奪うことができ、中華王朝として確立させた殊勲者である。しかし、殊勲者であるということは、それだけ狙われる立場でもある。しかも、辮髪令には真っ先に従うなどして一部の漢人からは恨みも買っていた。


 呉三桂がもし大敗でもしようものなら、これ幸いと弾劾する動きが出てくるかもしれない。呉三桂は安全を保つために負けるわけにはいかない立場なのである。


「左様でございます。我々の目的は彼らに勝つことではありませんので、我々の存在を大いに広め回るのも手かもしれません」


「なるほど…。梅州や厦門で大活躍した未知の軍がついていると思わせ、簡単には勝てないと思わせるわけだな」


「そうすれば、敵軍は広州に籠ることになると思います」


「うん?」


 施琅の表情が曇った。


「広州に籠られては、我々が落とすのが大変になるではないか」


「施琅殿、我々の最終目標は何でありましょう?」


「それは南寧にいる永暦帝を連れてくることだろう…。あ、まさか」


「はい。敵軍の主力を広州に寄せ、一部隊が更に西側、欽州から南寧を目指します」


「確かにその方法ならうまくいくかもしれぬが、危険ではないか?」


 広州に引き付けることは可能であろうが、他は全く放棄ということもないだろう。欽州上陸後、清軍に発見された場合、少数での行動になると一たまりもない。


「…今までうまく行ってきたのだ。今回もうまく行くと信じよう。私の軍は広州を攻撃すればいいのだな」


「はい。お願いいたします」


「それは任せてほしい。時に…」


「何でしょう?」


「今回の件とは全く関係のない話なのだが、一つ聞いてほしいことがある」


 施琅の表情が暗い。何やら深刻なことがあるらしいと察した正雪は「何なりと」と応じる。すると、「酒でも飲みながらにしようか」と立ち上がって、南澳城内の料亭へと向かった。



「話というのは、殿のことだ」


「国姓爺の?」


「うむ…。近頃、新しい者を盛んに軍に入れて訓練を積んでいる」


「左様でございます、な」


 勢力圏が広がるにつれて、兵力が増えてくるのは当然のところであり、あまり不思議なことではない。


「それは仕方ないところではあるのだが、どうも自分達の子飼いを優先したいという意向が強い。我々は父親の部下であり、国姓爺自身も鄭芝龍の下にいたということでは同格だからのう。煙たがられているようなところがある」


「…なるほど。言われてみれば…」


 正雪も鄭成功の軍の編成について気になるところがあった。こちらは施琅の言うようなものではなく、いわゆる文人を贔屓して軍に入れようとしている気配があるところであった。


「国姓爺はどうにも、我々を海賊上がりと見て馬鹿にしている節がある。我々がいるから勝ててきたのに…」


 施琅は自らの杯をぐっと飲み干し、すまないとばかりに手のひらを向ける。


「いや、これは愚痴であるが、このまま国姓爺の希望する形で軍編成が進むと危険ではないかと危惧している。国姓爺は正雪殿の意見はよく聞いているので、折を見て進言してもらえないだろうか?」


「分かりました。今回の作戦が成功しましたら」


「よろしく頼む」


 二人は握手を交わした。


 その翌日、軍団は南澳を出て、広州へと出発した。

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